106‐113より抜粋
ISBN-10 : 437730612X
ISBN-13 : 978-4377306125
ISBN-10 : 437730612X
ISBN-13 : 978-4377306125
青年将校と北一輝
日本が国際連盟を脱退してから、ちょうど3年たった1936年(昭和11年)2月26日、未明。東京で重大な事件が突発した。
その日は、前日に降り積もった大雪が、まだ首都をあつく、まっしろに蔽っていた。
その雪を踏みしめて、22名の青年将校に率いられた、約1400余名の部隊が行動を起し、首相(未遂)、内大臣、蔵相、教育総監(陸軍)をはじめ、多くの重臣を襲い、首相官邸、陸軍省をふくむ永田町一帯 ―― いわば日本の政治の心臓部を占拠し、一挙に制圧した。
首謀者たちは、これまで何度かクーデター未遂事件を起こした陸軍中央のエリート将校たちではなかった。
彼らはすべて、隊付の ―― いわば下積みの若い尉官たちであった。この純真な青年たちは、その部下の兵士たちから直接、農村をはじめ一般庶民の疲弊をもっとも身近にかんじ、軍部の腐敗をふくめて、すべての日本の政治・社会の現状に、痛憤を抱いていた。そうして、このような現状がつづく限り、自分たちは安んじて国防の第一線に立ち、生命を抛つことはできない、と信じた。
しかし、とりわけ規律厳正で、国家に対する忠誠心のあつい、陸軍士官学校出身の若い将校たちが、いわば徒党を組み、その部下を率いて大事を決行する ―― それは将校たちの、政治や社会に対する単純な憤慨からだけでは起り得なかった。そこには彼らの確信を支える、重い思想が必要であった。それを供給したのは、北一輝というひとりの思想家である。
1883年(明治16)生まれの北は、社会主義者として出発し、わずか23歳のときに、発刊後ただちに発禁となった『国体論及び純正社会主義』の大著によって、その天才的な片鱗を示した。
彼は、中国の革命に身を投じ、1919年(大正8)パリ講和会議が行われているころ、上海にあって排日のデモの怒濤を書斎から見おろしながら、「日本改造法案大綱」を書きあげた。
この本も、ただちに発禁となった。が、それは青年将校たちの秘かなバイブルとなった。その内容を一口でいえば、天皇のもとにおける絶対平等主義であり、私有財産の大幅な制限、農地解放をふくむ日本の体制の根本的な変革を志向していた。
彼の平等主義は、国際関係にも及び、中国の保全を説き、日本政府が山東半島の権益にこだわっているのを冷罵した。彼は、青島を取るよりも、イギリスから香港を奪取せよ、と説き、また日本は満州に植民するよりも、空漠たるオーストラリアを目指すべきである、と主張した。
その大胆で、インスピレーションに満ちた宣言は、若者の心を妖しく魅了するに充分であった。
北は、2月26日の青年将校の決起にはむろん直接には加わらなかった。が、彼らの思想的リーダーである磯部浅一(予備役)主計中尉とたえず連絡を取っていた。そして、熱心な法華経の信者である北は、彼らの成功をひたすらに神仏に祈り、霊感のくだるのを待っていた。
殺気立つ決起軍
占拠地域の厳重な歩哨線を通って、まず川島義之陸相らが、占拠された陸軍省に入った。その大広間で、陸相は決起部隊の士官たちに囲まれ、最初の交渉が行われた。
彼らの第一の要求は、彼らの行動が「義」のために行われたものであることを、陸軍および政府が認めよ――というものであった。同時に、今後の処置として、陸軍大将・真崎甚三郎を事態収拾の責任者として推し、維新内閣の実現を求めた。
川島陸相は、もう寝呆けていたわけではないが、あまりの思いがけない重大事件の突発に気が動転していて、ろくに口も利けない有様であった。その広間の一隅には、どこをどう通って来たのか、参謀本部の作戦課長の現職にある石原莞爾大佐が、いつのまにかふらりと入り込んでいた。その姿を目敏く認めた決起軍の栗原安秀中尉がつかつかと彼に近づき、「石原大佐どの。あなたのお考えは、われわれと根本的に違うのではありませんか。大佐どのは昭和維新について、どのように思われますか」と、語気するどく迫った。彼ら隊付の若い士官たちは、中央のスタッフたちを幕僚ファッショと呼び、除かなければならない主要な敵の一部と考えていた。
「昭和維新……? ぼくにはよく解らん」と、石原はぶっきら棒にこたえた。
「ぼくは、日本が軍備を充実すればそれが維新になる、と考えておる。何も、事件など起こすことはない」
栗原中尉は、腰のピストルに手を掛けながら、さて、この男を射ち殺すべきかどうか、ためらった。
横から、斎藤瀏予備役少将――彼は川島の二期後輩、著名な愛国歌人で、決起軍のシンパサイザーであった――が、議論に加わった。
「石原くん。きみなら、今、どうする」
「皆を説得して、引き揚げさせます。それでも聴かなければ……」と、石原はあいかわらずぶっきら棒にいった。
「軍旗を奉じて、討伐します」
「何をいうか、きさま!」
斎藤少将の甲高い声が広間にひびいた。
陸相との交渉を、取り囲むようにして背後から見まもっていた林八郎少尉が、ギラリと刀を抜き、それをふりさげたまま石原のほうに近づいてきた。背後から、「石原なんぞ、ぶった斬れ!」という声がかかった。
陸相と交渉していた山口一太郎大尉がそれに気づき、あわてて立ちあがって二人の間に割って入った。
「石原さん」と山口大尉は低い声で、「別室で話しましょう」と強引に誘い、部屋から連れ出した。
「連中は気が立っているんですから……」と、山口は廊下をあるきながらいった。
「石原さんも、あんなことをいうから、わるい」
「そうか、オレがわるいかな」
二人は、ガランとした別室に入った。
山口大尉がまた交渉の席に戻って行くと、石原はしばらく顎を撫でながら何事か考えていたが、やがて部屋から出、ひとりでまた歩哨線を越えて行ってしまった。ちょうど入れ替るように、今度は一台のピカピカの車が、歩哨線に近づいてきた。真崎大将であった。たまたまそこに立っていた決起軍の磯部中尉は、雀躍せんばかりにして将軍を迎えた。
「閣下」と、磯部はヒタと大将の目をみつめていった。
「ついに、やりました!」
将軍はギロリとその目を見返し、「よォ解っとる。おまえたちの気持は、よォ解っとる……」と、同様にいささか興奮した面持ちで答えた。
「どうか、あとをよろしくお願いします」
磯部は声を絞り、ほとんどすがるようにいった。
「うむ、うむ」
荒木の思想的後継者と見られていた真崎は、青年将校らの激越な言葉を、ながい間、いつもこのようにアイマイな、しかし物分りのよい親父のような態度で聞いていた。
「そうじゃ。岡田(首相)のようなやつは、ぶった切れ」などと、この将軍は、ときには威勢のいい相槌を打ち、青年将校たちを随喜させることはあったが、しかし「実行行為」について賛成する言質を与えたことは、かつてなかった。
真崎は、ずかずかと大広間に通ると、そこに川島陸相の姿を発見し、大声で叱りつけた。
「きさまは、こんなところで何をグズグズしちょる!」
陸相はハッと立ちあがり、身をかがめて、この先輩に敬意を表した。
「貴様は、責任者じゃろうが。……すぐ宮中に参内せい!」
あわてる陸相
決起軍の関係者以外で、この未明に起こった事件の全貌を、もっとも早く知ったのは、満州事変のときの軍司令官・本庄繁大将であった。このとき彼は、侍従武官長――いわば天皇の軍事に関する最高顧問――をつとめていた。早晩、5時。彼は女婿にあたる山口一太郎大尉からの伝令将校の来訪によって叩き起こされ、事件の概要を伝えられた。山口は、決起軍の同志ではあったが、あえて実行行為には加わることなく、事件のあとの上層に対する工作の役割を、引き受けていた。本庄侍従武官長が、天皇に最初の拝謁を行ったのは、朝6時である。天皇は、そのときは黙して眉をひそめ、深い憂いに沈んでいるかのようだった。そしてポツリと一言、「武官長だけ、こんなことになりはせぬかと、いつかいったことがあったネ」と、思いかえす風であった。それから3時間おくれて、陸相が慌しくやってきた。彼はくどくどと状況を説明し、さらに、「つぎの内閣は、国民生活を安定させ、国防を充実させる、強力な内閣でなければならぬ……と思慮いたします」と、その意見をつけ加えた。陸相の報告を、いらいらと不興げに聞いていた天皇は、そこで発言を遮った。
「陸相が、そういうことをいう必要はない。まず反乱軍を鎮圧する方法を講ずるのが、おまえの役目ではないか」
陸相は、雷に打たれたようにハッとし、おそるおそる天皇の顔をうかがった。彼はまだ蜂起した青年将校たちの醸し出す殺気に感染していて、彼らを反乱軍ときめつけることさえアタマになく、ただ狼狽(ろうばい)していたのである。
陸相は一言、「恐懼の至りにございます」と、ふかぶかと頭を下げ、そしてそくさと御前を退出していった。
天皇は当時、その政治においても、あるいは大元帥としての軍令においても、日本の至高の位置にあった。が、定められた機関の決定にしたがい、それに“認可”を与える以外、一歩もそこからはみ出さないのを慣例としていた。 しかし、このときは諮問すべき重臣たちは一挙に暗殺され――ときの岡田啓介首相は、よく風貌の似た義弟が身代わりとなって危く難を免れたことが、やがて判明したが――補佐すべき機関は、一時的に機能が麻痺状態にあった。 天皇は、このときはじめてみずからイニシアチブを取った。そうして重臣たちを襲った怒りの感情もあらわに、蜂起した軍隊を「反乱軍」と断定し、ただちにその鎮圧を命じたのであった。 天皇のピリピリした感情と生真面目な意志とに支えられて、日本の統治機構、そして陸軍の組織も、最初の衝撃と混乱から自分を取り戻し、徐々に立ち直っていく…。
激昂する天皇
天皇に一喝され、陸軍省――そのときは九段下の憲兵司令部に本拠を移していた――に舞い戻ったものの、川島陸相はなお途方にくれていた。そして、軍事調査部長・山下奉文(ともゆき)少将らの意見具申にしたがい、とりあえず陸軍の長老による軍事参議官会議の諮問を求めることとした。 この会議は、宮中の一室で行われた。陸相、参謀次長、皇族の陸軍長老(東久邇、朝香、梨本)らが参集し、とりあえず「陸軍大臣告示」を出そうということで、評定はえんえんと翌日の午前1時半までつづいた。 重大事件突発の報を秘書から電話で受けた内大臣秘書官長の木戸幸一も、天皇が最初の本庄侍従武官長の拝謁を受けようとしている午前六時には、すでに宮中に車で駆けつけたひとりであった。 彼は、警視総監を手にはじめに――電話はつながったものの、相手の意見はまるで意味をなさなかった――、まず近衛文麿、つづいて興津の西園寺公と、電話を掛けまくった。 西園寺は、まだ寝ていた。電話口に出ると、「また、やりおったか。困ったものだ」と、呟くようにいった。そして着替えを済ませ、おりからの雪模様の寒さのなかを、ほどなくやってきた静岡県警の警備車3台に護られて、その警察部長官舎に避難した。 2月26日の宮中は、混乱のなかに過ぎていった。天皇は、つぎつぎに重臣の拝謁を受けながら、そのあいだ2、30分おきに本庄侍従武官長を呼んだ。そして、「まだか……。反乱軍の鎮圧は、まだか」と、からだを震わせながら催促した。 さいごに、本庄大将が天皇に呼ばれて同じ督促を受けたときは、27日の午前2時を回っていた。この老将軍は、そのまま宮城に泊り込んだ。
日本が国際連盟を脱退してから、ちょうど3年たった1936年(昭和11年)2月26日、未明。東京で重大な事件が突発した。
その日は、前日に降り積もった大雪が、まだ首都をあつく、まっしろに蔽っていた。
その雪を踏みしめて、22名の青年将校に率いられた、約1400余名の部隊が行動を起し、首相(未遂)、内大臣、蔵相、教育総監(陸軍)をはじめ、多くの重臣を襲い、首相官邸、陸軍省をふくむ永田町一帯 ―― いわば日本の政治の心臓部を占拠し、一挙に制圧した。
首謀者たちは、これまで何度かクーデター未遂事件を起こした陸軍中央のエリート将校たちではなかった。
彼らはすべて、隊付の ―― いわば下積みの若い尉官たちであった。この純真な青年たちは、その部下の兵士たちから直接、農村をはじめ一般庶民の疲弊をもっとも身近にかんじ、軍部の腐敗をふくめて、すべての日本の政治・社会の現状に、痛憤を抱いていた。そうして、このような現状がつづく限り、自分たちは安んじて国防の第一線に立ち、生命を抛つことはできない、と信じた。
しかし、とりわけ規律厳正で、国家に対する忠誠心のあつい、陸軍士官学校出身の若い将校たちが、いわば徒党を組み、その部下を率いて大事を決行する ―― それは将校たちの、政治や社会に対する単純な憤慨からだけでは起り得なかった。そこには彼らの確信を支える、重い思想が必要であった。それを供給したのは、北一輝というひとりの思想家である。
1883年(明治16)生まれの北は、社会主義者として出発し、わずか23歳のときに、発刊後ただちに発禁となった『国体論及び純正社会主義』の大著によって、その天才的な片鱗を示した。
彼は、中国の革命に身を投じ、1919年(大正8)パリ講和会議が行われているころ、上海にあって排日のデモの怒濤を書斎から見おろしながら、「日本改造法案大綱」を書きあげた。
この本も、ただちに発禁となった。が、それは青年将校たちの秘かなバイブルとなった。その内容を一口でいえば、天皇のもとにおける絶対平等主義であり、私有財産の大幅な制限、農地解放をふくむ日本の体制の根本的な変革を志向していた。
彼の平等主義は、国際関係にも及び、中国の保全を説き、日本政府が山東半島の権益にこだわっているのを冷罵した。彼は、青島を取るよりも、イギリスから香港を奪取せよ、と説き、また日本は満州に植民するよりも、空漠たるオーストラリアを目指すべきである、と主張した。
その大胆で、インスピレーションに満ちた宣言は、若者の心を妖しく魅了するに充分であった。
北は、2月26日の青年将校の決起にはむろん直接には加わらなかった。が、彼らの思想的リーダーである磯部浅一(予備役)主計中尉とたえず連絡を取っていた。そして、熱心な法華経の信者である北は、彼らの成功をひたすらに神仏に祈り、霊感のくだるのを待っていた。
殺気立つ決起軍
占拠地域の厳重な歩哨線を通って、まず川島義之陸相らが、占拠された陸軍省に入った。その大広間で、陸相は決起部隊の士官たちに囲まれ、最初の交渉が行われた。
彼らの第一の要求は、彼らの行動が「義」のために行われたものであることを、陸軍および政府が認めよ――というものであった。同時に、今後の処置として、陸軍大将・真崎甚三郎を事態収拾の責任者として推し、維新内閣の実現を求めた。
川島陸相は、もう寝呆けていたわけではないが、あまりの思いがけない重大事件の突発に気が動転していて、ろくに口も利けない有様であった。その広間の一隅には、どこをどう通って来たのか、参謀本部の作戦課長の現職にある石原莞爾大佐が、いつのまにかふらりと入り込んでいた。その姿を目敏く認めた決起軍の栗原安秀中尉がつかつかと彼に近づき、「石原大佐どの。あなたのお考えは、われわれと根本的に違うのではありませんか。大佐どのは昭和維新について、どのように思われますか」と、語気するどく迫った。彼ら隊付の若い士官たちは、中央のスタッフたちを幕僚ファッショと呼び、除かなければならない主要な敵の一部と考えていた。
「昭和維新……? ぼくにはよく解らん」と、石原はぶっきら棒にこたえた。
「ぼくは、日本が軍備を充実すればそれが維新になる、と考えておる。何も、事件など起こすことはない」
栗原中尉は、腰のピストルに手を掛けながら、さて、この男を射ち殺すべきかどうか、ためらった。
横から、斎藤瀏予備役少将――彼は川島の二期後輩、著名な愛国歌人で、決起軍のシンパサイザーであった――が、議論に加わった。
「石原くん。きみなら、今、どうする」
「皆を説得して、引き揚げさせます。それでも聴かなければ……」と、石原はあいかわらずぶっきら棒にいった。
「軍旗を奉じて、討伐します」
「何をいうか、きさま!」
斎藤少将の甲高い声が広間にひびいた。
陸相との交渉を、取り囲むようにして背後から見まもっていた林八郎少尉が、ギラリと刀を抜き、それをふりさげたまま石原のほうに近づいてきた。背後から、「石原なんぞ、ぶった斬れ!」という声がかかった。
陸相と交渉していた山口一太郎大尉がそれに気づき、あわてて立ちあがって二人の間に割って入った。
「石原さん」と山口大尉は低い声で、「別室で話しましょう」と強引に誘い、部屋から連れ出した。
「連中は気が立っているんですから……」と、山口は廊下をあるきながらいった。
「石原さんも、あんなことをいうから、わるい」
「そうか、オレがわるいかな」
二人は、ガランとした別室に入った。
山口大尉がまた交渉の席に戻って行くと、石原はしばらく顎を撫でながら何事か考えていたが、やがて部屋から出、ひとりでまた歩哨線を越えて行ってしまった。ちょうど入れ替るように、今度は一台のピカピカの車が、歩哨線に近づいてきた。真崎大将であった。たまたまそこに立っていた決起軍の磯部中尉は、雀躍せんばかりにして将軍を迎えた。
「閣下」と、磯部はヒタと大将の目をみつめていった。
「ついに、やりました!」
将軍はギロリとその目を見返し、「よォ解っとる。おまえたちの気持は、よォ解っとる……」と、同様にいささか興奮した面持ちで答えた。
「どうか、あとをよろしくお願いします」
磯部は声を絞り、ほとんどすがるようにいった。
「うむ、うむ」
荒木の思想的後継者と見られていた真崎は、青年将校らの激越な言葉を、ながい間、いつもこのようにアイマイな、しかし物分りのよい親父のような態度で聞いていた。
「そうじゃ。岡田(首相)のようなやつは、ぶった切れ」などと、この将軍は、ときには威勢のいい相槌を打ち、青年将校たちを随喜させることはあったが、しかし「実行行為」について賛成する言質を与えたことは、かつてなかった。
真崎は、ずかずかと大広間に通ると、そこに川島陸相の姿を発見し、大声で叱りつけた。
「きさまは、こんなところで何をグズグズしちょる!」
陸相はハッと立ちあがり、身をかがめて、この先輩に敬意を表した。
「貴様は、責任者じゃろうが。……すぐ宮中に参内せい!」
あわてる陸相
決起軍の関係者以外で、この未明に起こった事件の全貌を、もっとも早く知ったのは、満州事変のときの軍司令官・本庄繁大将であった。このとき彼は、侍従武官長――いわば天皇の軍事に関する最高顧問――をつとめていた。早晩、5時。彼は女婿にあたる山口一太郎大尉からの伝令将校の来訪によって叩き起こされ、事件の概要を伝えられた。山口は、決起軍の同志ではあったが、あえて実行行為には加わることなく、事件のあとの上層に対する工作の役割を、引き受けていた。本庄侍従武官長が、天皇に最初の拝謁を行ったのは、朝6時である。天皇は、そのときは黙して眉をひそめ、深い憂いに沈んでいるかのようだった。そしてポツリと一言、「武官長だけ、こんなことになりはせぬかと、いつかいったことがあったネ」と、思いかえす風であった。それから3時間おくれて、陸相が慌しくやってきた。彼はくどくどと状況を説明し、さらに、「つぎの内閣は、国民生活を安定させ、国防を充実させる、強力な内閣でなければならぬ……と思慮いたします」と、その意見をつけ加えた。陸相の報告を、いらいらと不興げに聞いていた天皇は、そこで発言を遮った。
「陸相が、そういうことをいう必要はない。まず反乱軍を鎮圧する方法を講ずるのが、おまえの役目ではないか」
陸相は、雷に打たれたようにハッとし、おそるおそる天皇の顔をうかがった。彼はまだ蜂起した青年将校たちの醸し出す殺気に感染していて、彼らを反乱軍ときめつけることさえアタマになく、ただ狼狽(ろうばい)していたのである。
陸相は一言、「恐懼の至りにございます」と、ふかぶかと頭を下げ、そしてそくさと御前を退出していった。
天皇は当時、その政治においても、あるいは大元帥としての軍令においても、日本の至高の位置にあった。が、定められた機関の決定にしたがい、それに“認可”を与える以外、一歩もそこからはみ出さないのを慣例としていた。 しかし、このときは諮問すべき重臣たちは一挙に暗殺され――ときの岡田啓介首相は、よく風貌の似た義弟が身代わりとなって危く難を免れたことが、やがて判明したが――補佐すべき機関は、一時的に機能が麻痺状態にあった。 天皇は、このときはじめてみずからイニシアチブを取った。そうして重臣たちを襲った怒りの感情もあらわに、蜂起した軍隊を「反乱軍」と断定し、ただちにその鎮圧を命じたのであった。 天皇のピリピリした感情と生真面目な意志とに支えられて、日本の統治機構、そして陸軍の組織も、最初の衝撃と混乱から自分を取り戻し、徐々に立ち直っていく…。
激昂する天皇
天皇に一喝され、陸軍省――そのときは九段下の憲兵司令部に本拠を移していた――に舞い戻ったものの、川島陸相はなお途方にくれていた。そして、軍事調査部長・山下奉文(ともゆき)少将らの意見具申にしたがい、とりあえず陸軍の長老による軍事参議官会議の諮問を求めることとした。 この会議は、宮中の一室で行われた。陸相、参謀次長、皇族の陸軍長老(東久邇、朝香、梨本)らが参集し、とりあえず「陸軍大臣告示」を出そうということで、評定はえんえんと翌日の午前1時半までつづいた。 重大事件突発の報を秘書から電話で受けた内大臣秘書官長の木戸幸一も、天皇が最初の本庄侍従武官長の拝謁を受けようとしている午前六時には、すでに宮中に車で駆けつけたひとりであった。 彼は、警視総監を手にはじめに――電話はつながったものの、相手の意見はまるで意味をなさなかった――、まず近衛文麿、つづいて興津の西園寺公と、電話を掛けまくった。 西園寺は、まだ寝ていた。電話口に出ると、「また、やりおったか。困ったものだ」と、呟くようにいった。そして着替えを済ませ、おりからの雪模様の寒さのなかを、ほどなくやってきた静岡県警の警備車3台に護られて、その警察部長官舎に避難した。 2月26日の宮中は、混乱のなかに過ぎていった。天皇は、つぎつぎに重臣の拝謁を受けながら、そのあいだ2、30分おきに本庄侍従武官長を呼んだ。そして、「まだか……。反乱軍の鎮圧は、まだか」と、からだを震わせながら催促した。 さいごに、本庄大将が天皇に呼ばれて同じ督促を受けたときは、27日の午前2時を回っていた。この老将軍は、そのまま宮城に泊り込んだ。
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