2025年7月8日火曜日

20250708 工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」 pp.76-79より抜粋

工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」
pp.76-79より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4875020651
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4875020653

「山椒魚戦争」が発表されたのは1936年、ヨーロッパは第二次大戦へと急速になだれ落ちていく時期であった。このとき、各国はすべて自国の利益を思考の中心に置いて、人間のことなど思い出そうともしなかった。チェコよりも古く、やはり同じように故郷を失ったケルト人の哀しみを描いて詩人フィオナ・マクラウドは、「民族が滅びるということは、領土がなくなることでも血が絶えることでもない、民族の言語が消えることだ」と断言したけれど、チャペックもまた「山椒魚戦争」に籠めた感慨はまったく同じだったにちがいない。山椒魚たちはやがて各国独自の管理下に置かれ、言語もその国の母国語を教え込まれることになって、バベルの混乱は山椒魚レベルにまで拡大することになる。

 かくして人類は各国別にユートピア建設に着手する。イタリア人は地中海全体を含む「大イタリア」を、日本は太平洋海域に「新日本」を建設して、どの島にも人工火山を設置する。「将来そこに住む人たちに、聖なるフジヤマを思い出さ」せるために。人類は、山椒魚のおかげで、ようやく世界の支配者になったことを自覚したのである。

 しかしここで大逆転がおこる。山椒魚は法律的、人道的、政治的なキャンペーンを通じて自治権を確立し、その数にものを言わせて(約二百億!)人間相手の大戦争に勝利してしまう。最初はリンゴ園荒しだとか卵盗みといった日常生活レベルのいざこざから、ついにバルト海に武装結集した精鋭山椒魚軍が蜂起する。フランスの評論家マルキ・ド・サド(!)が英仏独に向けて発した警告も、もはや手遅れだ。地殻変動がはじまり、人類の運命も決したとき、山椒魚側の代表サラマンダー総統が呼びかけを行いない。巧みな戦術に乗った人間は体よく奴隷化される。月日は流れ、山椒魚の時代がつづく。しかしその山椒魚たちは、アトランチス山椒魚とレムリア山椒魚の二派に分裂し、「真正山椒魚主義の名」において同士討ちの地獄絵を描きはじめるー「マレーのあいくちとヨガの短剣で武装したレムリア山椒魚は、アトランチスの侵入者たちを容赦なく斬り殺し、一方ヨーロッパ的教育を受け進歩したアトランティス山椒魚は、レムリアの海に化学毒薬や培養した殺戮用バクテリアを流して」。かれらはともにすばらしい戦果をあげるが、結果として海は汚染され、鰓ペストによって自らの絶滅を招き寄せるのだ。そしてかれらの戦いのシンボルは、ピジン・イングリッシュ対ベーシック・イングリッシュである。

 普遍言語によらず英語によって文明の階段をのぼった山椒魚は、こうして滅びる。言語哲学の問題を内包したチャペックの物語は、言語の闘争による言語の敗北という観点に立ったとき、何にも増して完璧なアンチユートピア小説となる。しかも底に流れる言語のブラックユーモア(解読不能の記事やインチキ日本語のパンフ)は、人工言語を完璧な冗談として創りあげたモアの心意気に通じる。小松左京の「日本アパッチ族」は、チャペックのそれを手本とし、その展開をみごとに日本化した成功作だけれど、小松左京の作品からは唯一、モア=チャペックの普遍語幻想が漏れている。最後に、チャペックが普遍語の勝利を諦めた裏には、東洋に対する絶望があろう。ライプニッツ、ヴォルテールら古典的ユートピア言語派の時代には、東洋はまだ倫理と徳の国であり、漢字は聖文字(ヒエログリフ)文字であった。しかしチャペックの時代には、その神話すら吹きとんでいた。そのせいだろうか、山椒魚自体に、あるいは日本人を示す暗喩を感じることができるかもしれない。なぜならば、かれらはrの音を発音することができず、すべてのrをIに転化してしまったのだから…。

2025年7月7日月曜日

20260113 株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」 pp.34-36より抜粋

株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」
pp.34-36より抜粋

「日本文化について」ということですが。別にお話しすることを考えてないんです。(笑)…ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は…というように。

…文明というのは、やっぱり普遍的なものでしょうな。…たとえば、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続きだけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通りに料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。

 それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。 

 むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者ーだけではありませんけれどもーの流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではく。ジーパンは文明なのか、アメリカの文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。

…たとえば大相撲をロンドン子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれどもー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー外国でも受け入れられる。

 しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続きをする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋とか中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている、神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。

 大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。…こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが…(笑)。

 お相撲は大昔からあったんですけれど、普通、芸能的なもの、スポーツのようなものは王様とか貴族たちが楽しみにして、そういうことでできあがるものでありますが、大相撲は、江戸や大阪その他の木戸銭でできあがっている。そしてお客さんというのは喜ばせなきゃいけませんですから、いろいろそれに沿ってマナーが発達していったり、無様なものはそぎ落されていったり、ルールもあまり煩瑣なものはそぎ落されていったりして…大相撲というのはよくできたものですね。これは珍しく日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、やはり海外にもー海外にも大衆がいますからー受け入れられるんでしょうな。だけれども、基本的には大相撲は文化です。
 …今、教育会館に来ておりますが、教育会館は吉田五十八さんの設計だそうですな。というこは今聞いたばっかりです。吉田さんの建築は、皆さんご存じのように、日本の古い建築をイメージの中心において、それを新しく生かした非常に誇るべき芸術です。吉田五十八さんがいなければ、われわれの伝統はもう中断したかもしれない。
 
奈良朝と平安朝

 …その建築の話をいたしますと、日本には奈良朝という時代がありましたな。次に来るのは、京都に都が置かれて平安朝ですが、奈良朝と平安朝との違いを凹凸としてお考えくだされば、非常によくわかります。奈良朝のイメージというのは、堂々たる建物。これは唐様の堂々たる建物。それからお仁王様とか、その他彫刻。彫刻と巨大建造物の時代でした。
 むろん、奈良朝というのは、中国文明を受け入れた時代であります。これに対しての平安朝というのは、ちょっと平べったいでしょう。イメージの中の、「源氏物語」の時代を想像してくださればわかりますが、公家の屋敷、それから御所、その他どれも非常に平面的であります。奈良の都は大仏殿、唐招提寺、あるいはその他の巨大建造物でご存じのような、あのイメージで想像してくださっていいんですが、そびえ立つような、そして柱もずっしりと大地に沈み込んで、見た目にも威容を感じます。それが平安朝、つまり京都に行くと、やわらかくて平面的になる。

2025年7月6日日曜日

20250705「日本文学史序説」との出会いについて②

 先月、6/15の投稿記事にて「自由な立ち読み的読書が、個人・社会の双方において創造性の活性化に何らかの良い効果をもたらすのではないか?」という見解を述べましたが、今回はこの見解と、その次、6/18の投稿記事「『日本文学史序説』との出会いについて①」を統合し、さらに、その続きを述べたいと考えます。
 繰りかえしにはなりますが、当著作を購入したのは鹿児島に在住していた2012年であり、そして実際に読み始めたのは、翌2013年の秋、学位を取得して帰郷後のことでした。目標であった学位取得は叶ったものの、すぐには就職が決まらず、さらに求職活動が長期化する可能性も現実的なものになってきた頃「これまでのように専門分野の論文や学術書ばかりを読んでいても、どうにもならないのでは?」と考えるようになり、そうした中、過日購入して積読状態となっていた当著作を手に取り読んでみたところ、大変面白く、強く惹かれて、自然と自分なりに精読をするようになっていました。
 現在、振り返ってみますと、これは一種の「開き直り」であったと思われます。それでも、こうして、自らの「専門性」という(思い込みの)枠組みから一旦離れ、棚上げ状態であった以前から興味関心を抱いていた分野の著作を読み進めることは、やはり楽しいものであり、さらに、書籍の読み方が、以前よりも多少深化しているように感じられたことは、あるいは錯覚であったのかもしれませんが、その後、約2年経過して始めた当ブログへと繋がるものがあったと思われます。
 これをもう少し詳説してみますと、多少の苦労を経て、どうにか獲得した制度に基づく専門性と、それまで、棚上げ状態であった内発的な興味・関心を持つ分野での読書が結びついて生じた感覚の変化は、やがて自らの考えにも影響をおよぼし、やがて「読む」ことと「思索する」ことの間の距離が次第に近づき、やがて、両者一体となって駆動し始めるような感覚が生じるのです。
 こうした経緯で感覚が駆動し始めますと、それまで断片的であった知識や経験といった「記憶」が、機に応じて統合され、そして文脈を持ち、再構成されていくようになります。   また、ここでいう「駆動」とは、外から与えられた刺激に反応するといったものではなく、内に蓄積されたものが、ある点に至り、自然と動き出すような自発的且つ持続的なものであると考えます。そして、このような内面での駆動感がしばらく続きますと、次第に「自分で文章を作成したい」という欲求が、ごく自然に生じてきました。
 あるいは、これを異言しますと、この感覚の駆動の内容を、他者に向け、あるいは自分自身のために言語として表現したいという欲求が生じ、それにしたがい継続しますと、やがて文章による表現とは、単に、その場限りのアウト・プットではなくなり、思考を深めて、そして更なる継続を求めるような、ある種の機構・機関のようなものになっていきます。このようにして徐々に、読むこと、考えること、そして書くことが、それぞれ別々の営みではなく、連動して、知性を用いた活動として、創造的な表現になっていくのではないかと思われるのです。
 実際、当ブログ開始当初は、『日本文学史序説』からの引用記事を盛んに作成していました。しかしそれらは、単なる著作の紹介としてではなく、当著作の文章に触発されながら、そこに自らの経験や考えを重ね合わせたり、組み合わせたりすることにより、自らの考えを深めていこうとしていたのだと思われるのです。
 異言しますと、当ブログ初期での引用記事は、いまだ自らの言語としては定着していない考えや思想を表現出来るようになるための「足場」のようなものであり、さらに、それらを何度か繰り返し、組み直すことで、徐々に自分の文章表現での抽象的な意味での型のようなものが形成かれて行ったのではないかと思われます。
 振り返ってみますと、2013年の学位取得から2015年の当ブログ開始に至るまでの約2年間は、色々と動き回り、また葛藤故にか「空回り」ばかりしていたと自ら思うのですが、しかし、これは見方を変えてみますと、当ブログ開始に至るまでのいわば発酵期間であり、そして、私にとって、その発酵を促すものが、さきに述べた「自由な立ち読み的読書」からの精読であったのではないかと思われるのです。
 そのように考えてみますと、こうしたブログを含めた文章の作成とは、何やら何か特別な才能などにより成し遂げられるものではなく、むしろ、日常のなかでの、あまり意図しない選択や、あるいはまた逸脱のなかから、自然と生じてくる感覚を拾い続けることによって出来るようになるものであるのかもしれません…。
 そして、こうした経緯を多少意識的に振り返ってみますと、私はアウグストゥスが述べ、開高健が本邦に広めた「悠々として急げ」という言葉が思い起こされます。急いで結果を求めるのではなく、しかしまた、立ち止まらずに歩き続けていくことが、何であれ表現の本質に通じているのではないかと思われました。
そして、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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2025年7月1日火曜日

20250701 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一編著「新しい地政学」 pp.149‐152より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.149‐152より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中国は、多くの場合、地政学上の概念で陸上国家と見なされることが多い。しかしスパイクマンの修正概念を用いれば、中国は、地政学上の「両生類(amphibia)」に分類される地理的環境にある。中国は、大陸に圧倒的な存在感を持って存在している一方で、遠大な大洋に通ずる沿岸部を持っているからである。中国は、歴史上大陸中央部からの勢力による侵略と、海岸での海賊等も含めた勢力による浸食に悩まされてきた。「一帯一路」構想は、ユーラシア大陸を貫く(中国影響圏の)複数の帯を放射線上に伸ばすだけでなく、大陸沿岸部にも中国から伸びる海洋交通路を確立することを目指している。

 南下政策の伝統的なパターンを踏襲するロシアの影響力の拡張に対して、一帯一路は、ユーラシア大陸の外周部分を帯状に伝って、中国の影響力を高めていこうとする点で、異なるベクトルを持っている。ロシアのように、大洋を求めて南下しているのではない。中国は、資源の安定的な確保や市場へのアクセスを狙って。リムランドにそって影響力を広げていこうとしている。そこで一帯一路は、海洋国家群のインド太平洋戦略と、点上においてではなく、平行線を描きながら、対峙していくことになる。

 2017年、スリランカのシリセナ政権は、中国からの支援を背景に内戦を勝ち抜いたラージャパクサ前政権時に累積した巨額の負債の処理に苦慮し、南部ハンバントタ港の運営権を99年間、中国企業に貸し出すことに合意せざるをえなくなった。同じようにインド洋に浮かぶモルディブでも、中国主導の経済開発が、政治的対立と結びつき、政情不安定が訪れている。スリランカでは、もともとラージャパクサ前大統領が中国に依存する傾向を持ち、シリセナ大統領はそれを是正する姿勢を見せていた。モルディブでも、中国との距離のとり方が、大統領派と反大統領派の政治対立に結びついている。インドを回避して、インド洋の「橋頭堡」を確保しようとする一帯一路あるいは「真珠の首飾り」(南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、ペルシャ湾にかけての地域に軍事施設などを置く中国の政策)の戦略は、インド太平洋戦略と摩擦を起こしつつ、各国の内政にも影響を与えている。

◉超大国中国の影響
 東南アジアでも似たような構図が生れている。たとえばミャンマーのロヒンギャ問題は、現在の国際社会の一大関心事であり、欧米諸国はミャンマー政府を非難している。しかし具体的な対応策をとることができないのは、中国がミャンマー政府の後ろ盾となっている事情が大きいだろう。カンボジアのフン・セン政権の人権抑圧についても、あるいはタイの軍政や、フィリピンのドゥテルテ大統領の強権政治についても、中国の動きを入れるのでなければ、各国は政策を進めていくことができない。

 中国がさらに圧倒的な存在感を見せるのは、北朝鮮をめぐる問題においてである。巨大な島国である日本と、大陸の超大国である中国に挟まれた朝鮮半島は、古来より国際政治情勢に起因する大きな変動を被ってきた。ただし19世紀末から20世紀半ばまで、日本の国力の増大によって、朝鮮半島全体が日本の影響下・支配下に置かれるという事態が起こった。この事態を打ち破ったのは、同じ海洋国家として、むしろ拡大しすぎた日本の影響力を警戒したアメリカであった。

 アメリカは、日本を打ち破って占領統治した政策の帰結として、朝鮮半島の帰趨に関与することになった。朝鮮半島以降、日本に代わってアメリカが、中国とにらみあいながら。海洋国家のプレゼンスを朝鮮半島に維持する役割を担うようになった。現在、北朝鮮の核開発問題をめぐっては、アメリカと北朝鮮の間の直接交渉を通じた打開策が模索されている。本来であれば、経済制裁によって脆弱化した北朝鮮に対して、アメリカは優位な立場にある。しかし超大陸・中国が後ろ盾として存在しているかぎり、単純なアメリカ優位のままの事態の解決は容易ではない。一帯一路とアジア太平洋の戦略は、まず朝鮮半島から激突していると言ってよい状況である。なお、最近の日韓関係の悪化の背景に、こうした構造的な地政学的要因によって韓国の立ち位置が微妙なものになってきていることが関係していないとは言えないだろう。

 なお中国は、さらにアフガニスタンや中央アジア諸国、さらにはアフリカ諸国に関しても、財政貢献や政治調停への参画に関心を持っている。特に大量の援助を投入してきたアフリカにおける影響力は、かつてないほどに大きい。もっとも今のところ、中国の影響力は、中東においてはまだ限定的だと言える。

 急速な発展で超大陸の一つと見なされるようになった中国が紛争多発ベルト地帯に対して持つ影響力は、まだ発展途上にあると言えるかもしれない。しかしその一帯一路の戦略が、アジア太平洋の戦と、紛争多発ベルト地帯にまたがる形で摩擦を生み出していく傾向は、今後さらに増えていくだろう。

2025年6月29日日曜日

20250629 かつて在籍した研究室での雰囲気について

 さて、以前にも何度か当ブログにて述べたことがありましたが、私がかつて在籍していた研究室の長であった教授(師匠)は、歯学と工学の両分野で博士号を取得された、所謂ダブル・ドクターでした。そして、それ以外に特徴的であることは、英語が非常に堪能である点です。

 もっとも、事情に通じておられる方々であれば、大学の医歯薬理工系分野の教授が英語に堪能であることは、当然とまでは云わないにしても、自然なことだと受け取られるかもしれません。そして、そうした見解も踏まえた上で申し上げれば、師匠の英語で特筆すべきことは、口語においても非常に堪能であるという点です。

 このことは、おそらく師匠ご自身も自任されており、その反映として、当研究室では、毎週水曜日の朝8時から9時まで英論文の輪読会が行われていました。そして、おそらく、これが私にとって、鹿児島在住期の最初の試練であったと云えます。

 とはいえ、私は、それ以前のホテルのフロント勤務の頃や大学院修士課程の頃にも、英語に触れ、学ぶ機会・経験はある程度はありましたので、歯科系の英論文といえど、まったく「歯が立たない」ということはありませんでした。また、師匠や研究室の諸先輩方も「まあ、大丈夫じゃないか…?」程度には評価してくださっていたのではないかと思われます。

 そうしたこともあり、大学院入学から約半年後には、ポスター発表ではありましたが、人生初、海外(韓国)での学会発表の機会を頂くことが出来ました。

 とはいえ、当研究室では、海外での学会発表などは、さほど珍しいことではなく、師匠をはじめ研究室構成員の多くが、度々、海外での学術会議等の出席のために出張されていました。その様子から、「彼等は正式な所用として海外に行くために研究しているのではないか…?」と当時、少し邪推したこともありました…。無論、それは全般的には的外れな考えと云えますが、同時に、ごくわずかではあれ、そうした心情もなかったわけではないとも思われます。

 そして、そうした環境にて師匠が教授として在任されていた当時の研究室は、非常に活発で活気がありました。アカデミアや企業の方々、さらには研究熱心な開業歯科医師・歯科技工士の方々など、さまざまな来訪者が頻繁に研究室にいらっしゃっていました。

 さらに、先述の水曜朝の英語論文輪読会もあり、当時の研究室は端的に「賑わっていた」のだと云えます。

 また、偶然であるのか、当研究室の構成員は、教授をはじめ私に至るまで、血液型B型の男性が際立って多く、その主張の強い性格から、日常的に議論が絶えませんでした。ただ、それらは陰に籠るようなものではなく、双方が納得に至れば収束するといった性質のものでした。

 私はそうした様子を見て、以前に読んだ福澤諭吉による『福翁自伝』に描かれた適塾の活気ある雰囲気が不図、思い出されました。そして、そこから「学究的な空間」とは、古今東西を超えた普遍的なある種の性質や特徴があるのではないかと思うに至りました。

 また他方で、師匠の決して隠そうとされない郷音の河内弁が、会話の途中にて突如、比較的聴き取りやすい英語へと切り替わる様子に、何かしら「常ならぬもの」を感じ取っていたのではないかと思われるところもあります…。

さて、今回なぜこうした題材をブログ記事として取り上げたのかと申しますと、本日(6月28日)、師匠がまた、何らかの公の舞台に立たれると聞き及んだためです。そして今頃は、無事に、そのお役目を果たされたものと考えます。

 そしてこの機に、かつて師匠が率いられていた頃の研究室の様子を文章として記述するとともに、現在、私が英語の口語・文語に対して、つたないながらも何とか対応できている原点を振り返ることは、ささやかながら師匠への称揚ともなり、時宜にかなっているのではないかと考えた次第です。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。


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2025年6月27日金曜日

20250626 言語の層と内面のチューニングについて

 去る6月22日、当ブログは開始からちょうど丸10年となり、また総投稿数も2350に到達しました。本来であれば、10年間を一区切りとして休息を入れても良いとも思われますが、今しばらくは継続して、キリの良い2400記事まで到達できたところで、すっきりとした気持ちで当ブログやSNSからしばらく離れてみようと考えています。それ故、またしばらくは文体や内容に特にこだわらず、できるだけ自然なかたちで、さらに当記事を含め49記事を更新していきたいと考えています。

 思い返せば、当ブログ開始当初の頃は、こうした文章の作成が習慣として定着しておらず、また自らの文体も定まっていなかったことから、一つのブログ記事を作成するのに、かなりの時間と労力を要していました。しかしその後、自分なりに試行錯誤を続けていくなかで、ふと気が付きました。それは、自分の内面に「文章を書くのに適した言語が流れている層」のようなものが存在しており、そこに意識を重ね合わせることにより、比較的スムーズに文章を作成することができるのではないかということです。

 こうした内面での様相は「ラジオの手動チューニング」に似たような感覚であり、感度が合わないままでは雑音ばかり入り、文章の作成においても断片が途切れ途切れになりがちなのですが、あるところで、この文章の流れの層に意識がぴたりと合いますと、言語と文章が途切れずに滑らかに流れ出すように、比較的整った文章が湧いてくるのです。これは勿論、比喩ではありますが、同時に実感としてそうしたものがあったと云えます。

 また、この比喩は、文章の作成という行為が、必ずしも言語の持つ論理性だけで支えられているわけではないことを示唆しており、内面に流れている文章の層に、書き手の意識が合うことにより、その言語が身体化、つまり文章として顕現するのだと云えます。それはまさに、身体と言語が調和して表出される微妙なバランスであり、いわゆる「フロー状態」に近いのではないかと考えています。

 とはいえ、この内面での「言語の層と意識とのチューニング」は、毎度明瞭に意識されるものではなく、しばしばその感覚を見失って「そういえば、こうだった…」とその都度思い出しては、再び習慣化しようと試みてきました。それでも、いまだ完全には血肉化されたものとはなっておらず、恥ずかしながら現在もなお、度々、意識的にこの感覚を思い起こす必要がある状態にあると云えます。

 とりわけ、以前に書籍からの引用記事を中心として記事作成をしていた期間は、こうした内面での感覚を想起する必要性が乏しかったことから、かなりその感覚を忘れていました。そしてその後、再び自らの文章にてブログ記事の作成を始めましたが、先の感覚を忘れていたために、なかなか文章がまとまらず、苦慮することも多々ありました。それでも継続していくなかで、徐々にかつての感覚を取り戻してきたように思われます。そして、その鍵となるのが前述の「チューニング」であり、またそれには自分なりのいくつかのコツがあることも思い出されてきました。

 しかしながら、それらのコツも含め、未だに再び身体化されたわけではなく、折に触れては思い出すといったことを繰り返しています。それでも、思い出せるだけでも、まだマシであるとは云えるのかもしれません。

 さらに、2020年1月からエックス(旧ツイッター)との連携を始めて以降は、以前よりも読者の存在を意識するようになり、そこからブログ記事作成に多少萎縮してしまう感覚もありましたが、同時にその頃には総投稿数が1500を超えていたこともあり、たとえ投稿頻度が低下しても、記事作成自体は止むことなく継続でき、その後さらに現在に至るまで800記事程度は追加で更新してきました。これは、エックスとの連携以前から、すでに当ブログにて文章の作成がある程度習慣化していたために、過度なプレッシャーを受けることなく、双方共にどうにか継続できているのだと思われます。

 ともあれ、こうして作成している文章は、私にとって一種の備忘録であり、また読んでくださっている方々に向けた独白でもあります。しかし同時に、こうした、いわば自由な文章の作成を継続していくなかで、また新たに自らの文章作成に相転移のような変化が生じるのではないかとも考えています。だからこそ、たとえ文章として多少まとまりを欠いていたり、あるいは見苦しい部分があったとしても、今しばらくは、こうしてブログ記事の作成を継続したいと考えています。




2025年6月24日火曜日

20250623 丸10年間の継続と2350記事の歩みを振り返って思うこと

おかげさまで、昨日6月22日を以て当ブログは開始から丸10年を迎えました。また、総投稿記事数も、過日目標として掲げていた2350本に到達いたしました。これまで当ブログを読んでくださった皆さまに心より御礼申し上げます。

 今後も、2400記事までは、これまでと同様、あるいはこれまで以上の投稿頻度で継続していきたいと考えておりますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

 もっとも、斯様に10年間継続したとはいえ、私自身には大きな実感や感慨などはありません。そこから、先刻「ブログを10年間継続し、投稿記事が2000本を超える」とは、世間的にどの程度のことであるのかと、しばしネット検索してみましたが、腑に落ちる見解に出会うことはありませんでした。

 いや、そもそも私には、いわゆる「ブロガー」という自覚が乏しく、「何かしら文章を作成し、それを公表する習慣を保つための場」として当ブログを捉えてきました。また、私にとっては「文章を公表する」ことのほうが、ブロガーとして収益を得ることよりもはるかに重要であり、そして、そうした姿勢は2015年6月22日の開設以来、ある意味、強迫観念のように、今に至るまで持続しているのだと云えます。

 では何故、そうした強迫観念が今なお続いているのかと振り返ってみますと、それは2009年から2013年にかけての鹿児島在住期間に経験した、兄の死や、師匠の退職といった出来事が大きく影響しているものと考えます。そして、そうした経験が所謂「トラウマ」となり、それらを乗り越える過程において、自分の考えや読んできた書籍などを、出来るだけ分かり易く、伝わるように表現したいと云った欲求がごく自然に生じたのだと云えます。

 換言しますと、以前に在住していた和歌山での経験や学びのみでは、当ブログの開始には至らず、鹿児島での悲喜交々の経験や学びが、和歌山時代のそれと化合して、そこから約2年のタイムラグを経て、当ブログの開始に至ったのだと云えます。

 とはいえ、こうした感覚は、自身の主観に過ぎず、うまく表現出来ているかは分かりませんが、実際、当ブログの記事を読んで頂ければお分かりいただける通り、これらの経験がなければ、多くの記事の題材もまた存在しませんでした。それ故、この点においては大きくは間違っていないであろうと云い得ます。

 また、たとえ多くの閲覧者を得られなくとも、そうした題材を文章として表現すること自体が、当ブログの、他にあまりない独自性であるとも云えるのではないかと考えています。

 ちなみに、これまでの総閲覧数はおよそ94万5千人であり、単純に均しますと、1日あたり約250人ほどになります。そこから、当ブログは決して大きく成功しているとは云えませんが、同時に、私がこれまでに取り組んできた行為の中では、最も知名度を得たものであるとも自覚しています。

 そして、こうした自覚があったからこそ、当ブログ開始5年目の2020年から始めたエックス(旧ツイッター)と当ブログとの連携においても、少なからずプレッシャーを感じつつも(何とか)現在に至るまで継続的に発信することが出来ているのだと云えます。くわえて、2015年の当ブログ開始当初から実名で運営してきたことも、継続を支えた一つの要因となったと考えています。

 こうしたプレッシャーや負荷のようなものは、昨今の我が国社会全般では、避けられる傾向があるようですが、私自身はむしろ、それらは、継続のために必要なものであると考えています。そしてこれからもしばらく、2400記事到達までは、そうした緊張感を覚えつつ(何とか)継続出来れば良いと考えています。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。

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