2015年10月14日水曜日

加藤周一著「日本人とは何か」講談社刊pp.113-117より抜粋20151012

私は過去五六年の間、なかば西ヨーロッパで、なかば東京でくらし、彼我の知識階級の関心の対象には、目立った違いがほとんどないという印象をうけた(同じ対象を扱い方には、むろん多少の違いがあるが、それもヨーロッパ諸国相互の間での違いが、日本との違いよりも常に大きいとは限らない)。しかし唯一の例外は、宗教とそれに関連した問題に対する態度である。
日本では知識階級の無関心が著しい。
ということはあらゆる個人的接触の機会に経験したし、また日刊新聞を含む一般ジャーナリズムの上でも、容易に指摘することができる。
一方外国人にとっての日本は―といっても、日本に特殊な関心を持つ例外的な少数にとってということになるが―伝統的な仏教文化と「天皇制という軍国主義的な宗教」によって知られる国である。
そのことと、日本の知識階級の宗教問題に対する無関心とは、著しい対照をなしている。
しかも宗教的問題に対する関心が西欧の知識階級にくらべて、日本の知識階級には少ないというだけでなく、宗教的感情または信仰そのものについても日本の大衆は宗教の影響をうけることが少ない、ということが日本人の観察者のほとんどすべてによって強調されてきたのである。
観察の大部分は統計によらず、観察者自身の個人的経験により、たとえば文部省の「宗教年鑑」に見られる各教団届出信徒教の示すものとは、まったく別の微妙な問題を語っている。信徒総数は、その大部分が習慣による純粋に形式的所属を表しているに過ぎない。同様に仏壇の有無、葬式の仏式か否かは、仏教の信仰と殆どまったく関係がないだろう。
神前結婚は、大部分の男女にとって神道との何等の精神的関係をも意味しない。
そういう条件のもとで、宗教の儀礼的な面を統計的に扱っても、その結果は大衆の宗教感情、その政治・道徳・文化等への影響について、殆ど何ものも教えない、従って日本側の信頼すべき個人的な観察者が、現在の日本人は信仰が薄い、宗教から何等の重大な精神的影響を受けていない、と考える点で誰も一致しているということは、注目すべき事実なのである。一方外国人の側には、今の日本人の心理について、少なくとも宗教に関する限り、殆どすべて一致した誤解がある。
すなわち、日本人は今も宗教的感情に豊かで、宗教の影響が日本人の文化や生活に少いはずはないと考えているのだ。
彼我の意見の相違が、日本に関してこれ程確然と分かれている例はおそらく他にないだろう。問題が微妙で、長い生活を通してでなければ容易に捉え難いからかもしれない。
たとえば宮沢俊義氏は、カトリック教徒田中耕太郎氏の最高裁判所長就任が、日本で殆ど問題にされなかったということにレモン・アロン氏がおどろいたということ、またキリスト教徒の片山哲氏が総理大臣になった時、そのことに注目したのが占領軍司令部だけで日本側では誰も注意しなかったということなど二三の例を挙げて、大臣や「最高裁判所長官が神道であろうと仏教であろうと回教であろうと、キリスト教であろうと・・大部分の日本人はその点に何の関心も持たない」といっている(「日本文化通信」一九五六年四月)。
また桑原武夫氏は中谷宇吉郎氏との対談で、「日本の自由過剰」を制限するために、宗教を持ち出すということについて、「しかし日本人はもとから宗教心がないんですからね。
これを復活さそうなんといっても、無理だと思います」といっている。「日本人はもとから宗教心がない」という言葉は、大衆との広い接触を持ち、多くの問題について判断の正確な桑原氏の口から、全く気軽に、特別の検討を必要としないで意見として、自然に出てくることのできるものなのである(「文藝春秋」一九五六年八月号)。

また殊に仏教国日本の「坊主ども」について、三好達治氏は「もうとっくの昔に無意味な存在となりきっている」と断定する。金龍山浅草寺が堂宇を新築し、「仏教浄土さながらの象徴的聖域とやら何やら」といっても、「法主以下誰もそれを信じていないのがまるまる見とおしである」。
しかも、誰も信じていないのは金龍山浅草寺だけではなく、「全国津々浦々百万の実例がおよそ大同小異である」というのだ(「文學界」一九五六年八月号)。仏教の知識階級への影響に至っては、零に等しい。アーノルド・トインビー吉川幸次郎両氏の対談には次のような問答がある。トインビー氏「・・・学生が仏教を信じないというのでしたが、仏教の教えによる無意識的な影響も受けてはいないということでしょうか」吉川氏「無意識的にも日本の大学の学生は仏教の影響を受けていないと思います」(「中央公論」一九五六年十二月号)。法律学者も詩人も仏文学の専門家も中国文学者もこの点においては、おそらく日本に関する他の問題について大いに意見を異にするであろうにもかかわらず、まったく一致している。
田舎ではどうか。
きだみのる氏は「部落には宗教はない。宗教の屍があるだけだ」と断定し、次のような注目すべき観察をした。
それは村のお彼岸会であり、檀家たちがお経を聞き、読経料二百円ずつ出した後で、きだみのる氏が住職や総代たちと酒を飲んだ時に考えたことである。
「彼岸の今日の儀式、費用、それらはすべて今日の部落の生活の現実に対して何の意味も持ってはいない。
住職も部落の連中も懲罪の場としての地獄も亡霊の存在も信じていはしない。
住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかも知れない。しかも他のものは全く意味をもたない伝統の歯車のまにまにこのような儀式を行っているのだ」と(「群像」一九五六年十一月号)。
田舎では、仏教も天皇崇拝も、まだほんとうに生きているという考えは、日本人の観察者の中にも少なくない。
しかし、そういう観察者の大部分は都会の住人であって、部落の人々にとってはよそ者である。
部落の事情をほんとうに理解することがむずかしいのは、外国人にとって日本の事情を理解することが困難なのと似ているかもしれない。
外からの観察者にとっては、田舎に宗教がみえ、内からの観察者にとっては宗教の屍がみえる。
ということは、田舎には都会よりも、宗教殊にその信仰ではなく、その儀式的な面がよく保存されているということなのであろう。「住職は生活のためにそれを信じている振りをしているかもしれない。」―ときだみのる氏はいう。
それを見破るためには、氏のように長い間部落に住みこむ必要があるだろう。
調査票を配布して、回答を集めるやり方で、それを見破るのは、むづかしい。

ところが政治・社会・文化現象の全体にとって、宗教が何らかの影響をもつか、もたぬか、もつとすればどういう影響であるかは、信じているのか、信じているふりをしているのかということによって、決定的に左右されるはずである。しかもそれだけではなく、この信じるのでもない、信じないでもない、「信じるふりをする」という態度のうちには、宗教と関連しての日本的なものの典型があらわれているかもしれないのである。

「日本人とは何か」
「日本人とは何か」
ISBN-10: 4061580515
ISBN-13: 978-4061580510
加藤周一






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