pp.312-317より抜粋
ISBN-10 : 4101065012
ISBN-13 : 978-4101065014
我々が移転した時は、三中隊まで炊事場完成、中隊本部の棟上げがすんだだけであった。我々はまず図の中庭に当るところにテントを建てて住み、逐次周囲に我々の住居たるべきニッパ小屋を建造して行った。
「うら枯れしニッパアをもて葺くなればニッパア・・ハウスと申すやうなり」俘虜の中の歌人が歌った。ニッパとは幹を持たない椰子の一種で、その柔軟な葉を二三尺に綴ったものを単位にして屋根を葺く。別に枯れたのを集めたわけではなく、最初は随分緑したたるようでもあるが、やがては枯れて褐色を呈して来る。ニッパ椰子の葉で葺くから、ニッパ・ハウスと呼ぶことには間違いない。
収容所の我々の住居は、最初は米軍規格のテントであったが、戦争の終焉の見通しのつかないままに、便所を除き半永久的のニッパ・ハウスを俘虜自身に建造させるのが、米軍の方針となったらしい。
建物は全部所謂切妻形である。これは周知のように左右二面の屋根のみを持つ簡単な造りで、別に米軍の指定によるものではなく、俘虜の中の大工が勝手に設計したものである(因みに比島人のニッパ・ハウスは多く四面の屋根を持っている)。
まず椰子の幹を一丈ばかりの長さに切った丸柱を、二間おきに二列に建て並べ、「三角」と呼ばれる竹を鈍角の頂点を持った等辺三角形に組んだものを、各々相対した柱に渡す。その頂点を貫いて竹の梁を通し、それから左右にやはり竹の垂木を並べ、同じく竹の母屋で繋げば、この建物の骨格は出来上るのである。あとは屋根と、建物の前後に露出した「三角」をニッパで葺き、廂を出し、各「三角」の底辺を二本の竹の柱で支え、周囲に割竹で腰張をほどこせばよい。通路は「三角」を支えた中柱の間で建物を置く。
これが中隊本部及び各小隊小屋の基本形であるが、炊事場のみ稍々異る。「三角」を支える中柱を欠き、入口は裏一方のみ、前面は全部腰張にして、食糧を分配する台を設えるのである。
資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上り、歌いながら竹材を釘でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に各小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は戦ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。一二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上がり、歌いながら竹材を針金でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は暇取ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
この間収容所の外でする米軍のための作業、つまり外業は中止されていた。もっとも作業は名目的なもので、どう考えても我々の享受していた衣食住プラス三弗の俸給、さらに一日八仙の作業手当に値するものではなかった。外業では我々は過分に支払われていた。しかし自分達の住居を建造するという労働では、我々は立派に一つの仕事をした。つまり自分のものであるから、毎日みな力の極限まで働いたのである。
こうして自分達のものを自分で建てるという仕事の性質から、我々旧日本軍人の間に初めてデモクラシーが生れた。つまり各小隊共、多忙の口実で中隊本部、炊事場の建造に使役を出すことを拒み、各自その構成員が働くほかなかった。前述のように一二中隊は棟上げがしてあり、内部の盛土と周囲の腰張りを作ればよかったが、あとの三個中隊は全然手をつけてなかったから、これは特権に馴れた幹部達にとって打撃であった。
殊に悲惨であったのは、大隊本部であった。旧収容所では日本人代表者イマモロは米軍との折衝を専断して、擬専制的権力を享受していたが、新収容所に移るのを機に、所内が中隊組織に改組され、各中隊に米軍下士官が配属されることになって以来、権力は分割され減少した。今や彼は大隊長となり、象徴になった。
かつて現在の中隊長、小隊長等の幹部を一棟に集めていた大隊本部は、七人の直属スタッフを持つにすぎなくなった。つまり副長オラと書記中川、通訳の桜井、給仕二名である。これだけの人数で宿舎を建造するのは、事実上不可能であったから、彼等は結局テントの周囲に垣を繞らすに止った。イマモロが怒りながら二人の給仕を指揮して、割竹を地にさしている光景は、彼の権力失墜の最初の表現であった。
彼の没落の原因であった中隊付けサージァントは我々が各々ニッパ・ハウスを建造し終った頃到着した。彼等は一個中隊に一人ずつ配属され、毎日昼間を中隊本部に詰めて米収容所長の諸指令を伝達し、遵守を監督した。彼等はまた朝夕中隊毎に点呼を取った。これも従来イマモロの重要な補佐的役目の一つで、彼の勢威の有力な源だったものである。
私が通訳として属した第二中隊のサージァントはウェンドルフというドイツ系米人であった。金髪碧眼、丈は低く、むしろフランス人を思わせた。私は彼が南部ドイツの農民の出であろうと空想した(Wendorf の dorf は村である)。「ドイツ人たる君がドイツと戦うのは変な気がしないか」という私の問いに対して「私達がアメリカへ来たのは随分昔だ」と彼は答えた。
彼の職業はデトロイトの自動車工場の事務員で、召集されて既に三年だそうであるが、一般にあまり兵隊臭くない米兵の中でも、特に兵隊臭くなかった。高射砲隊員としてギスカ、マーシャルと転戦した後、この閑職について、召集解除を待っているだけだったらしい。
彼は大隊本部と我々の関係をすぐ理解し、我々と一緒にイマモロを無視するのを面白がっていた。例えば我々が毎朝米軍倉庫から受けて夕刻返す要具(鶴嘴、シャベル、蛮刀等。これ等は凶器であるから収容所内に止めることは許されない)の割当も、従来はイマモロが宰領していたが、これもサージァントの手に移った。毎朝我々は彼にメモを貰って門外の倉庫へ受領に行ったが、これは各中隊勝手に要求したため、すぐ数が足りなくなった。大隊本部は別に直属の米兵を持たないため、却って不利になった。
大隊本部の前を要具を担いで通る俘虜を、ヒステリーを起したイマモロが強襲して、要具を道路上に散乱させた事件を機に、イマモロの収容所長への懇願が効を奏し、要具だけはイマモロが一括受領して各中隊に分配するよう、収容所長から中隊付サージァントに指令が出た。イマモロはまた威張り出したが、我々も負けていなかった。サージァントにエキストラ要求書を発行して貰ってイマモロを悩ました。イマモロが米軍の倉庫主任を後楯に頑張ると、ウェンドルフが直接米軍の倉庫主任にかけ合いに行って、無理矢理に要求数を取って来た。彼等の間にも、我々とイマモロの間に似た関係があったのかも知れない。
我々のイマモロに対する鬱憤はかなり晴らされた。彼は永らく抵抗していたが、やがて諦めて我々を「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。棒給生活者上りで元来殷勤なオラは「あなた方」といった。
中隊別に食糧を分けることだけは依然イマモロの手中にあったが、これは彼が従来のように古い俘虜の多い一二中隊に偏愛する理由がなくなったという事実によって、却って公平に行われた。こうして旧収容所における日本的専制は各中隊にサージァントの配属されたことによって消滅したが、中隊内部では必ずしもそうは行かなかった。中隊長はじめ各小隊長、炊事長などが依然としてボスであった。しかしその権力は旧収容所でイマモロが雲の上の収容所長の威を藉りて振っていた権力ほどには到らなかった。サージァントが常駐して直接指令し監督していたからである。彼等の勢力の源はむしろ、いかにその指令を俘虜の利益のために誤魔化すかを誇示し、俘虜の怠惰に媚びて人気を博することにあった。そして憎まれ役はサージァントの代弁者たる通訳の方に廻って来た。
「うら枯れしニッパアをもて葺くなればニッパア・・ハウスと申すやうなり」俘虜の中の歌人が歌った。ニッパとは幹を持たない椰子の一種で、その柔軟な葉を二三尺に綴ったものを単位にして屋根を葺く。別に枯れたのを集めたわけではなく、最初は随分緑したたるようでもあるが、やがては枯れて褐色を呈して来る。ニッパ椰子の葉で葺くから、ニッパ・ハウスと呼ぶことには間違いない。
収容所の我々の住居は、最初は米軍規格のテントであったが、戦争の終焉の見通しのつかないままに、便所を除き半永久的のニッパ・ハウスを俘虜自身に建造させるのが、米軍の方針となったらしい。
建物は全部所謂切妻形である。これは周知のように左右二面の屋根のみを持つ簡単な造りで、別に米軍の指定によるものではなく、俘虜の中の大工が勝手に設計したものである(因みに比島人のニッパ・ハウスは多く四面の屋根を持っている)。
まず椰子の幹を一丈ばかりの長さに切った丸柱を、二間おきに二列に建て並べ、「三角」と呼ばれる竹を鈍角の頂点を持った等辺三角形に組んだものを、各々相対した柱に渡す。その頂点を貫いて竹の梁を通し、それから左右にやはり竹の垂木を並べ、同じく竹の母屋で繋げば、この建物の骨格は出来上るのである。あとは屋根と、建物の前後に露出した「三角」をニッパで葺き、廂を出し、各「三角」の底辺を二本の竹の柱で支え、周囲に割竹で腰張をほどこせばよい。通路は「三角」を支えた中柱の間で建物を置く。
これが中隊本部及び各小隊小屋の基本形であるが、炊事場のみ稍々異る。「三角」を支える中柱を欠き、入口は裏一方のみ、前面は全部腰張にして、食糧を分配する台を設えるのである。
資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上り、歌いながら竹材を釘でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に各小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は戦ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。一二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上がり、歌いながら竹材を針金でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は暇取ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
この間収容所の外でする米軍のための作業、つまり外業は中止されていた。もっとも作業は名目的なもので、どう考えても我々の享受していた衣食住プラス三弗の俸給、さらに一日八仙の作業手当に値するものではなかった。外業では我々は過分に支払われていた。しかし自分達の住居を建造するという労働では、我々は立派に一つの仕事をした。つまり自分のものであるから、毎日みな力の極限まで働いたのである。
こうして自分達のものを自分で建てるという仕事の性質から、我々旧日本軍人の間に初めてデモクラシーが生れた。つまり各小隊共、多忙の口実で中隊本部、炊事場の建造に使役を出すことを拒み、各自その構成員が働くほかなかった。前述のように一二中隊は棟上げがしてあり、内部の盛土と周囲の腰張りを作ればよかったが、あとの三個中隊は全然手をつけてなかったから、これは特権に馴れた幹部達にとって打撃であった。
殊に悲惨であったのは、大隊本部であった。旧収容所では日本人代表者イマモロは米軍との折衝を専断して、擬専制的権力を享受していたが、新収容所に移るのを機に、所内が中隊組織に改組され、各中隊に米軍下士官が配属されることになって以来、権力は分割され減少した。今や彼は大隊長となり、象徴になった。
かつて現在の中隊長、小隊長等の幹部を一棟に集めていた大隊本部は、七人の直属スタッフを持つにすぎなくなった。つまり副長オラと書記中川、通訳の桜井、給仕二名である。これだけの人数で宿舎を建造するのは、事実上不可能であったから、彼等は結局テントの周囲に垣を繞らすに止った。イマモロが怒りながら二人の給仕を指揮して、割竹を地にさしている光景は、彼の権力失墜の最初の表現であった。
彼の没落の原因であった中隊付けサージァントは我々が各々ニッパ・ハウスを建造し終った頃到着した。彼等は一個中隊に一人ずつ配属され、毎日昼間を中隊本部に詰めて米収容所長の諸指令を伝達し、遵守を監督した。彼等はまた朝夕中隊毎に点呼を取った。これも従来イマモロの重要な補佐的役目の一つで、彼の勢威の有力な源だったものである。
私が通訳として属した第二中隊のサージァントはウェンドルフというドイツ系米人であった。金髪碧眼、丈は低く、むしろフランス人を思わせた。私は彼が南部ドイツの農民の出であろうと空想した(Wendorf の dorf は村である)。「ドイツ人たる君がドイツと戦うのは変な気がしないか」という私の問いに対して「私達がアメリカへ来たのは随分昔だ」と彼は答えた。
彼の職業はデトロイトの自動車工場の事務員で、召集されて既に三年だそうであるが、一般にあまり兵隊臭くない米兵の中でも、特に兵隊臭くなかった。高射砲隊員としてギスカ、マーシャルと転戦した後、この閑職について、召集解除を待っているだけだったらしい。
彼は大隊本部と我々の関係をすぐ理解し、我々と一緒にイマモロを無視するのを面白がっていた。例えば我々が毎朝米軍倉庫から受けて夕刻返す要具(鶴嘴、シャベル、蛮刀等。これ等は凶器であるから収容所内に止めることは許されない)の割当も、従来はイマモロが宰領していたが、これもサージァントの手に移った。毎朝我々は彼にメモを貰って門外の倉庫へ受領に行ったが、これは各中隊勝手に要求したため、すぐ数が足りなくなった。大隊本部は別に直属の米兵を持たないため、却って不利になった。
大隊本部の前を要具を担いで通る俘虜を、ヒステリーを起したイマモロが強襲して、要具を道路上に散乱させた事件を機に、イマモロの収容所長への懇願が効を奏し、要具だけはイマモロが一括受領して各中隊に分配するよう、収容所長から中隊付サージァントに指令が出た。イマモロはまた威張り出したが、我々も負けていなかった。サージァントにエキストラ要求書を発行して貰ってイマモロを悩ました。イマモロが米軍の倉庫主任を後楯に頑張ると、ウェンドルフが直接米軍の倉庫主任にかけ合いに行って、無理矢理に要求数を取って来た。彼等の間にも、我々とイマモロの間に似た関係があったのかも知れない。
我々のイマモロに対する鬱憤はかなり晴らされた。彼は永らく抵抗していたが、やがて諦めて我々を「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。棒給生活者上りで元来殷勤なオラは「あなた方」といった。
中隊別に食糧を分けることだけは依然イマモロの手中にあったが、これは彼が従来のように古い俘虜の多い一二中隊に偏愛する理由がなくなったという事実によって、却って公平に行われた。こうして旧収容所における日本的専制は各中隊にサージァントの配属されたことによって消滅したが、中隊内部では必ずしもそうは行かなかった。中隊長はじめ各小隊長、炊事長などが依然としてボスであった。しかしその権力は旧収容所でイマモロが雲の上の収容所長の威を藉りて振っていた権力ほどには到らなかった。サージァントが常駐して直接指令し監督していたからである。彼等の勢力の源はむしろ、いかにその指令を俘虜の利益のために誤魔化すかを誇示し、俘虜の怠惰に媚びて人気を博することにあった。そして憎まれ役はサージァントの代弁者たる通訳の方に廻って来た。
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