南島で顕著に見られるのはセヂと呼ばれる霊威である。
奄美や沖縄ではよく、「女は男よりもセヂが高い」という。
それは女は男よりも神に近いという意味である。
また「あの娘はサー高か生まりだ。」ともいう。
サーはセヂのことで、霊威の高い娘で、将来、神女(ノロ)になったり、神占いをする素質がある、という意味である。
こうした例から見ると、霊威は本来、その人に備わっているように見られがちであるが、そうではない。
小さい時、よく予言の的中していた娘が、長ずるにしたがって、当らなくなることが多いが、それはセヂが去ったのである。つまりセヂは固有の霊威ではなく、外部から付着する霊威である。
琉球王国の最高位の神女である聞得大君(きこえおおきみ)の就任式である御新下り(あらおり)は、斎場御嶽(せいふぁうたき)で行われる。
その儀式では、外間(ほかま)ノロが、聞得大君の頭に王冠をのせて「聞得大君の御セヂ」(チフィジンミウシヂ)と唱え、神前に供えた洗米三粒を、聞得大君の頭にのせて、神名をたてまつる。
このときからニルヤセヂ(ニライカナイの神の霊威)が聞得大君に宿ることになり、大君は地上の神となる。
これが聞得大君の就任式のセヂつけの行事である。これは天皇霊が付着してはじめて天皇の資格を得るというのと同じ意味を持っている。
仲原善忠は「おもろそうし」に登場するセヂという語を分析している(「セヂ(霊力)の信仰について」)。
それによると、セヂを謡った「おもろ」は八十首もあり、つぎがカミ六十首、テダ五十首、テルカワ三十首の順序となっている。
このうちカミという語の大部分は巫女を指す。
またテダはもともと太陽のことであるが、国王、地方の領主、貴人などの比喩である。
テルカワは太陽を指し、人間を呼ぶことはないと仲原は言う。そこでとりわけセヂの信仰がずば抜けていることがわかる。
霊剣を「セヂまつるぎ」、神泊を「セヂあら神泊」、霊門を「セヂまさる門口」、霊社を「セヂ高杜」などと呼んでいる。
セヂがつくことで、剣も港も門も杜も違った存在に変化する。
セヂは人の媒介によるものだけではない。
それ自体の働きによって特定の場所にとどまる。
沖縄のウタキや拝所はセヂがついてはじめて神聖なものになる。
このようにセジはそれが付着したものを神聖化する霊力を持っているが、「その本質に於いて何等合理性を持たず、人格的規範を伴はぬために倫理的道徳的色彩を帯びず、特に低級な迷信の巣となるかと思へば、高級宗教とも結合する可能性がある」ということを仲原は力説する。
この言葉はタマ、サチ、イツなどの外来魂の性格を知る上で参考になる。
仲原によると「おもろさうし」の中で、セヂと同義語と見られる言葉に、セまたはケがある。聞得大君の別名であるセダカコは「セヂ高い人」の意であり、「気高き人」であるという。後者は日本全土でも使われている言葉である。
「おもろさうし」には、「セヂ勝て ケオ添て」とか「セやろ ケある」など、セヂまたはその略である「セ」が「ケ」と対句になっている例が見られる。とすれば、セヂと対応するケもマナ(メラネシア語で、非人格的、超自然的な力の観念。あらゆるものに付着し、伝移する)の一種と見なすべきである。
折口信夫はセヂ、スヂ、シヂなどはマナ信仰に見られるような守護霊であると述べている。(沖縄方言ではセジもスヂもシヂと発音している。)
さきに述べたように、本土では食物をケというが、これはケという外来魂が付着した食物を身体に入れることで活力や威力をつけることに由来する。
それに引きかえて物に付着したケの活力が破裂して、むき出しになることがハレである。
そうなることからハレには日頃許されない狼藉も許される。
祭りや一揆の打ちこわしなどはハレの日の行動である。
ハレとケとは異なる倫理と価値に支配される。
晴着に対する褻着(けぎ)というように、地味で目立たない服装が普段着とされたが、ケは物に活力を与える外来の霊威であるからだ。ケに常(ふだん)という意味が強調されるのは、ハレと対応する形でなされるからで、本来の意味ではない。
このケを物に内在するエネルギーと解し、それが枯れるからケガレ(気枯れ)であるとするのは不当である。
ケが付着すると物は活力をおび、そのケが離れることがケガレ(気離れ)であり、エネルギーがなくなる。その極点は死である。
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