2026年5月10日日曜日

20260509 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.186‐193より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」
pp.186‐193より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

隼人と相撲
 一九六九年、私は和歌山市の井辺八幡山という前方後円墳の墳丘の一部を発掘したことがある。現地では小さな破片になっていた埴輪や須恵器を大学の研究室で復元していると、予想もしなかった力士の埴輪のあることに気がついた。
 腰から股にかけてのふんどしと額(ひたい)につけた鉢巻のほかは着衣のない裸体であり、たばねた髪を後頭部に垂れ、顎鬚をたくわえ、顔面に入墨をしていて、従来の埴輪の人物からは想像もできないほど異相の人であった。私にとっても未知の研究分野であったため、相撲史料をあたるうちに隼人につきあたり、もう一つ、葬儀と相撲との関係がでてきた。  
 井辺八幡山古墳では、墳丘のくびれた部分に設けた造出しとよぶ平坦地に六体、三組の力士の埴輪が置かれていた。そこでいくつかの史料から葬儀にともなった相撲の関係を考えて報告書で述べた(「井辺八幡山古墳」同志社大学文学部考古学調査報告5、一九七二)。  ところが一九八五年八月の群馬県上野村山中への日航ジャンボ機墜落事件のとき、次のような新聞記事がのった。見出しには「仮土俵作り”鎮魂式”伊勢ヶ浜親方の若い力士ら」とあって、伊勢ヶ浜部屋の若い力士らが山を登って、異臭と遺体搬出のヘリコプターが離発着のたびにたてる砂煙のなか、機体の残骸のそばに部屋から持ってきた土でミニ仮土俵をつくり、塩を仮土俵にかけて、事故で亡くなった伊勢ヶ浜親方のご家族たちの鎮魂をしたという(「サンケイ新聞」八月十六日)。
 私はこの記事を読んで、相撲の一つの役割がなお伝統として生きていたことに驚いた。 さて相撲と隼人の関係に話を戻そう。六八二(天武天皇十一)年、殖栗(えくり)王が卒したという記事につづいて、次のように述べている。
 「隼人多く来り、方物を貢る。この日、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つぬ」 (『日本書紀』)
 隼人といえば南部九州に居住する集団だと一般に理解されていて、それは原則的には正しいことだが、隼人についてはこの相撲の例のように、さらに地域名を冠した区別があった。大隅(大角・大住)隼人、阿多(吾田)隼人のほか、日向隼人、薩摩隼人、甑隼人などの呼称が見えるが、大隅隼人を例にとれば、大隅の住人がすべて隼人であったという意味より、大隅という地域に居住する、あるいは大隅を出身地とする隼人の意味が強いようである。

隼人と馬文化
 隼人と馬文化 推古二十年(六一二)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があった。このとき、蘇我馬子の作った歌に和して、推古女帝は蘇我我をたたえる歌を作った。
 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
 この歌で立派なものの喩えとして、日向の駒と呉の真刀がでているのはさまざまな意味で注目される。中国でも銅器や鉄器のすぐれた製作地として江南、つまり呉の地があったことは最近立証されてきたことである。推古女帝の歌に、日本では日向、中国では呉が対置されていることを、先ほどからの南部九州での”呉国”意識に照合すると、単なる比喩としてだけでは見逃せないものがある。 それはおくとして、「馬ならば日向の駒」の日向についてである。というのは、今日的にいえば日向は宮崎県である。また、西都市百塚原古墳群で出した優秀な鞍金具(五島美術館蔵)をはじめ、古墳の馬具は豊富に発掘されているし、野波野、堤野、都濃野などに馬牧はあった(「延喜式」)。けれども、八世紀はじめに薩摩国と大隅国が相次いで日向国から分置されるまでの日向は大隅と薩摩の地を包括していたのであって、推古女帝がほめたたえた日向の駒は、隼人の馬であった可能性が強いのである。隼人と馬文化については、『肥前国風土記』の一文を紹介したが、額田部湯坐連の祖先伝承も見落とせない。それは氏の祖が允恭天皇のとき、薩摩国に遣され、隼人を平らげ、額に ”町形(占で鹿骨や亀甲に刻む田字形)の斑毛” のある馬を天皇に献じたことにちなんで、額田部の姓を賜ったという(「新撰姓氏録」左京神別)。

南部九州のさまざまな墓制
 このように、文献にのこる地域名を手がかりにしては隼人集団の整理がむずかしいので、視点をかえて墓制からさぐってみよう。
 南部九州の墓制には、前方後円墳や円墳などのいわゆる古墳、崖に墓室を掘削した横穴、台地のような平坦地から垂直に竪坑を掘ってその底部から横穴を掘削した地下式横穴(これにはまれに墳丘をともなう。地下式土壙ともいう)、土壙を掘って埋葬し、標識として石を立てた立石土壙墓、それと地下式板石積石室など種類が多い。このうち地下式板石積石室が長崎県小値賀島の神ノ崎古墳群に存在することは前に述べた。
 ところでこれらの五種類の墓は、南部九州一円に混在するのでなく、地域的なまとまりが見られる。そのことについては乙益重隆氏、中村明蔵氏、河口貞徳氏らによって指摘されてきた。それによると、一ツ瀬川以南の宮崎県と大隅を含む地域、いいかえれば霧島山を望む地域は、古墳も多いが、同時に横穴や地下式横穴があるのにたいして、薩摩でも川内川流域から大口盆地など北部には地下式板石積石室が分布し、薩摩半島南部の小地域、とくに山川町の成川遺跡に立石土壙墓が集中する。 日本列島の古墳時代に、このように地域によって墓制のうえに集団的な特色のでているところは珍しく、そのような地域性が、文献にも大隅隼人や阿多隼人などと区別されていることに通じているであろう。


隼人集団と墓制の関係
 墓制のうえから設定できた三地域が、文献にあらわれるどの隼人と対応するかはなお若干の問題をのこしている。つまり宮崎県南部から大隅にかけての古墳、横穴、地下式横穴の混在地帯が大隅隼人に関係していることについてはまず異論はない。また薩摩半島南端部の立石土壙墓が、阿多隼人に関係することもまず動かないだろう。 阿多隼人というのは、海幸・山幸神話の海幸彦、つまり「記紀」では火照命(「火闌降命」)を祖と伝え、また皇室との婚姻関係をも伝える隼人の名門である。その経済的基盤としては、南島の物資の中継者的役割が強いと考えられている。南島の物資の一例は、水字貝、イモ貝、ゴホウラ貝などの貝類に見られるが、これらの貝は巧妙に加工することによって装身具として北部九州の弥生社会、さらに古墳時代になると、近畿地方はもとより中部地方にもその製品がもたらされている。
 とくに近畿地方の古墳前期の代表的遺物とみなされていた碧玉製の鍬形石およびその祖形としてのゴホウラ貝製品について、阿多隼人の領域と推定される枕崎市の松ノ尾砂丘の古墓からゴホウラ貝の製品が見つかって、改めて「記紀」の伝承との関係が考えられるようになった。
 なお地下式板石積石室の地帯については、薩摩隼人との対比で説く考え方もある。ただ時期の違いによって阿多隼人、薩摩隼人と書き分けていて、両者が別集団かどうかを疑問とする解釈もある。一九九〇年、金峰町の小中原遺跡で「阿多」の二字をヘラ書きにした九〜十世紀の土師器が出土し、ここに阿多郡衙があったともみられ、阿多の範囲を示す資料がえられた。
 立石土壙墓にしても、地下式板石積石室にしても、墓の在り方が密集的で、大隅隼人地域でみられたような集団の首長的な人物の墓と推定されるものは見つかっておらず、「記紀」の伝承にあらわれる阿多隼人の首長(阿多君)の墓地を推定するのは今後にまつとしよう。

山城に居住した大住隼人
 正倉院は、奈良時代の文書の宝庫である。いわゆる正倉院文書の一つに、断簡ではあるが隼人の計帳(調・庸の課税台帳)がある。今日でこそ「山城国隼人計帳」と名付けられてあるが、隼人といえば南部九州という先入観があったため、この計帳が京都府綴喜郡田辺町(もとの大住村を合併)に居住した隼人に関するものであることが知られたのは一九五一年のことであった(西田直二郎「洛南大住村史」一九五一)。
 南山城を旅行すると、山肌の荒廃が目につく。というのは南山城の丘陵の土質が軟弱で、そのため山砂利の採取地にされやすいからである。このように南山城の丘陵は横穴の掘削には不適当な土地であるのに、八幡市から田辺町にいたる男山丘陵には、松井横穴群をはじめ横穴群が点在するばかりか、崩壊した入口の状態を復元すると地下式横穴も混じっているという見方もある。つまり南山城の横穴(あるいは地下式横穴)は、その土地の自然条件によって発生したのではなく、南部九州、とりわけ大隅隼人の墓制の影響ではないかと私は考えている(「近畿地方の隼人」大林太良編「隼人」社会思想社、一九七五)。
 田辺町のかつての大住村の平地には、前方後円墳と前方後方墳が二基あり、丘陵には横穴群があって、このような古墳と横穴との共存関係もすでに大隅隼人の地帯でみたとおりである。そのような考古学的な知識を前提に隼人の計帳をみると、大住忌寸足人とか大住忌寸山守の名を見出すことができる。もちろん大隅(大住)隼人だけの居住ではなく、阿多君吉売という十六歳の女の名も見える。

隼人集団の意味
 近畿地方の隼人の居住地については、中原康富の一四四九(宝徳元)年十一月三十日の一文によって、山城国大住庄のほか、山城で二カ所、河内、丹波、近江などで具体的に地名をあげているし(「康富記」)、「延喜式」でも五畿内および近江、紀伊、丹波をあげていて、先述の井辺八幡山古墳の力士埴輪に一つのてがかりをあたえる。また大和国宇智郡の古代隼人についても史料が多い。
 私が地域問題の最後に隼人をもってきたのは、集団の移住、移動によって、隣りあった地域ではなく遠隔の土地でも、習俗をふくめ文化が伝播し、あるいは交流するということである。

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