思い返せば、当ブログ開始当初の頃は、こうした文章の作成が習慣として定着しておらず、また自らの文体も定まっていなかったことから、一つのブログ記事を作成するのに、かなりの時間と労力を要していました。しかしその後、自分なりに試行錯誤を続けていくなかで、ふと気が付きました。それは、自分の内面に「文章を書くのに適した言語が流れている層」のようなものが存在しており、そこに意識を重ね合わせることにより、比較的スムーズに文章を作成することができるのではないかということです。
こうした内面での様相は「ラジオの手動チューニング」に似たような感覚であり、感度が合わないままでは雑音ばかり入り、文章の作成においても断片が途切れ途切れになりがちなのですが、あるところで、この文章の流れの層に意識がぴたりと合いますと、言語と文章が途切れずに滑らかに流れ出すように、比較的整った文章が湧いてくるのです。これは勿論、比喩ではありますが、同時に実感としてそうしたものがあったと云えます。
また、この比喩は、文章の作成という行為が、必ずしも言語の持つ論理性だけで支えられているわけではないことを示唆しており、内面に流れている文章の層に、書き手の意識が合うことにより、その言語が身体化、つまり文章として顕現するのだと云えます。それはまさに、身体と言語が調和して表出される微妙なバランスであり、いわゆる「フロー状態」に近いのではないかと考えています。
とはいえ、この内面での「言語の層と意識とのチューニング」は、毎度明瞭に意識されるものではなく、しばしばその感覚を見失って「そういえば、こうだった…」とその都度思い出しては、再び習慣化しようと試みてきました。それでも、いまだ完全には血肉化されたものとはなっておらず、恥ずかしながら現在もなお、度々、意識的にこの感覚を思い起こす必要がある状態にあると云えます。
とりわけ、以前に書籍からの引用記事を中心として記事作成をしていた期間は、こうした内面での感覚を想起する必要性が乏しかったことから、かなりその感覚を忘れていました。そしてその後、再び自らの文章にてブログ記事の作成を始めましたが、先の感覚を忘れていたために、なかなか文章がまとまらず、苦慮することも多々ありました。それでも継続していくなかで、徐々にかつての感覚を取り戻してきたように思われます。そして、その鍵となるのが前述の「チューニング」であり、またそれには自分なりのいくつかのコツがあることも思い出されてきました。
しかしながら、それらのコツも含め、未だに再び身体化されたわけではなく、折に触れては思い出すといったことを繰り返しています。それでも、思い出せるだけでも、まだマシであるとは云えるのかもしれません。
さらに、2020年1月からエックス(旧ツイッター)との連携を始めて以降は、以前よりも読者の存在を意識するようになり、そこからブログ記事作成に多少萎縮してしまう感覚もありましたが、同時にその頃には総投稿数が1500を超えていたこともあり、たとえ投稿頻度が低下しても、記事作成自体は止むことなく継続でき、その後さらに現在に至るまで800記事程度は追加で更新してきました。これは、エックスとの連携以前から、すでに当ブログにて文章の作成がある程度習慣化していたために、過度なプレッシャーを受けることなく、双方共にどうにか継続できているのだと思われます。
ともあれ、こうして作成している文章は、私にとって一種の備忘録であり、また読んでくださっている方々に向けた独白でもあります。しかし同時に、こうした、いわば自由な文章の作成を継続していくなかで、また新たに自らの文章作成に相転移のような変化が生じるのではないかとも考えています。だからこそ、たとえ文章として多少まとまりを欠いていたり、あるいは見苦しい部分があったとしても、今しばらくは、こうしてブログ記事の作成を継続したいと考えています。
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