2026年5月28日木曜日

20260528 株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」 pp.52-55より抜粋

株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」
pp.52-55より抜粋
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

崇徳上皇
 明治と年号が改元される半月ばかりまえ、慶応四年八月二十五日、明治天皇の勅使、大納言源朝臣通富、副使三条左少将は讃岐に下向した。勅使の一行は阿野郡坂出村(現在の坂出市)の港に着船し、そこから白峰にある御陵にむかった。天皇即位の翌日から懸案になっていた、崇徳上皇の御神霊を京都にむかえてたまつるためである。一行が白峰のふもと、高屋の阿気というところにたどりつくと、道の上方にみすぼらしい神社が建っている。高屋という地名から、高家神社というが、一名「血の宮」とも呼ばれる。  
 そこをすぎ、「煙の宮」をとおりすぎて、一行は白峰陵のまえに立った。西行が白峰陵をおとずれて、「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」となげいたのは、仁安二年か三年の秋であり、崇徳上皇がなくなられて、三、四年しかたっていないころのことであった。
 その後、白峰陵はなんども修築されて、慶応元年にもそれがおこなわれたが、その雰囲気は勅使一行が御陵のまえに立ったときも、ほとんど変わりがなかったはずである。勅使が御陵のまえに立ったその日は、崇徳帝の命日にあたる八月二十六日であった。勅使はうやうやしく額ずくと、明治天皇の宣命を崇徳帝の御神霊のまえによみあげた。

 天皇我詔旨登挂巻母畏伎 讚岐国阿野郡 白峰乃山陵爾鎮座須 崇徳天皇乃御大前爾恐 美恐 美母申 給波久登申佐久志保元乃年頃忌々志伎御事与利起利弖其終爾波海路遙祁伎此国 爾佐閉行幸氏御鬱憤乃中爾崩御良世賜閉留波何奈留禍 神乃禍 事両夜有祁年最母畏 久悲 伎事 乃極美登常爾歎伎思食須此者 素先帝乃叡慮奈利志爾其事平果志賜波受此現 世乎神去給比伎故 今度其大御意乎継志氏尊霊乎迎閉 奉 利其御積憤乎和米 奉 利賜波牟登思 食氏皇宮爾最近伎 飛鳥井町爾清祁伎新宮乎造利設 立二位権大納言 源 朝臣通富乎差使 氏尊霊乎迎閉 奉 利賜布故此由平平 久安 久聞食氏 速 爾多年乃宸憂乎散志御迎 人登共爾皇都爾還 坐氏天 皇朝 廷乎常磐爾堅磐爾夜守 日守 爾護 幸反 給比此頃皇軍爾射向比 奉 留陸奥出羽乃賊徒 乎波速 爾鎮 定米弖天 下安穏爾護 助 賜反登恐 美恐 美母申 賜波久登申
 慶応四年八月十八日

【人工知能の援用による現代語訳】 
 天皇(すめらみこと)が、言葉に発するのも恐れ多く尊き、讃岐国阿野郡の白峰山陵にお鎮まりになっておられる崇徳天皇の御前に、畏れ尊び、深く慎んで申し上げます。
 かつて保元の年頃、まことに忌まわしい出来事が起こり、その果てに海路遥かに遠く離れたこの国へと移られ、深い御鬱憤の中に崩御あそばされました。これは一体どのような災い、神の引き起こされた禍事(まがごと)であったのでしょうか。朝廷はそのことを思うたび、まことに恐れ多く、また深く悲しきことの極みとして、常に嘆き思し召してまいりました。
 この御霊をお迎えすることは、もとより先帝(孝明天皇)の深い思し召し(叡慮)でもありましたが、そのお心を果たせぬまま、先帝は現世を去り神去り(崩御)なされました。 そこで今、新たにその大御心を受け継ぎ、崇徳天皇の尊き御霊をお迎え申し上げ、これまでに積もり積もった御憤りをどうか和らげ、お慰め申し上げたいと思し召されました。
 そのため、皇居に最も近い飛鳥井町に、清らかな新たなる御社(白峯神宮)を造営いたしました。そして、二位権大納言源通富朝臣を勅使として遣わし、お迎え申し上げます。
 どうか、この朝廷の志を安らかに、平らかにお聞き届けいただき、長年にわたる歴代天皇の深い憂いをお鎮めください。そして、お迎えの人々とともに、懐かしき皇都(京都)へとお帰りください。
 そして、この皇朝と朝廷を、夜も昼も、とこしえに堅牢にお守りくださいますようお願い申し上げます。あわせて、今まさに朝廷に弓引き、抗っている陸奥・出羽の賊徒どもを速やかに平定し、天下をふたたび安穏の世へと導き、お守り助けくださいますよう、畏れ多くも深く慎んで、永永と申し上げます。
 慶応四年八月十八日

 こうして勅使は崇徳上皇の御神霊に還御を乞うたと、あくる二十七日、上皇の御遺影を神輿に奉じ、御遺愛の笙を副えて、日没時に下山した。二十八日に坂出港を出発、九月五日に京都に還った。高松藩主松平頼聡が命を受けて、伏見に奉迎し、神輿にしたがった。飛鳥井町の新しい神廟に、崇徳上皇の神霊は祀られた。じつに帝の死後七百五年目のことである。
 右に掲げた宣命にあるように、崇徳上皇の御神霊を京都に呼び迎えることを計画したのは、孝明天皇である。慶応二年、京都の飛鳥井町(現在は上京区今出川堀川東飛鳥井町)に白峯神社の造営が企てられたが、孝明帝の死去によって、先帝の遺志を明治天皇がついだのである。
 慶応四年といえば、ときあたかも戊辰の役の年、朝廷方は征討軍を東上させ、まさに奥羽諸藩を挑発して、一戦をまじえようとしていた。このとき、崇徳上皇の霊が、奥羽諸藩のほうに味方して官軍をなやましたとしたら、それこそゆゆしい事態になるかも分からないと、朝廷は判断した。そこで、京都に御還御をねがい、明治天皇の宣命にも、「此頃皇軍に射向い奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて天下安穏に護り助け賜え」という結語を入れることを忘れることができなかったのである。
 それにしても、この宣命の文章のなんと鞠躬如として、崇徳天皇の御霊にむかっていることか。「御鬱憤の中にかむあがらせ賜える」とか、「御積憤をなごめ奉り」とか、相手の帝の心情に心をよせ、さやけき新宮をつくったから「多年の宸憂を散らし」、お迎え人とともに京都におかえりいただくよう懇願しているのである。
 それはまるで、怒れる人間をなだめるときの言葉そっくりである。まかりまちがって、疎略にあつかえば、それがかえって上皇の怒りを招くことをひたすらおそれているのである。
しかし考えてもみよ。それは上皇の死後すでに七百余年を経ているのである。しかもこのように、生きた人に面とむかってなだめ、すかし、御機嫌をとるような態度はいったい何を意味するか。それほど崇徳上皇のたたりが、歴代の朝廷や貴族や武士におそれられてきたからではないか。

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