pp.350‐355より抜粋
ISBN-10 : 4492444564
ISBN-13 : 978-4492444566
中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。
相対的に重要視されてきた中東
ISBN-13 : 978-4492444566
中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。
相対的に重要視されてきた中東
第一に、中東の置かれた相対的な位置が持つ国際政治上の重要性は特筆される。中東はヨーロッパとアジアとアフリカの結節点に位置し、交通の要衝であることから、グローバルな大国が覇権的な地位を確立・維持するために、中東を掌握することが不可欠となる場面が、歴史上、恒常的に存在してきた。これは必ずしも中東そのものに希少な価値が内在的にあることを意味せず、むしろ相対的な位置関係によって生じた重要性である。大国あるいは帝国が、ヨーロッパとアジア・アフリカを横断する広範な領域に政治的・軍事的に勢力を展開するためには、その中間に位置する中東に安定的にアクセスし、自由に通行することが不可欠であると歴史上多くの場面で認識されてきたことから、中東に政治的な影響力を行使する手段を有し、場合によっては軍事的な手段を用いて支配することの価値が存在してきた。また、グローバルな通商貿易の存立に、中東地域の安定と、そこへの自由・安定的なアクセスの確保が不可欠なことから、世界的な帝国は中東の統制の必要性を感じ、中東に進出した。 ヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがる地域という特性そのものは、歴史を通じて変わることのない地理的な要因に多くを由来しており、近代に限らず、古代から、中東(と近代に呼ばれるようになった地域)の戦略的な重要性をもたらしてきた。たとえば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが記録に残した「ペルシア戦争」は、アケメネス朝ペルシアが拡張しアナトリア半島とバルカン半島南部にかけての、現在のトルコを中心とする地域を制圧したのに対して、アテネが中心になって立ち向かったという構図である。また、共和制ローマの三頭政治の崩壊後の内戦で、カエサルはポンペイウスを追い落とし、紀元前48年、逃亡するポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに上陸した。カエサルはプトレマイオス朝の内紛にクレオパトラ7世の側に立って介入し、翌年の「ナイルの戦い」に勝利し、共にエジプトを掌握した。カエサルはこの年に現在のシリアからトルコ黒海沿岸にかけての地域に遠征を行って勝利し、翌年に現在のチュニジアで政敵に勝利してローマに凱旋した。
エジプト・チュニジアやシリア・トルコといった現在の中東・北アフリカに戦略的な足場を築いたことで、カエサルはローマの内紛において優位に立ち、紀元前44年に終身独裁官に就任し、後の帝政ローマの成立への礎を築いた。カエサル暗殺後の第二次三頭政治では、イタリア以西を支配地域としたオクタウィアヌスが、北アフリカを支配地域とするレピドゥス、そしてギリシア、トルコ、シリア北西部、リビア東部を支配地域とするアントニウスと覇を競った。オクタウィアヌスはまずレピドゥスを降伏させて北アフリカを掌握し、アントニウスと対峙した。アントニウスはクレオパトラと結婚し、プトレマイオス朝にローマの東方領土を分割しようとしていた。オクタウィアヌスはアントニウスを紀元前31年にアクティウム(現在のギリシア)の海戦で破り、ローマに凱旋して、ローマ皇帝の前身となる「プリンケプス(第一人者)」に就任した。このように、中東を掌握することが、古代ローマで最高権力者の地位を獲得する際に不可欠の要件であったと見ることができる。
ローマ帝国が衰退・不安定化し分裂傾向を抱える過程で、中東の重要性は増し、帝国の重心は中東に向けて移動していった。324年に皇帝となったコンスタンティヌス帝はサーサーン朝ペルシアの脅威に備えるために、330年にビュザンティオンを開いて遷都した。これが皇帝の死後はコンスタンティノポリスと呼ばれ、395年のローマ帝国東西分裂以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服して首都とし、イスタンブルと呼ぶようになった。ローマ帝国・東ローマ帝国と、それを継承したオスマン帝国が、ボスポラス海峡に跨り、黒海と地中海の結節点を扼するビュザンティオン=コンスタンティノポリス=コンスタンティノープル=イスタンブルを首都とし続けたことは、この地点を掌握することの地政学的な重要性が、継続して認識されてきたことを意味するだろう。地中海世界から西アジアにかけての領域を支配する帝国にとって、中東に直接あるいは間接的なプレゼンスを持つことは政治・外交・安全保障政策上、極めて重要であり、不可欠であった。
近代における帝国主義の時代に、西洋「列強」がグローバルに勢力を伸長させ、世界各地で植民地獲得競争を行った時、やはり中東は争われる対象となった。これは英仏の東地中海からインドへの展開、ロシアの南下政策、ドイツの遅れた台頭が、衰退・崩壊過程のオスマン帝国の領域で摩擦を繰り広げた「東方問題」として現れた。
中東の特性は、近代の地政学、特に海洋権力論に依拠した議論においては「チョークポイント」の議論によって論じられた。軍事や国際政治経済における「チョークポイント」の多くが中東に位置する。マハンは1890年の『海上権力史論』において七つのチョークポイントを指摘した。チョークポイントは、それを設定する主体や目的や政治的・軍事的環境条件の変化によって様々に定義されうるが、冷戦後のグローバル・エコノミーにおける資源や食糧の輸送経路の保全という観点からは、代表的なチョークポイントは次のものである。
ボスフォラス海峡*
ドーバー海峡
ジブラルタル海峡*
マラッカ海峡
ホルムズ海峡*
バーブルマンデブ海峡*
パナマ運運河
スエズ運河*
このうち*を付した五つが広い意味での中東に含まれる(さらにマラッカ海峡は「イスラーム圏」に含まれる)。
海洋国家としての英国の発展と覇権の維持に不可欠なチョークポイントを多く抱える場所として、近代における中東の地政学的な重要性は定義された。英国から米国に覇権が遷移した際にも、中東の地政学的な重要性への認識は受け継がれ、現在に至る。英国と米国によって推進されたグローバルな通商貿易体制に裨益する日本なども、この中東の地政学的重要性への認識を共有するようになった。 同時に、中東は大陸権力(ランド・パワー)を重視するドイツを発信源とする地政学においても重要である。それは中東の拡大・延伸領域と認識される「イスラーム世界」を重要な対象とする地政学と言える。この大陸型地政学の観点から、トルコやイランと歴史・文化的に連続性が強い中央アジアが、英・露を中心とした西欧列強の間で争われる「グレート・ゲーム」の対象となった。
豊富な資源による重要性
第二に、この相対的な地理的条件において重要な中東に偏在して石油・天然ガスが産出されるという点が、近現代において中東の地政学的な重要性を飛躍的に高めている。現代の国際政治において、中東に関する地政学的な関心の原因となる要素の筆頭が、資源エネルギーであることは言を俟たない。中東に遍在する石油・天然ガスの支配や管理は、それを消費国まで運ぶシーレーンやパイプラインの維持を含めて、中東をめぐる国際政治の焦点となっている。特に第二次世界大戦以後においてこれは顕著である。中東の原油を消費国に運ぶシーレーンの途中に、ホルムズ海峡やスエズ運河、バーブルマンデブ海峡といった「チョークポイント」が点在していることにより、中東の安全保障はグローバルな課題となる。
0 件のコメント:
コメントを投稿