ISBN-13 : 978-4003812655
原敬は安政三年(1856年)九月盛岡城外に生まれた。当時健在であった祖父の原直記政元は盛岡藩の家老加判。従って、家柄は上級武士層に属する。彼は少年時代を幕末の動乱期にすごし、戊辰戦争の起ったときには十二歳であった。この戦争において盛岡藩は東北の諸藩とともに官軍に抗したが、「朝敵」の烙印を押された上で一敗地に塗れる悲運に遭遇した。
維新後、藩閥政治が樹立されて、薩長両藩の出身者はわが世の春を誇る時代となった。陸奥宗光(紀州出身)の言葉を借りれば、「往昔平氏の盛時、世人之を目して平氏の族に非ざる者は人間に非ずといへり。今や薩長の人に非らざれば、殆ど人間に非ざる者の如し」という世の中になった。そして、非藩閥の身に生まれた幾多有為の人材はこの藩閥政治の陰に空しく埋もれて、朽果てて行った。そして、戊辰戦争の敗北者である東北諸藩の出身者のごときは、薩長人から「白河以北一山百文」と嘲弄、侮蔑された。
このような中で、若き原敬の前途には光明は乏しくみえた。負け嫌いで覇気に溢れ、そして、敵・味方を峻別して行動する性向の持主であった彼にとって、このみじめな境地の中で味わったさまざまの屈辱的な経験は正にその骨身に徹した。それは原は生涯到底忘れることができなかった。たとえば、彼は一山または逸山と号した。それは「白河以北」云々の句から取ったものである。もとより自嘲ではない。この二字には昂然たる反撥の気概がこめられていたのであった。また別の例を挙げよう。幾月はいつか流れて、大正三年に迎えた。当時原は第一次山本(権兵衛)内閣の内相であり、大正天皇の即位式をひかえて大礼使長官を兼ねていた。同年二月六日の日記に彼は記している。「午後大礼使の会議に出席して種々の協議をなしたるが、御即位礼に使用せらるる幡の理由書中に維新の際東征に使用せられたりとか、奥羽出征のとき総督に下附せられたる錦旗に倣へりと云ふ文字あり、一視同仁の皇恩に浴し居る今日に於て恰も外征に於けるが如き語句を使用する事は不穏当なりと認め、之を刪除せしめたり」。また、大正六年は戊辰戦争からちょうど五〇年目に当たった。当時原は政友会総裁であった。この年、旧諸藩筋ではそれぞれ慰霊の祭典が執り行われた。旧盛岡藩関係でも寄り寄りその計画があったが、費用の問題で行詰った。そのことをきいたとき、彼は率先金を寄付し、この金を基にして祭典を行うよう盛岡市当局に斡旋方を依頼した。その結果、同地の報恩寺において旧盛岡藩士戊辰殉難者五十年忌の法会が行われた。当日彼はその席に列した。そして、みずから起草した祭文を朗読した。それにいう、「同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日を以て挙行せらる。顧みるに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此事天下に明かなり、諸子以て瞑すべし、余偶々郷に在り、此祭典に列するの栄を荷ふ、乃ち赤誠を披露して諸子の霊に告ぐ、大正六年九月八日 旧藩の一人 原敬」。彼はその日の日記に、この祭文を書き入れ、付記して「他には如何なる評あらんも知れざれども、余の観念を率直に告白したるなり」としている。そして、その折彼は「焚く香の烟のみだれや秋の風」の一句に深い感慨を託した。
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