文藝春秋刊 司馬遼太郎著「翔ぶが如く」第一巻
pp.4-7より抜粋
ISBN-10 : 4167105942
ISBN-13 : 978-4167105945
私に吉野郷ゆきをすすめてくれた知人も、40がらみの大入道のくせに、高原への登り坂のどのあたりの道端に気をつけなさいよ、露草がきれいにならんで紫の小さな花をつけていますから、というようなことを言い添えた。この露草好きの知人は、同時に、「チェーイ」とひき裂くような掛け声で立ち木を打つ示現流の名人という評版があった。
吉野郷への登り道には楠が多く、皮革質の葉のおびたたしいつやめきが陽と風のなかで騒いでいいる。この土地ほど、この照葉樹の似合う風土はなさそうであった。
大崎ノ鼻に立ってみると、なるほど風が強い。私の知人は風のことだけを言ったが、かれがかんじんなことを言わなかったことに気づいた。元来かんじんなことはなるべく口中に含んで言わないというこの土地の古いしきたりを私の知人も身につけていた。
山風や潮風よりも、じつは眺望であった。この大崎ノ鼻に立つと、濃い群青の錦江湾に浮かぶ桜島の山容とその色彩が、どの名陶をも見すぼらしくさせてしまうほどの凄味をもって迫ってくる。
それだけではなかった。
太陽がちょうど桜島の右肩の上にあった。
そのために桜島をとりまく錦江湾のブルーは濃淡をもって縞模様をなしている。
太陽の真下にあたる右手の海は波がきらきらと跳ねあがって見えるばかりに鮮かであり、中央の海は逆光のために黒く、海底に怪魚の蟠るのを想像させるほどに古代的な不気味さをたたえていた。
しかしながら目を左へ転ずると、まったく異なる青の世界がはるかにひらけていた。
海は軽佻なほどにあかるく、
「泣こよっか、ひっ翔べ」
という上代以来の隼人どもの心を、この青が染めあげたかと思われるほどに陽気であった。
この大崎ノ鼻からながめると、桜島が中央の主座にすわり、その右手のほうはるかな天に、薩摩半島の先端に位置して薩摩富士といわれる開聞岳がうかんでいる。
左手には靉々としたかすみのむこうに霧島山がそびえ、しかもそれだけではなかった。高千穂の峰が、衣のすそをひく神人のようにかさなっているのである。
ところがこれらがみな活火山であるために、この風景は猶今後変化するかもしれず、できあがってまだ2000年も経っていないのである。
奈良朝あたりではこれらがしきりと大爆発し、ときに海中が沸いて新島を盛り上げるなど、そのおそろしさに人が住みかねていたらしく、平安初期になってようやく開墾がさかんになって中央の土地制度に組みこまれた。それ以前にはこの国の海岸に住むひとびとは、
「隼人」
といわれていた。歌舞伎の化粧がそうであるように目に赤いクマドリをし、ときに頬に赤い染料をぬり、その行動が敏捷であるためにハヤビトとよばれた「魏志」に出てくる倭人を思わせ、げんに薩摩人はすでに戦国のころから自分たちこそ日本人の原型であり、他は日本人に似た連中であるという優越感をもち、江戸期になると島津家はその家柄についての優越感からひそかに徳川将軍家を軽んじる気配さえあった。げんにかれらが徳川家を倒して明治維新を成立させたとき、仲間の長州人の場合のように過剰な対徳川家憎悪も持たないかわりに、倒れゆく徳川家に対し無用の感傷をもたず、どちらかといえば土俵でうつたおした好敵手に対する闘士としての奇妙な愛情を持ったという、ふしぎとしか言いようのない気配を歴史の上に投影した。
しかもかれらは自分のつくった明治国家をも気に入らず、明治十年までいっさい中央の指令をこばんで独立薩摩圏としてありつづけた。
「君たちはえたいが知れない」
この吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家をあとに訪ねたとき、正直なところそう思った。
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