2025年7月8日火曜日

20250708 工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」 pp.76-79より抜粋

工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」
pp.76-79より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4875020651
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4875020653

「山椒魚戦争」が発表されたのは1936年、ヨーロッパは第二次大戦へと急速になだれ落ちていく時期であった。このとき、各国はすべて自国の利益を思考の中心に置いて、人間のことなど思い出そうともしなかった。チェコよりも古く、やはり同じように故郷を失ったケルト人の哀しみを描いて詩人フィオナ・マクラウドは、「民族が滅びるということは、領土がなくなることでも血が絶えることでもない、民族の言語が消えることだ」と断言したけれど、チャペックもまた「山椒魚戦争」に籠めた感慨はまったく同じだったにちがいない。山椒魚たちはやがて各国独自の管理下に置かれ、言語もその国の母国語を教え込まれることになって、バベルの混乱は山椒魚レベルにまで拡大することになる。

 かくして人類は各国別にユートピア建設に着手する。イタリア人は地中海全体を含む「大イタリア」を、日本は太平洋海域に「新日本」を建設して、どの島にも人工火山を設置する。「将来そこに住む人たちに、聖なるフジヤマを思い出さ」せるために。人類は、山椒魚のおかげで、ようやく世界の支配者になったことを自覚したのである。

 しかしここで大逆転がおこる。山椒魚は法律的、人道的、政治的なキャンペーンを通じて自治権を確立し、その数にものを言わせて(約二百億!)人間相手の大戦争に勝利してしまう。最初はリンゴ園荒しだとか卵盗みといった日常生活レベルのいざこざから、ついにバルト海に武装結集した精鋭山椒魚軍が蜂起する。フランスの評論家マルキ・ド・サド(!)が英仏独に向けて発した警告も、もはや手遅れだ。地殻変動がはじまり、人類の運命も決したとき、山椒魚側の代表サラマンダー総統が呼びかけを行いない。巧みな戦術に乗った人間は体よく奴隷化される。月日は流れ、山椒魚の時代がつづく。しかしその山椒魚たちは、アトランチス山椒魚とレムリア山椒魚の二派に分裂し、「真正山椒魚主義の名」において同士討ちの地獄絵を描きはじめるー「マレーのあいくちとヨガの短剣で武装したレムリア山椒魚は、アトランチスの侵入者たちを容赦なく斬り殺し、一方ヨーロッパ的教育を受け進歩したアトランティス山椒魚は、レムリアの海に化学毒薬や培養した殺戮用バクテリアを流して」。かれらはともにすばらしい戦果をあげるが、結果として海は汚染され、鰓ペストによって自らの絶滅を招き寄せるのだ。そしてかれらの戦いのシンボルは、ピジン・イングリッシュ対ベーシック・イングリッシュである。

 普遍言語によらず英語によって文明の階段をのぼった山椒魚は、こうして滅びる。言語哲学の問題を内包したチャペックの物語は、言語の闘争による言語の敗北という観点に立ったとき、何にも増して完璧なアンチユートピア小説となる。しかも底に流れる言語のブラックユーモア(解読不能の記事やインチキ日本語のパンフ)は、人工言語を完璧な冗談として創りあげたモアの心意気に通じる。小松左京の「日本アパッチ族」は、チャペックのそれを手本とし、その展開をみごとに日本化した成功作だけれど、小松左京の作品からは唯一、モア=チャペックの普遍語幻想が漏れている。最後に、チャペックが普遍語の勝利を諦めた裏には、東洋に対する絶望があろう。ライプニッツ、ヴォルテールら古典的ユートピア言語派の時代には、東洋はまだ倫理と徳の国であり、漢字は聖文字(ヒエログリフ)文字であった。しかしチャペックの時代には、その神話すら吹きとんでいた。そのせいだろうか、山椒魚自体に、あるいは日本人を示す暗喩を感じることができるかもしれない。なぜならば、かれらはrの音を発音することができず、すべてのrをIに転化してしまったのだから…。

0 件のコメント:

コメントを投稿