過日投稿の記事においても述べましたが、ここ最近は我が国の古代史、考古学を扱った著作を主に読み進めていますが、こちらの方は、どうにか200頁過ぎにまで至り、そこでは、我が国での所謂「古墳」が誕生する直前の時代について述べられており、また、その先の記述については、ざっと読んでみたところ、古墳に付随する祭祀についての記述が、比較的多かったように思われ、また、こうした記述(古墳に付随する祭祀の様相)は、これまでに読んだ著作全般において、あまり多くはなかったか、あるいは、それについて、私が関心を持ちつつ読んでいなかったためであるのか、あまり記憶がありません。
ともあれ、こうした契機から、往時の古墳にて行われていた祭祀の様相が、これまでよりも判然とするのであれば、その先の読書も、自身としては興味深いものになると云えます。そしてまた、この古墳時代への胎動期とも云える弥生時代末期の2世紀代とは、銅鐸、銅矛などの青銅製祭器が祀られた最後の時代であり、その先の古墳時代においては、かつての青銅製祭器が担ってきた役割が首長墓(古墳)での祭祀に替わると云えるのですが、しかし、この青銅製祭器を用いた祭祀の終焉と、それに代わり造営されるようになる古墳、および、それに付随する祭祀の間に、どのような文化的な断層があったのかとは、未だに包括的な見解があるわけでなく、あるいは地域ごとに違うとも云えるのでしょうが、ともあれ、この文化的な断層の期間に「古事記」に記された「出雲の国譲り」そして「三国志」の「魏志倭人伝」に記載のある「倭国大乱」があったと思われるのですが、このあたりの詳細、つまり、さきに述べた文化の断層の程度が未だよくわからないのです・・。
そこで、前述の「文化の断層の程度」をより具体的な現象として表現しますと「それまで祭祀に用いてきた銅鐸などの祭器は埋納されたが、それまで銅鐸祭祀を掌ってきた人々はどうなったのか?」ということになると思われます。
これは「日本書紀」の神武東征の記述において、征伐された紀州北部の土着女酋長である名草戸畔(なくさのとべ)あるいは、同じく征伐された新宮付近での女酋長であった丹敷戸畔(にしきのとべ)のようにヤマト王権側の軍勢によって誅殺されたのかもしれませんし、あるいは、神話にあるように、これまで治めてきた地域での統治権をヤマト王権側に譲り渡し、自らは同地域内の他の場所に移るといった、いわば穏やかなカタチのものもあったと思われます。
ともあれ、そうした過程を経ることにより、ヤマト王権の基盤は確たるものになっていったのでしょうが、しかし、そのように考えてみますと、おそらく、こうしたことは、その後の壬申の乱や源平の合戦、南北朝の争乱期、戦国時代、そして幕末維新の頃などにおいても、多少規模の相違はあれ、概ね同様とも云えるような様相があったのではないかと思われるのです・・。
そして、上記のような戦乱によって生じた「文化の断層」について扱った、さまざまな著作の記述をあたってみますと、それらの中から、地域、時代における、ある種の普遍的な性質(文化の断層が生じる際での特徴的な動態)のようなものを看取することが出来るのではないかとも思われてきますが、さて、如何でしょうか?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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