所用にてしばらく首都圏を離れ、西日本某都市へ赴いていました。本日の夕刻過ぎにこちらに戻りましたが、やはり西日本の方がいくらか蒸し暑かったのではないかと思われます。
それは日中から夜半を通じ、歩いている際にも自然と汗が出てくるといった感じであり、この感覚は、何といいますか、久しぶりに体験することにより、かつて、そうした環境・大気の中にて住んでいたことが思い出されるといった感覚であるとも云えます。
また、この感覚は、ある程度の期間、その地域に住むことによって(はじめて)体得し得るといった性質のものでもあり、且つ、それは地域内広域において感じ得るもの(大気、日光の強さなど)から地域内においてさらに限定的に感じ得るもの(特定のお店が提供する食べ物など)に至るまで多岐に渡り、それら全てを包含した「系」のようなものが、感覚的な意味における『その地域』ということになると思われます。
こうしたものは、おそらくあまり言語化されることはありませんが、こうした感覚、体感がなければ、その地域、都市と
は自身にとって、単なる地図上の地名としての記号に留まるもの、または書籍文献に書かれている具体的内容を感知し得ない言説つまりは無機的なコトバの羅列に留まるということになるといえます。
そしてまた、こうした感覚は、地域軸のみならず時間軸においても作用もしくは応用可能であり、その意味で、地域におけるさまざまな史跡、遺跡あるいは寺社仏閣などとは、さきに書いた感覚的な意味での現時点の『その地域』の構成要素であると同時に、さらに、それらに付随するさまざまな『物語としての歴史』をも認識し、それを現時点における感覚と結節することにより、その感覚とは、時間軸においても延長・拡大することが出来るのではないかと考えます。
つまり、先ずはじめに現時点における種々認識があり、そこからさまざまな能動的な興味関心に基づいた知見を深める、広めることにより多面(地域・時間軸等)にわたり『その地域』というものを(先ずは主観的に)知っていくのではないかと思われるのです・・。
また、そのように考えてみますと、少なくとも自身の場合、そうした方法の繰り返し、蓄積を通じて(決して多いとは云えないものの)いくばくかの知識、知見を得てきたと自覚しますが、こうした方法とは、さきの『その地域』あるいは『物語としての歴史』のみならず自身の場合は、実験を用いる理系学問分野においてもまた同様であったのではないかとも思い至るのです。
このことをもう少し具体的に書きますと、自身の場合、地域での日常生活のなかで自然に発生した時間軸的な要素への興味、つまり出土、発見された遺跡、古墳および土器、青銅器、鉄器などに対する漠然とした興味あるいは、どうにかそれらを認識したいといった欲求から、あとに続く現在の歯科用材料に対する実験を用いる方法、アプローチへの興味に結節したということになるといえます・・。
とはいえ、こうした方法あるいは(自然発生的ともいえる)興味の生成過程が、現在の諸学問において用い得る、価値を持つ方法論として正統、正当であるのかは分かりかねるところではありますが・・。
しかしながら、こうした方法に拠って、いくつかの学問分野を横断する知識、知見が得られたという個人的な実感、自覚とは、少なくとも虚偽ではなく、また自身という決して優秀とは云いかねる人間が一応そうした実感を得るに至ったことには、応用の仕方が限局されるものではあるのかもしれませんが、何かしらの人間そのものに対する知見が多少は含まれているのではないかとも考えられるのではないかと(多少自意識過剰気味ではあれ)思うことがあるのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。
とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域での速やかなインフラの復旧、回復および、その後の力強い復興を祈念しています。』
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