どちらかというと渋々、今現在(23:10)記事作成に取り掛かりました・・(苦笑)。
さて、昨日投稿した記事もまた、思いのほか多くの閲覧者数を得ることが出来ました。
これを読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。
また、それに加えて、昨日記事投稿直後の反応もまた大変面白く、考えさせるものでした・・。
そこまで(記している私が思いもよらない程)深く読んで頂けるのでしたら、私も毎回のブログ記事作成の意欲が湧いてくるというものです・・(苦笑)。
しかし、あと数記事投稿して500記事に到達したならば、以前書いた通り、一度、意識的な断筆を試みる所存です・・。
であるからといって、何か大きな変化が起きるとは考えてはおりませんが。
しかし、その一方において、自身の文章作成に対する「思い」といったものは、多少なりとも測ることが出来るのではないかとも思います・・。
そして、その「思い」を自身が認識して、はじめて何かしらの内面における変化といったものは生じるのではないでしょうか・・?
我々は一般に、無意識で「何らかの環境」を当たり前、所与のものとして、その環境の中にいる時は、それが持つ意味、影響力について考えることは困難であるように思います・・。
そして、その環境から抜け出た後、はじめて、その意味、影響力などについて考えることが出来るのではないでしょうか・・?
また、こうしたことを記しておりますと、不図思い起こされることは、以前ブログ記事に書いた煮物などで火をかけている時は具材に出汁はあまり浸透しておらず、より浸透するのは火を止めた後の冷却の過程であるということです・・。
そのように考えてみますと咄嗟に「この時期、季節に冷却というコトバは穏やかではないな・・」と思うのですが「そうであれば記事作成を継続するのか?」ということになりますが、何れにしても、500記事作成の後、一旦ある程度の期間、断筆を試みることは、少なくとも、これまでの人生でなかった面白い試みであるとは思いますので、これは是非行いたいと考えております・・(笑)。
しかし、そのようなことを(笑)で書くことが出来るということは500記事作成においても未だ余裕があるとも推察されますが、たしかに未だ現在、全てを出し切ったという感覚はありません・・。
これは自信過剰からくるものではなく、ごく自然な思いの表出であるといえますので、むしろ、これまでのブログ記事作成が過剰に「偽りの自信」に作用することの方を私はおそれます・・(おそらくそれはないと思われますが・・)。
また、自信というものも本来は内面から涌出するものであると思うのですが、残念ながらこれに関しては未だ「源泉を掘り当てた」といった感覚は得ておりません・・。
とはいえ、その一方で「何か分かった・・」という感覚とは幾つか得てはきているとも考えております・・。
これは私がそうして得た感覚の「取り扱い」を間違ってきたことに由来するのであろうか・・?
しかしながら、私見となりますが、特に夏目漱石の著作の面白さの多くとは、その一種の「自信の無さ」を述べているところに共感できる何かが認められるからではないかと考えます。
そして、それ故にか、彼は近代日本を悲観し、そして結果的に歴史とは、その通りになってしまった・・といって間違いではないように思われます・・。
また、それと同じ意味にて、太平洋戦争の敗戦という大きな痛手を被った世代の多くの著述家が、現代の日本社会を憂慮、危惧しつつ世を去っていったことに対し少なからぬ興味をおぼえるのです・・。
また、彼等世代を目の上のタンコブとし、それが去った後に跳梁跋扈する方々とは、果たして後世から如何なる判断が為されるのであろうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
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