「無条件降伏のその日から、万事が変わったことは周知のとおりである。
占領は夏にはじまったから、開襟シャツの司令官がフロックコートの天皇と並んで写真を撮り、それを新聞雑誌に発表した。米国の営利雑誌はその下に註釈して「もと神」と書いたのである。
日本側では註釈を翻訳する時に、もとの表現の辛辣な諧謔味をとり除いた。
そこには、開襟シャツの大柄な外国人とその傍に立っている昨日までの「御真影」とを対照させた写真に対する、日本側の困惑がよく表れていた。しかし、おそらく天皇のために怒る者は殆どいなかったし、昔の臣民の中で、何等かの激しい反撥を表明する者もいなかった。
反応はおどろく程穏やかであった、しかしそれは写真の効果が浅かったということではけっしてない。おそらく天皇の「神性」を否定しようと考えた占領軍が予期したよりも、その影響は大きかったのである。余りに深い反応は、直ちに表面に出てくることができない。
対照の妙にこっけい味を感じる余裕のないことはいうまでもないとして、怒りや反撥をおぼえるよりも、日本側はその写真が発表されるようになった事態の意味を理解するために努力しなければならなかったのである。
永遠なるものは何もないということ、人間以外の何かがわれわれの世界を保障しているのではないということ、したがって「すべての文明はほろびる」ものであり、況や極東の島国の秩序はいつでも変わり得るものにすぎないということ、変われば前の世界に通じていたことが、後の世界では通じなくなるだろうということ、要するに自分達の永遠だと信じてきた世界の相対性を理解する急な必要があったのだ。
しかしこの場合に、世界を変えることではなく世界のかわることが問題であったということほど、決定的なことはない。
私は敗戦による一種の革命が唯外部から起こり、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。
何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築きあげようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。
その時現在の権威は来たるべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。
1789年に旧制度は仏国民の心のなかで死んでいたのだ。しかしそれは1945年の日本の状況ではなかった。来たるべき権威は予想されず、次の世界の精神的中心が何処にあるのかわからないうちに、永遠と信じられた、または仮定されていたーしかし、どういう違いがその間にあるのだろうか、ー旧来の権威、秩序、生活の規準となるべき権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。占領軍が期待し、また国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対的権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった、歴史的相対主義のかわりに、現在目の前のどういう価値も信用しないという現象が起こるのは、当然の成り行きであったろう。
民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、また、おそらく選良の多数には、未だそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。
むしろ逆に天皇を中心とした世界の崩壊が作り出した権威一般に対する不信用の態度は、民主主義そのものにも向けられていると考えなければならない。事がそのように運んだ理由は、むろん敗戦の事情だけではなく、また民主主義の原理そのものとも関連し、殊にその原理が現在世界で遭遇している大きな困難、すなわち「二つの民主主義」という言葉によって要約される矛盾と関連している。
「二つの民主主義」の対立は、いずれかの形での民主主義の経験の浅い国ではーそれは何も日本に限らないがー当然のことながら、文化的伝統と国家的経験の基準からよりも、純粋にイデオロギー的な対立として扱われる傾向がある。
しかしそれがイデオロギー的対立として扱われる限り、第一に、解決は困難であり、したがって第二に、議論が煩雑とならざるをえない。その結果は、第三に、一般の知的大衆が民主主義に対するほんとうの関心を失うのである。いわゆる「敗戦の虚脱」の根本的条件は今でも変わっていないと思われる。」
日本側では註釈を翻訳する時に、もとの表現の辛辣な諧謔味をとり除いた。
そこには、開襟シャツの大柄な外国人とその傍に立っている昨日までの「御真影」とを対照させた写真に対する、日本側の困惑がよく表れていた。しかし、おそらく天皇のために怒る者は殆どいなかったし、昔の臣民の中で、何等かの激しい反撥を表明する者もいなかった。
反応はおどろく程穏やかであった、しかしそれは写真の効果が浅かったということではけっしてない。おそらく天皇の「神性」を否定しようと考えた占領軍が予期したよりも、その影響は大きかったのである。余りに深い反応は、直ちに表面に出てくることができない。
対照の妙にこっけい味を感じる余裕のないことはいうまでもないとして、怒りや反撥をおぼえるよりも、日本側はその写真が発表されるようになった事態の意味を理解するために努力しなければならなかったのである。
永遠なるものは何もないということ、人間以外の何かがわれわれの世界を保障しているのではないということ、したがって「すべての文明はほろびる」ものであり、況や極東の島国の秩序はいつでも変わり得るものにすぎないということ、変われば前の世界に通じていたことが、後の世界では通じなくなるだろうということ、要するに自分達の永遠だと信じてきた世界の相対性を理解する急な必要があったのだ。
しかしこの場合に、世界を変えることではなく世界のかわることが問題であったということほど、決定的なことはない。
私は敗戦による一種の革命が唯外部から起こり、まったく内側から支えられていなかったというつもりはない。しかし大部分の国民にとって、外部からの変化として受けとられたという事実を強調しておく必要があると考える。
何故なら、歴史的意識は、おそらく一つの世界をその内側からくずし、別の世界を築きあげようとする経験の蓄積を通じてしか獲得されないものだろうからである。
その時現在の権威は来たるべき権威によって否定される。現在の世界の中心は、次の世界の中心が発見され、ひそかに強められ、その影響の範囲を拡大して後に、はじめて除かれる。
1789年に旧制度は仏国民の心のなかで死んでいたのだ。しかしそれは1945年の日本の状況ではなかった。来たるべき権威は予想されず、次の世界の精神的中心が何処にあるのかわからないうちに、永遠と信じられた、または仮定されていたーしかし、どういう違いがその間にあるのだろうか、ー旧来の権威、秩序、生活の規準となるべき権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。占領軍が期待し、また国内の民主的勢力が望んだのは、天皇の絶対的権威が否定されることであった。しかし実際に国民の大多数の中で否定されたのは、天皇の権威ではなく、権威そのものであった、歴史的相対主義のかわりに、現在目の前のどういう価値も信用しないという現象が起こるのは、当然の成り行きであったろう。
民主主義の一面は、敗戦後十年の間に、深く抜き難い根を下ろしていったが、それは一面においてであり、具体的な個々の場合においてであって、また、おそらく選良の多数には、未だそういうものとしてしか民主主義は受け入れられていない。
むしろ逆に天皇を中心とした世界の崩壊が作り出した権威一般に対する不信用の態度は、民主主義そのものにも向けられていると考えなければならない。事がそのように運んだ理由は、むろん敗戦の事情だけではなく、また民主主義の原理そのものとも関連し、殊にその原理が現在世界で遭遇している大きな困難、すなわち「二つの民主主義」という言葉によって要約される矛盾と関連している。
「二つの民主主義」の対立は、いずれかの形での民主主義の経験の浅い国ではーそれは何も日本に限らないがー当然のことながら、文化的伝統と国家的経験の基準からよりも、純粋にイデオロギー的な対立として扱われる傾向がある。
しかしそれがイデオロギー的対立として扱われる限り、第一に、解決は困難であり、したがって第二に、議論が煩雑とならざるをえない。その結果は、第三に、一般の知的大衆が民主主義に対するほんとうの関心を失うのである。いわゆる「敗戦の虚脱」の根本的条件は今でも変わっていないと思われる。」
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