2026年5月3日日曜日

20260502 株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」 pp.34-49より抜粋

株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」
pp.34-49より抜粋

第一部:日本文化について
 「日本文化について」ということですが、別にお話しすることを考えていないんです(笑)。・・・ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は・・・というように・・・。文明というのは、やっぱり普遍的なものでしょうな。・・・たとえば、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続だけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通りに料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。
 それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。
 むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというようなものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者 ーだけではありませんけれどもー の流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではく。ジーパンは文明なのか、アメリカ文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。
…たとえば大相撲をロンドンっ子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれども ー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー 外国でも受け入れられる。
 しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続をする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋や中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている。神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。
 大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。・・・こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが・・・(笑)。 
 お相撲は大昔からあったんですけれど、普通、芸能的なもの、スポーツのようなものは王様とか貴族たちが楽しみにして、そういうことでできあがるものでありますが、大相撲は、江戸や大坂その他の木戸銭でできあがっている、というのが興行としての大相撲のおもしろさです。王様ではなく普通の人間の入場料ででき上がっている。そして、お客さんというのは喜ばせなきゃいけませんですから、いろいろそれに沿ってマナーが発達していったり、無様なものはそぎ落とされていったり、ルールもあまり煩雑なものはそぎ落されたりして・・・大相撲というのはよくできたものですね。これは珍しく日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、やはり海外にも ー海外にも大衆がいますからー 受け入れられるんでしょうな。 だけれども、基本的に大相撲は文化です。
 ・・・今、教育会館に来ておりますが、教育会館は吉田五十八さんの設計だそうですな。ということは今聞いたばっかりです。吉田さんの建築は、皆さんご存じのように、日本の古い建築をイメージの中心において、それを新しく生かした非常に誇るべき芸術です。吉田五十八さんがいなければ、われわれの伝統はもう中断したかもしれない。

奈良朝と平安朝
 ・・・その建築の話をいたしますと、日本には奈良朝という時代がありましたな。次に来るのは、京都に都が置かれて平安朝ですが、奈良朝と平安朝の違いを凹凸としてお考えくだされば、非常によくわかります。奈良朝のイメージというのは、堂々たる建物。これは唐様の堂々たる建物。それから仁王様とか、その他彫刻。彫刻と巨大建造物の時代でした。
 むろん、奈良朝というのは、中国文明を受け入れた時代であります。これに対して平安朝というのは、ちょっと平べったいでしょう。イメージの中の、「源氏物語」の時代を想像してくださればわかりますが、公家の屋敷、それから御所、その他どれも非常に平面的であります。奈良の都は大仏殿、唐招提寺、あるいはその他の巨大建造物でご存じのような、あのイメージで想像してくださっていいんですが、そびえ立つような、そして柱もずっしりと大地に沈み込んで、見た目にも偉容を感じます。それが平安京、つまり京都に行くと、やわらかくて平面的になる。
 奈良朝のことを申し上げつつ、「日本文化について」というテーマに沿った枝葉の話をちょっと申し上げますと、日本というのは島国でありまして、普通よその国の先進国の文化や文明を受け入れるのには、その国の属国になったり、植民地になったりして受け入れるわけでありますが ー近代で言いますと、インドはイギリスの植民地になることによって受け入れたー 島国の日本は違いました。日本だけが世界史の例外であります。自発的に受け入れたわけです。自発的に受け入れただけでなくて、文明も文化もお金を出して買ってきたわけであります。
 遣唐使を送ります。遣唐使については、話はそれなりのおもしろさがありますが、それは省きまして、遣唐使の皆さんはずいぶんたくさん砂金を持っていったわけです。日本は、たまたま大仏殿ができ上がる前後に、ずいぶん砂金がとれる国になりました。ですから、手軽に持っていけるものは砂金でした。遣唐使の中に留学生たちもたくさんいました。留学生もみんな砂金を持っているんです。お上からいただく砂金だけでなく、個人もいろいろ都合しまして、親類縁者を回って、少しずつ砂金をいただいて持っていきました。
 たとえば最澄は、今で言えば、国立大学の教授のような資格で行きました。空海は同じ遣唐使船に乗っていましたが、学生として行きました。二十年の予定を空海は二年で帰ってきたんですが、二十年の経費をもらっているわけです。空海は地方の土豪の出身でありますからお金持ちでして、自分自身のお金も持っていきました。それでお経を買うんであります。そして、教えていただいたらお礼をしなければいけません。教えていただく先生にはお弟子がたくさんいらっしゃいますが、あとで宴会をして、ご馳走を差し上げて、お礼を申し上げます。
 空海の場合は、真言密教でありますから、お経だけでなく、いろいろ道具が要ります。道具だけでなくて、密教のほとけ様はちょっと普通のほとけ様ではないので、新たに作ってもらわなきゃいけない。密教のほとけ様というのはネックレスをしているでしょう。イヤリングをつけているでしょう。ほかのほとけ様は、たとえば阿弥陀如来は何にもネックレスをつけてないでしょう。密教のほとけ様は、観音様でも何でも、浮世の宝飾店で買ってくるようなものをつけています。これは浮世のままで成仏できるというシンボルであります。  
 ほとけ様にはいろいろ規則がありまして、その規則に従わなければ、十一面観音はでき上がらないというようなものでありますので、サンプルその他を持って帰らなきゃいけない。これは大変なお金であります。そういうようにして、われわれは文明を買ったわけです。
 そして、・・・当時、われわれが奈良の周辺に生きていれば、恐れ入りました、というような大文明がそこに現出したわけです。少しわれわれに謀反げがあってものの大文明を見れば、もうやめた、となるでしょうな。つまり、九州の端にいる人も、関東の端にいる人も、どうも奈良へ行って見たけど驚いた、これにはもう歯向かえないと思う。そういう文化的ショックというのがありまして、それは奈良朝七十年の非常な功績でした。ひょっとすると、まだ竪穴住居に住んでいる人がたくさんいたかもしれません、奈良の周辺でも。そういう人たちがそびえるような建物を見たわけですから、これはもう恐れ入りましたとなるでしょう。
 奈良朝は最初の国家であります。それ以前には、予備段階の国家がありましたけれども。奈良朝は統一国家の幕あけと言ってもいいのですが、その幕あけは長安の都の三分の一の規模で、考古学的発掘の結果は必ずしもそんなに大きな凄いものでもなかったという説もありますけれども、しかし、建物はすごかった……。
 その奈良の都を七十年でやめたのは、どうも私が想像するのに・・・これは今日のテーマとは関係ありませんが、いや、ありますな。原因は、そのすごい建物にあった。
 要するに、国を治めていくのにー仏教というのは、当時としては世界の普遍的な思想の大きなものの一つでありますがーその仏教をこの極東の島国に入れました。そして、大仏さんは毘盧遮那仏と言いますな。あるいは、宇宙の中心におられると言いますな。太陽のシンボルとも言いますな。毘盧遮那仏をでっかくつくって、仏教をベースにして国を治めたいと考えました。それで普遍性を導入したわけであります。
 普遍性ですから、これはたとえばヨーロッパにおける昔のカトリックとか、もう崩壊しましたけれどもソ連のマルクス・レーニズム、これもソ連は普遍性だと思っていたのですが、それと同じものです。普遍的思想というのは、よその国も参加できるという思想であります。ですから、日本という田舎の国も、仏教普遍という普遍性を入れることで国をつくろうとしたのです。
 聖武天皇は大仏さんをつくった方ですね。その聖武天皇が、私は三宝ー仏教のことでありますーの徒になりたいとおっしゃった。三宝の、つまり仏教の奴隷になりたいと。そしたら、坊さんはその気になったんでしょうな。天皇も奴隷、私の奴隷であると思い込んだばかな坊さんがたくさんいたみたいですな(笑)。つまり、坊さん自身が普遍性で、その下に国家があると・・・。
  今、アメリカ大統領は法下、法の下にアメリカ大統領がある。日本憲法の下に天皇さんがいらっしゃる。それから、内閣総理大臣も国会議員もわれわれもいる。平等にいる。法というものが、新しい普遍性でありますが、だから、アメリカ大統領は法に対して宣誓をします。
 だからといって、アメリカでは裁判官がいばって、大統領の頭の一つもこづくかというようなことはありませんが、奈良朝の時代は、まだ未開でありましたから、お坊さんはその気になってしまって、非常に宮廷がお坊さんによっていろいろと荒らされたんですね。きっとそういうことがあったでしょう。
 それで、もう煩わしくなって、そんな奈良から脱出をして、七十年で奈良の都をやめて、京都に都を置いたんだろうと僕は思います。
 そして京都には官立のお寺を置かないという大原則でした。ですから、平安時代から今に至るまでの京都を想像してください。唐招提寺のようなでっかいお寺はありませんでしょう。清水寺なんて大きいですけど、あれは坂上氏という一つの氏族の私立のお寺でした。ですから、京都の市内に官立、国立のお寺を置くと、普遍性だ、普遍性だといって、坊さんが大きな顔をするので、政治の邪魔になるというので置かなかった。  
 京都で今現在見ることができる建物というものは、やさしいでしょう。平安時代の最初からあった建物は、もうほとんどありませんが、お公家さんの屋敷、御所など実にやさしいものであります。お庭があって、西洋人やアフリカの人から見ればちょっと粗末な素材で、別に金や銀が使われているわけではない。日本風で言えば、わびとかさびとかが、もう既に平安朝の建物にありますな。北京の紫禁城といったようなものではありませんでしょう。ベルサイユ宮殿というものではありませんでしょう。
 非常に物静かな住まいの町。東山には青蓮院というようなきれいなお寺がありますが、あれはお寺というよりは、お公家さんの屋敷であります。ですから、今度京都にいらっしゃいましたら、知恩院の横の青蓮院にいって、お公家屋敷はこういうものだったのかというのをごらんになれば、よくわかります。少し座敷があって、お庭が見えて、気持ちのいいものであって、権力をあらわしているというようなものではありません。  
 知恩院は、江戸初期の建物ですから、これはちょっと別の思想の表現で、これを説明すると、今日のテーマはばらばらになりますが、徳川家康の宗旨は浄土宗であったものですから、知恩院は浄土宗です。江戸城をつくって、増上寺をつくって—増上寺は浄土宗ですね—京都に知恩院をつくって、いざ、京都で反乱が起こったときの、知恩院はお城のつもりだったんです。だから、今でも見られますが石垣を組んで、なかなかお城風です。ですから、知恩院だけはちょっと大きな山門があって偉容を示していますけれども、これは徳川時代のちょっと特別な理由による建物であります。

桂離宮と大坂城
 今、権力者の建物ということを、知恩院というようなことで申し上げましたが、知恩院はあまり役に立たないので、二条城を後でつくりました、京都の押さえのために。まあいわば将軍の別邸であります。京都別邸であります。この日本の権力者がつくった京都別邸というのもやさしいものでしょう。そしてあまり金のかかっていないものであります。ベルサイユ宮殿と比べると、全く粗末なものであります。徳川権力というのは日本史で一番強い権力でした。それでさえ二条城を持っただけです。  
 徳川時代の初めに、京都の親王さんが桂離宮をつくりました。これはいろんな事情があって徳川家がお金を出したわけです。スポンサーになって、どうぞ道楽してくださいというので、桂離宮ができました。いらっしゃればわかりますが、うっかりアフリカの大臣を連れていくと、「これならアフリカにもあるよ」と言われるかもしれません。(笑)  
 桂離宮は数寄という精神のあらわれであって、偉容を示そうとしているわけではありません。  
 今ちょっと「数寄」という日本語を申し上げましたが・・・説明しておりますと話がばらばらになっていくように見えて、最後には一つになります・・・「数寄」というのは、数に奇蹟の奇という字を使ったりしますが、要するに、「あなたが好きです」のあのスキであります。室町時代にできた言葉であります。  
 お茶とか、海外の絵画とか、海外の茶碗とか、そんな高価なものを集めて喜んでいるというのは、金もかかりますが、堺の商人などの場合は、商売の道も忘れてしまうかもしれない。うっかり魂が抜かれて、そのために商売は傾くかもしれない。武将でありますと、政治と軍事を忘れてうつつを抜かすかもしれない。ですから、数寄というものは危険思想とされておりました。  
 危険はわかっているけれども好きだからというので、数寄屋普請とか、お茶道を数寄の道とか言ったりしたわけですが、江戸時代になると、言葉が少し品下がりまして道楽という言葉になるんです。「あれは道楽もんだよ」という、あの道楽であります。しかし、数寄というときには、ガラスの破片の上を素足で歩いているような緊張がありました。数寄者はそのぐらいの緊張をしてお茶室で何人かを集めてお茶を飲んでいる。お互いに数寄者の集まりであります。  
 その数寄が桂離宮で野放図に出ました。心の行くまで数寄の心が表現されたわけであって、月と風と、あるいは雪、なぞをこの数寄屋普請の中にいて楽しむ、自然を楽しむ、自然に溶け入っていく、いわば絵画の中の人物になっていくという当時の日本人の理想をあらわした建築です。  
 しかし、当時、もう鎖国が始まっていてだんだん南蛮人も来なくなっていまして、南蛮人で桂離宮を見た人はありませんが、たとえ見ても驚かなかったと思います。南蛮人は大坂城は見たことがあります。これは驚いたと思いますが、桂離宮には驚かない。  
 日本の権力者は大建築をつくらなかったということを申し上げましたが、ちょっと秀吉の大坂城だけは例外です。秀吉は日本歴史の中で一番贅沢ということをした人でしょうね。あまりああいう人は、日本人の中にいませんのですが、秀吉は、その贅沢をした人であって、これはその必要があったんでしょう。  
 秀吉の直轄領でお米がとれるところ、彼自身の財政を賄う直轄領は二百万石ぐらいだったそうであります。徳川家は、いろいろ説がありますが、四百万石といい、八百万石ともいいます。そうすると、質素な徳川幕府がそれだけお米のとれる直轄領を持っているのに、秀吉はたかが二百万石で、なんでそんなに贅沢したのかというと、貿易による収入があったからであります。これはじかに秀吉のふところに入ってきます。博多、堺の貿易による税金はじかに秀吉のもとに入ってくる制度でした。ですから、彼は貿易家としての贅沢をしたわけです。  
 貿易で、ポルトガル船なり中国船が大坂湾に入ってきますと、あ、すごいものがそびえているな、これは驚くべき富と力を持った国だということを印象づけるために大坂城は必要だったわけで、そのためにタワーのような天守閣をつくったんでしょう。これは大航海時代の終わりごろのことで、秀吉も、そのお師匠さんの信長も大航海時代の人問としてちゃんと意識を働かせていた人ですから、経済意識も、政治意識も、海外意識もあり、大航海時代の世界史の最後の人らしく、やはり巨大建築をつくったんでしょう。  
 江戸時代になって巨大建築ができるのは、姫路城ぐらいのものですな。これは徳川家にとって、もし島津、毛利が攻めてきたら、大坂へ入る前に姫路城で食い止めるつもりだったそうですな。ですから、国立の、当時の言葉で言うと天下普請、天下の人と富を集めてつくる公立の普請でした。一大名の普請ではないものでありました。ですから、大きかったんですけれども、あとはもうしょぼしょぼしたものにありました。(笑)  
 日本人は、権力者といえども、贅沢をしなかったために、われわれは目に見える壮麗な文化財を持っていないんです。非常に少なく持っているだけです。ちょっと残念ですけど、これはこれでいいんだと思うんです。日本文化の特徴というのは、大相撲のような大衆がつくりたもの、そしてまれに国立の大坂城とか姫路城があるけれども、それは非常に少ない。そして、桂離宮は、これもまあ国立ですが、あまりにもその時代の文化であり過ぎまして、容易にそこに参加しにくいですな。われわれは相当勉強して、これはいいんだと言われているから、「ああ、いいものですなあ」なんて言っているけれども、にわかに中国の奥地から人が来て、桂離宮を見ても驚かないでしょうな。「こんなの雲南省にあるよ」と言うかもしれない。(笑)

大名は地主ではなかった
 ですから、人をこけおどしにかけるようなベルサイユ宮殿とかロシアのクレムリンとか、そういうものはないんですな。これは日本史の特徴ですね。なんといっても・・・京都御所です。明治になって天皇さんは憲法上の位置につかれたわけですけれそも、それまで乱世の中を生きてこられたのに、御所というのは、京都御所をごらんになったらわかりますが、濠といっても溝のようなもので、塀と言っても一重であって、それも高くなくて、僕でも忍び込めますな(笑)。それなのに、だれも忍び込まなかった。戦国時代でも忍び込まなかった。あれはつまり日本史そのものの感じであります。巨大な建築をつくって人を驚かせて、恐れ入らせるというのは奈良朝で終わった。奈良朝は七十年で終わって、そしてその役目は果たした。
 日本の歴史というのは……そろそろ建築から話は離れていくとしているんですが、どういうふうに離れていくのかわかりませんが……日本史というのは相当な歴史ですな。第一級の歴史だと思います。決して田舎のローカルな歴史ではないと思うんですが、しかし、国がローカルにあるものですから・・・。
 ヨーロッパの中心部とか、中国とかいった国は、文明を起こした場所ですから、世界史で習います。ギリシャの哲学者の名前を知らないと、やっぱり恥ずかしいですね。ソクラテスって何ですかとか、プラトンというのは何ですか、孔子とかいうのはよく知りませんな、・・・これは恥ずかしい。ところが、日本史の中の思想家の名前を、他国の人が知らなくても恥じゃないでしょう。だから、われわれは田舎におるわけで、その意味では、世界中の中学生や高校生の教科書には、親鸞という名前は出てきませんな、道元という名前も出てこない。この人たちは独創的な思想家で、その著作は世界の人類の大いなる遺産だったと思います。ですけれども、メインの中にいる国ではありませんから教科書には出てきません。
 しかし、よく日本史を見ると、これは大変精密で、しかも発展の法則通り・・・発展に法則があるのかどうか知りませんが……たとえば、江戸時代の話をしましょう。
 江戸時代、毛利さんは、三十六万九千石の石高で、山口県一つ。しかし、山口県一つの地主かというと、そんなことはないんです。地主ではないんです。一坪も土地は持っておりません。一反の水田も持っていません。租税を取って、それを行政に使うという権利と義務を持っているだけです。こんな貴族は世界中にありませんな。
 ロシアは、帝政ロシアのころは、伯爵も公爵も、無論皇帝も地主でした。そして、作家のトルストイさんは伯爵で、日本で言えば大名ですな。小規模なる大名。大きな地所を持っていて、地所を持っていると農奴がその上に乗っかっていまして、農奴が何千人いるとか・・・。農奴千人というのは、わりあい売買でいい金になるそうですな。農奴三百人だと、やっぱり三分の一ぐらいの値段だそうです。それは新聞広告で出るそうですな。「自分の領地を売りたい。農奴千人」(笑)というと、これは高いものであります。そういうようにしてロシアは革命にまで至っておるわけであります。ロシアには農民というのも少しはいましたけれども、ほとんどが農奴でありました。
 ですから、そういうものと日本の大名は違うのであります。毛利さんは、山口県一つの、今申しましたとおり租税を取って行政をすると、それで終わりであります。明治維新になって、全部領地を置いて、廃藩置県で東京に来て、華族さんになって、お手当がいいので、どの大名もみんな大喜びでした。江戸時代の大名の経済の苦しさというのは大変でした。末期のころはほんとうにほとんどが赤字。ですから、ほっとしたというのが彼ら大名たちの明治維新であります。
 今の不動産屋さんの感覚でいうなら、毛利さんならば、江戸に大名屋敷を、自分の屋敷を六つか七つ持っているはずです。上屋敷というのが一つ。これは藩主の家族がいるところである。中屋敷、下屋敷というのは幾らでもあります。大きな大名には六つか七つあります。そのうち上屋敷だけが自分の地所であります。これは将軍から拝領したということで、売買はしません。上屋敷だけが自分の地所であって、これは三千坪から五千坪ぐらいあるでしょう。中屋敷、下屋敷は勤番侍がそこに住んでいたり、その他の江戸定府、ずっと江戸にいる人が住んでいたりしますが、これは江戸の町人から借地をしているわけである。つまり借地であります。大名たるものが、つまり武士たるものが、地所を持っているというのは恥ずかしいことだったんですね。
 それから、むろん本国の長州、つまり今の山口県においても、一枚の水田も持っていない。それは当たり前のことであります。ですから、地所はないのであります。萩のお城の地所があるのと、屋敷の地所があるぐらいのものであります。
 トルストイ伯爵とはずいぶん違いますな。トルストイ伯爵は自分の邸内に、自分及び家族の履く靴のために靴屋さんがいる。衣服をつくるための洋服屋さん、仕立屋さんがいる。トルストイ家のためのそういう職人、商人、その他が屋敷内に住んでいる。

近代思想を生んだ江戸時代
 商品経済というのはロシアになかったようですな。江戸時代と比べてですよ。江戸時代の商売の数の多いことといったらなかった。しまいに、猫のノミを取りますという人まで流して歩いていたそうですな。毛皮か何か持ってまして、猫にそれをワッと被せるわけです。ノミはびっくりして、毛皮の方に移るもんですから、猫のノミを取ります。(笑)そんなわけで、商売の数は何千種類か知りません。
 ソ連が崩壊して、ロシアが大変苦しんでおって、今、社会の体をなしていない。市場経済を学べとか、ヨーロッパに行って見学しようとか、あるいはアメリカや日本を参考にしようとか何とか言っているけれども、本来、帝政ロシアに商品経済があったならば、違ったと思うんです。
 中国は社会主義をとっても、古代以来商工業がありましたから、それに戻っているだけであって、大崩壊してないわけであります。ノコギリをつくる職人とか、ノコギリの目を鋭くする職人とか。こんな職人や商人も昔の中国にはいました。江戸時代にもまたいっぱいいました。
 ・・・ロシアがそういう時代になってから、ロシアの小説を、もう一度非常にまじめに読んだことがあります。ドストエフスキーやその辺のものを。手当たりしだいに。小説に出てくる商売の数がどのぐらいあるかというと、五種類ぐらいしかありませんな。しかも、その五種類のうち、パン屋さんはイタリア系かドイツ系ですね。それから靴屋さんは、うろうろするとロシア人ではないですね。葬儀屋というのはあったみたいです。葬儀屋はロシア人です。ご存じのように、ロシアは宗教がカトリックではなくて、オーソドックスというロシア正教ですから、そのお坊さんにしきたりを知っている人間が連絡に行かなきゃいけないので、これはロシア人のようですね。 ですから、いまロシアがあわてているのは、過去にその伝統を持っていなかったからです。江戸時代は、その末期、前期資本主義と言うべき時代です。江戸時代末期、中期から。末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、前もって赤穂浪士が吉良上野介が浅野内匠頭をいじめまして、「畳を全部敷きかえなくていいんですね」と言うと、「いいんだ」と吉良上野介は言う。ところが、途中になって敷きかえろと……。勅使が来るのはもう目前でした。そこで、江戸中の畳屋に頼んで立ちどころにできる。畳屋が、それこそ江戸中に何十軒か、何百軒かもしれませんが、ありまして、それへ職人を持ってきまして、それに頼めば、もう立ちどころにできるわけであります。元禄時代でそうであります。
 ・・・これは文化と大いに関係なさそうですが、今思想の話をしようと思ってこんな話をしているんです。商品経済が盛んになりますと、人間の考え方が合理的になるんです。 つまり、商品というものは、お金にのみ裏打ちされるべきであります。私のこの時計は、どこの露店の売店で四千円で買ったんですけれども、私の友達で時計屋さんがいまして、「おまえの時計はずいぶん立派だな」と言うんです。 時計の価値は四千円だと言うんです。まあそんなぐらいのものです。これは金色をしていますが、メッキであります。中身は機械が入っていなくてクォーツでありますから、安いもんであります。 このように商品というのは、つまり、お金で裏打ちされるのであります。おまけに、この商品は、これはスイス製ではなくて日本製ですが、もしスイス製だと、どういう経路で来ているかとか……。これは、江戸時代の商品で言うほうがわかりやすいと思いますが、秋田の木材というのは、杉においては上等である。そして、木曾の木材は檜において上等である。他の土地の檜は少し悪いとか、檜は板にしておくと、ちょっと歪(ひず)みが出ていい檜だ、というふうに値段が明快に違っていく。 商品経済というのが、人を合理的にします。頭を合理的にします。そして、そこに思想も合理化される。合理的思想ができてきて、江戸中期では、いろいろの思想が出る。近代思想の前触れそのものです。 相場というのは、今、兜町で立っていますが、あれは江戸時代の中期から。相場というのは、誰が立てているんだかわからないでないですか。ああいうふうな値段は、将軍、大名が命令しているのではなくて、自然とでき上がった。それが人を支配している。海保青陵という人が書いています。 そのほかに、世の中にお化けはないんだという、またいいエッセイがあるんですよ。これを読めば、なるほど世の中にお化け、幽霊のたぐいはないんだと……。これは堂々たる格調の高い論文です。山片蟠桃です。その他、いろいろあります。 いろいろありますが、そういう小さな論文だけでなくて、たとえば日本の古典を、十八世紀ですが、当時として、現代的、近代的な目で見直した本居宣長もいます。このもの価値のみをしたわけですね。これは値打ちがあるのか、値打ちのないものなのか、これは日本の古い神々のことを書いてある。そして神々以後のことも書いてあるが、これは文化として価値がある、というふうに品定めをしております。
 そういう精神が近代の精神というものであります。ですから、近代の精神とか合理主義とか人文科学的な思考とかいうのは、難しい大学でやるものではなくて、市民の間ででき上がってくるものであります。

教育は文化ではない
 それが日本文化・・・と言いますと、話が商品経済と変わりますけれども、奈良朝のときには、大変立体的な造形でした。東大寺をごらんになってもわかるように、薬師寺の塔をごらんになってもわかるように立体的なものでした。平安朝にいくと、平面的でしょう。お庭が室町時代ぐらいに発達しましたが、日本のお庭は文句なしに世界一ですね。お庭を芸術だとすれば日本が世界一で、二番目はちょっと考えられない……。  
 龍安寺の庭をご存じの人はたくさんいらっしゃるはずですが、龍安寺の庭も平面的ですな。白い砂があって、海のようであり、島のようなものもある。彫刻で言うとレリーフ、浮き彫りですな。やっと立体といっても、平面の中にちょっと島があるだけ。日本人は平面の発見を文化でしました。  
 たとえば龍安寺の庭に座っているとしましょう。お座敷があって、畳が敷いてあって、四十畳か五十畳の間であって、襖絵(ふすまえ)があります。これは箱の中にいるようなもんですな。そして、お庭を見通して、襖絵だけが立っておりまして、立体と言えば立体ですが、その襖絵も、何の絵が描いてあったか忘れましたが、要するに、たとえばルーベンスのような絵ではない。立体的な絵画ではない。非常に平面性の強い絵画ですな。空間も平面性が強い。  
 われわれは、平面性の中で安らぎますな。冒頭に、文化とはなにか非合理なもの特殊なものだと言いましたが、それにもう一つ付け加えますと、文化はそれにくるまれて、安らいで楽しいということをつけ加えなければいけません。長いヨーロッパ旅行をして自分の家に帰ってくると、蚕が繭にくるまれているように楽しくて安らぐ。それが文化ですな。つまり、家に帰ってきて、丹前に着かえて座ってみると、ああ落ちついたというのは、これは文化であります。  
 どこかのホールでニューヨーク交響楽団を聴く。これはどうなるんだという人がいるかもしれませんが、音楽の好きな人にとっては音楽にくるまれているのは楽しいことで、これも文化なんですな。  
 今日ここには文部省の偉い人がたくさんいらっしゃいますが、教育は文化ではないんですな。つまり、教育はなすべきことなんですな。私は学校に行くときに、学校が嫌いで、カンニングはしたことはありませんが、横の子がカンニングしているのを見て感心したことがあります。いろいろ上手に小道具をつくって、それにおそらく一週間はかけていたんじゃないかと思いますが、いつも思うのは、あれが文化だったなあ……。(笑)それから、教室を抜け出していく人も、いるかどうか知りませんが、映画に行ったりする。無論停学になります。教育はその子を停学にすべきです。しかし、その子は文化を見にいったわけです。だから、教育と文化とは相反する場合が多い。(笑)
 それは別としまして、文化というものが、日本文化というものが、日本史が第一級のものであるように、日本文化が第一級のものでありたいと僕は思っているんですが、ニューヨークに行っても、パリに行っても、ロンドンに行っても、・・・その日本文化がないとわれわれはどうなるか。われわれには第一級の文化がある、というのが救いになる。
 たとえば室町時代に世阿弥を出して、すぐれたお能ができ上がったし、江戸時代に歌舞伎があり、それは貴族のつくったものではなくて、大相撲と同じように庶民の木戸銭ででき上がったものですし、それから十世紀のころには『源氏物語』という世界で最初の小説を書いた人がいる、芭蕉という世界的な大詩人も江戸時代に出した、そして西鶴という非常に近代的な小説家を江戸中期以後に出したとか、……むろん、絵画、建築、桂離宮などを含めて、そういうものがなければ打ちひしがれるでしょうな、パリやロンドンみたいなよその国を旅しているときに。
 私は一メートル六十四センチしかありませんが、背の高い国の人々の中に入っていると、ああ、おれは小さいなと思うだけで、少し自分をこっけいに思うだけであって、恥じ入ることはないのは、やはり自分の後ろに日本文化があると、どこかで思っているからでしょうな。

明治時代と夏目漱石
 ただ、明治のときに、旧日本文化は全部否定されまして、東京にドーンと欧米型の大文明の配電盤ができた。欧米という電源から電流をもらっていて、……これも買って来たんですが。留学して貰ったり、お雇い外国人に高い給料を払ったりして。本郷に東京大学ができて、農学部は各府県の農務課と連絡し、各級の農学校その他の、東京で文明を受け入れた新しい農学が岩手県の農学校に配られていくというような、配電盤の役目をしておりました。ですから、ヨーロッパ、アメリカにはかなわないと・・・。江戸時代に文化があった。柴式部が平安時代に出たとか、そんなことはもうどうでもいいという、まことにこの時代は打ちひしがれている時代でありました。
 夏目漱石が明治三十年代にロンドンに留学して、もう二度と行きたくないような呪い方をしていますね。漱石は日本文化なんて思ったことがなかった。時代がそうでした。また漱石はまだ大学生のころに京都に行きました。京都なんていうのは、和辻哲郎が出てきたおかげで、古寺礼讃になって、京都文化というのは大変なものだということ大正時代以後になりましたけれども、明治二十年代の東京の大学生が京都に来て、正岡子規と二人で来ましたが、お寺ばっかりあって陰気なところだと、・・・。それだけの印象です。大学教授をやめて朝日新聞に入社して小説を書こうというときに、最初に朝日新聞の学芸欄に、関西の印象として学生時代に京都に旅したときの印象を書いていますが、それは悪口です。
 つまり、日本文化というものは、偉大なる漱石でさえ、時代の子ですから・・・漱石というのは、ほとんど明治元年に生まれた人ですしたかな・・・死ぬときまで明治そのものを信じていた方であります。明治とは何かというのは、欧米のよきところを取り入れるのに忙しかった時代ということですね。漱石は、その先端にいた人である。ですから、日本文化なんて考えたことがなかった。
 漱石はロンドンに行っていて、ちょっとあばた面の人ですが、いい顔をしているのに、当人は劣等感がありました。私は一メートル六十四センチありますが、漱石は一メートル六十センチあったかなかったか。向こうから小さなやつがやって来る、イギリスにもこんなやつがいるのかと思ったら、ショーウィンドウに映った自分の姿でした。漱石はほとんど神経衰弱になっておりました。だから、漱石は、世阿弥がいるから、芭蕉がいるから、おれはロンドンを歩いても平気だぞというような時代の人ではなかったんです。それは時代が明治だったからです。
 われわれの今は、漱石の時代と違って、たくさんの古いものを新しい目で、つまり奈良朝の彫刻も、奈良朝の建物も、平安朝の何がしも、そして室町時代につくられ始めた日本庭園というものも、われわれは、どなたでもそうです、西洋人のような気持ちで見ていますな、半分。……これは明治を経ていますから……。 だから、日本画も、そして日本の古い江戸時代の小説も、どこか、つまり外国文学になじんだものとしての目で見ている。そして、それで合格しているわけです。みんなの目で、あるいは頭の中で日本文化は合格しているわけであって、だから、大相撲も歌舞伎もお能も、お能はちょっと退屈ですけれども、今なお続いておる。これはまあわれわれの目に合格しているんだから、イギリス人やフランス人、アメリカ人やアフリカ人や中国人の目にも、おそらく彼らがおもしろがって参加してくれれば、彼らも喜ぶものに違いない、彼らも尊敬してくれるものに違いないと・・・。
 ですから、おそらく日本文化というのは、自信を持っていればいいんじゃないか。日本史に対する自信と同様にですね。そういうふうに思うのであります、というのがこの話の終わりであります。 

2026年4月30日木曜日

20260430 中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.352‐355より抜粋

中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.352‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160153X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601537

後藤伯

 土佐の藩士後藤象二郎が、征夷大将軍徳川慶喜を勧誘して、その二百五十年来占有の政権を京都の朝廷に上らしめんとしたるは、昨日のことと思いいしに、今は早や三十年前の昔日談となり、その事蹟の主人公たる後藤伯も六十年の星霜に打たれ、新聞紙は往々その余命いくばくもなからんとするを報ず。それ西郷は城山の露と消え、大久保は空しく墓標を清水谷に止め、木戸の名また語るものなく、維新の風雲を鼓舞したる者、多くは頽敗老衰、僅かに三、四を止むるにあたりて、この報に接す。嗚呼、耆旧風塵に老い、喬木みな秋色あり。思うに伊達自得翁にあらざるも、この時世の変を見て、「何ゆゑにものはかなしと眺むれば萩の葉向に秋風ぞ吹く」と歌わざる者、それ幾人ぞ。
 知名の士が末路はなはだ振わざるを見聞するは人情忍びざるところなり。いわんやその一生の行路、ことごとくこれ失敗にして、雄図壮心、ついに一も酬ゆるところなきものにおいてをや。我輩は後藤伯の伝記を回顧して、ために黯然たらざるを得ざるなり。けだしその末路蕭条たるがため、世論多く事後成敗の見をもってこれを評すといえども、もしその天分の高下を論ぜんか、その開朗の気、包闊の大、薩長元老と相駆逐して、別に自ら天地を立つるに足るものあるなり。もし彼の企画をして偶然の勢いのために敗れざらしめしならば、彼の盛徳大業、或は老西郷、大久保の上に出て、歴史家、政論家等は斉しくその人物を賛美せしやも知るべからず。
 けだし日本近世の大事業は維新の革命にほかならずして、維新革命の中心問題は幕府が占有したる政権をいかに処分すべきかにありき。会津、桑名の二藩および各藩中の世家、有司は、多く幕府をして主権を握ること従前のごとくならしめ、而して京都の朝廷を尊敬すること王朝時代のごとくならしめ、かくのごとくして公家と武家とを調和せしめんと欲する温和なる意見を有したりき。時人これを名づけて公武合併説という。薩摩の国主のごときは初めよりこの意見を賛成したるものなりき。しかるに尊王党なるものありて、王家にあらざる幕府が国家の主権を取るをもって、半上落下、国体に合せざるものとなし、皇家をして直ちに国政に当たること、元弘、建武の故事のごとくならしめんと欲したり。この種の意見は、京都公卿の大半、長州藩士等、首としてこれを唱え、各藩中、世家にあらず、職司を有せず、現在の秩序に満足せざる急進派の和同するところなりき。而して公武合体党の中、また硬軟の二派ありしといえども、要するにこの党派は佐幕の精神を有すること多きものにして、尊王党は概して討幕の精神に富みたりしが、この二大党派は全国を二分するがごとく、各藩の中またこの二党のために勢力を分かちたりき。ゆえに後藤伯の故郷、土佐においても、武市半平太、坂本竜馬、平井収二郎の徒、しきりに尊王討幕の急進論を唱道し、内は有司、世家が時勢を観望するを攻め、外に長州の浪士と相交通し、隠然、公武合体党と相対峙したりといえども、当時の土佐藩主山内容堂公は、慧敏、自ら用うるの士にして、けっして武市らの急進論を賛同せざりしかば、公武合体論は自ら土佐の国論なるがごとく見えにき。容堂公の下に参政吉田元吉(東洋と号す)なる者あり、才学ありて事を用い、土佐藩士にしてその門下たる者少なからず。後藤伯は実にその戚姻にしてまた門下生なりしかば、これらの因縁によりて、後藤伯は出身の初めより容堂公の寵親するところとなり、その政治意見もまた自ら容堂公の公武合体論を信ずるに至りき。すでにして尊王党等、公武合体党の勢力に圧迫せらるるに堪えず、その末流等、一夜ひそかに、吉田元吉を襲うてこれを殺す。容堂公大いに怒り、有司に命じてことごとく尊王党を捕斬せしむ。武市半平太、平井収二郎、その中にあり、坂本竜馬は難を避けて国外に遊び、長崎の地にあり、その余の党類、捕斬ほぼ尽き、急進尊王論、ために地を払って空し。その党禍のはなはだしき、水戸、長州を除きては、土佐のごときはなはだしきはなかりき。而してこれがため一州の元気銷沈し、人物一に空しきに至りぬ。これ土佐が薩長に比して一歩を後れざるべからざるに至りし一大原因たらずんばあらず。而して誰か図らん、この党禍を起こして反対党を一掃したる者は、他年、自由自主を唱うる後藤伯その人ならんとは。これより土佐の急進党等、彼を怨悪して、その肉を食わんと欲する者あるに至る。これ後年に至りて彼が土佐出身の士人に信頼を得ず、ために政海の根拠地を得ざりし所以なり。

2026年4月29日水曜日

20260428 大岡昇平「俘虜記」から考える戦後の我が国の社会

 大岡昇平による『俘虜記』に描かれた収容所の様相は、単なる戦争体験の記録に留まりません。それは、我が国社会における統治の様相が、どのように成立し、運用され、そして変容するのかを示す具体例あるいは縮図であると云えます。そこには、管理主体である米軍、捕虜でありながら米軍との仲介機能を担う一部の捕虜(いわば捕虜側の支配層)、そして統治される一般捕虜という構造があります。この構造の核心は、外部である米軍と内部である捕虜とを媒介する捕虜側支配層にあります。彼らは、同じ捕虜でありながら、外部権力との接続を独占することで、収容所内部における支配的地位を確立しました。その性質は、ナチスドイツによるユダヤ人収容所におけるカポーにも通じるものがあります。また、その権力の源泉は、捕虜全体の合意や何らかの正統性に基づくものではなく、外部権力との非対称な関係に依拠したものでした。それ故、米軍が収容所の直接統治へと方針を転換した時、彼らの地位は容易に失墜しました。ここから看取されるのは、一つの普遍的とも云える統治の原理です。すなわち、統治権力の源泉は必ずしも能力や内発的な合意、正統性にあるわけではなく、外部との接続を独占する位置そのものにある場合があるという点です。内部の情報を調整し、それを外部権力に翻案・折衝する者が、実質的な支配層(エスタブリッシュメント)を形成します。こうした構造は、植民地支配などを経験した多くの国や地域に共通して見られる「買弁的構造」の一種であると云えます。もっとも、この構造が社会で固定化するかどうかは、各社会の条件に依存します。とりわけ重要であるのは、外部に依存せずとも成立し得る天然資源・人的資源といった基盤の有無です。これがあれば、外部との関係は単なる従属ではなく、戦略的関係へと転化させることが出来ます。加えて、社会内部における流動性と公正な競争が担保されているかどうかも重要です。外部権力との接続が恒常的に特定の層に独占されていれば、その構造は固定化され、やがて周辺から硬直化して閉じていきます。そして、ここで看過してはならないのが、我が国に歴史的に見られる「安定が閉鎖へと転化し易い傾向」です。一定の秩序が形成されると、やがて、それを維持すること自体が目的化され、新たな参入や異なる経路が閉ざされます。このメカニズムは短期的には安定をもたらす一方で、長期的には社会の硬直化を招き、既得権層に管理された閉鎖的な構造へと変質させます。この観点から見れば、戦後の我が国は特異な位置にあったと云えます。安全保障を米国に依存する一方、既存の官僚機構と産業基盤を温存し、経済成長を通じて国力を増進させたからです。この「外部依存」と「内部自律」が併存する構造は、外部権力との接続の完全な独占を防ぎ、一定の流動性を保つ役割を果たしてきました。しかし、現在問われるべきは、この均衡がなお維持されているのかという点です。問題の本質は、外部権力との接続の是非そのものではなく、統治構造の正統性の源泉が外部との関係に強く依拠している可能性、そして、その接続経路が固定化しているかどうかにあります。もし接続が特定のネットワークや既得権層に集中し、新たな参入が制度的にも実質的にも困難であるならば、その社会は閉鎖的な構造へと移行しつつあると見るのが妥当であると云えます。無論、こうした独占を排することは、既存秩序の破壊や扇動的なポピュリズムを肯定することと同義ではありません。安易な解体は、新たな独裁や社会秩序の崩壊を招きかねないからです。したがって必要であるのは、具体的な制度設計です。すなわち、①外部との窓口を複数の主体に分散させ、単一経路への依存を回避すること、②意思決定や資源配分の過程を可視化し、第三者による検証を可能にすること、③既存の接続とは異なる経路からの参入を継続的に保障することです。これらを通じて、「閉じる力」に対抗し、「開いた構造」を維持しなければなりません。独占された接続を、透明性と公正な競争を備えた重層的な経路へと再構築すること。そうでなければ、「外部権力との接続を独占する者が内部を支配する」という構図は、より洗練され、不可視化されたかたちで再生産され続けます。その意味で『俘虜記』を読み直す意義は、この構造を過去の一事例としてではなく、現在の問題として捉え直す点にあると云えます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2026年4月28日火曜日

20260427 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」 pp.177-180より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」
pp.177-180より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

日本の政治家が二流である理由
 もう一つ、社会秩序の問題があります。これもシュンペーターの考え方が参考になります。彼は「ブルジョアジーは政治階級としては失格である」と述べました。階級としてのブルジョアが出現する前の封建時代、社会を支配していたのは貴族でした。しかし、近代に移行する段階で、貴族階級はブルジョア階級から見ると邪魔者になります。そして、彼らの権限は段々弱められていく。しかし、本当は、ブルジョア階級、ビジネスで生きる彼らにとって、封建貴族は邪魔でありながら擁護者でもあったのです。なぜ擁護者かというと、人間は常に合理的なものではないのであり、人間が何に従うかというと、威信とか力を体現しているものに対してだと、シュンペーターは説明します。ただし、そのような非合理的な存在がある分だけ、合理的な経済活動が制約されることも事実です。
 したがって、その制約をなくしていくと、古臭いタイプの政治家がいなくなったとき、政治をやる人間がいなくなるのではないかというのが彼の問いです。続いて、イタリアの都市国家やオランダを例に挙げて、商人だけが作った共和国は、国際政治上、うまくいかなかったというのです。
 私は政治学を専門にしていますので、その点はわかります。戦後の日本は、経済はいいが政治が悪いとよく言いますが、そんな罰当たりな事、いいなさんなと思います。話は逆で、政治が悪いから経済が上がったのです。経済の邪魔になりませんから。だけど、政治を悪くするコストによって経済がよくなるわけで、それは、政治における決定やリーダーシップは極めて非合理的なものだからです。内容はさほど大事ではない。周りの人がいうことを聞くように、ある人が怒鳴らなかったら、まともなことも通りません。そういう能力がないから、私はアドバイスはしますが、政治はしないのです。
 しかし、生まれつき政治家の素質である威信があり、他人を従わせる能力がある人はいます。理屈で済むなら大学で勉強すればいいのですが、それでは済まない。経済合理主義を重んじ、政治の力に制限を加えるようにしてきた戦後日本では、発言だけで周囲が従わざるを得ない空気になるような政治家は出てきませんでした。外国との交渉で、日本人は皆、自分たちの代表者の不甲斐ない姿に腹を立てる。しかし、そういう政治家しか作っていないのですから仕方がありません。
 私はこの講演で何度か日米構造協議に賛成と言っているのですが、その理由は大店法や独禁法、米の自由化のいずれもアメリカの主張が正しいと思えるからです。しかし、最大の課題は、なぜ日本人が自らやらないのか、ということです。他国の正しい要求に耳を傾けるのは結構なことですが、もし相手に悪意があり、日本にとって不利になるだけの政策を要求してきたらどうしたらいいでしょうか。また、間違った政策を押しつけてきたときも同じ心配があります。
 国際的な交渉で大事なのは、代表者の迫力です。そんな人を生み出すには、安全保障に高い関心がある人でないと駄目です。経済はお金の計算で済みますが、安全保障の話では、人間がいかに不合理かがわかります。安全保障において求められるのは、不合理な人間の説得の技術です。戦後日本がそれに金をかけてこなかったのは事実ですが、政治家にはそのことについて関心だけは持ってほしかった。しかし、それも吉田茂のお弟子さんでおしまいです。吉田さんは軍事費に金をかけない決断をしましたが、古いタイプの政治家でしたから、国際社会で生き残るために武力が必要であると知っていました。戦争に敗れ、再建中だった当時の状況では、それができなかっただけです。後継者の池田勇人、佐藤栄作もわかっていました。だからこそ、池田は核武装すべきと語ったことがあります。
 池田勇人の業績というと経済発展だけというイメージがありますが、ちゃんと彼の本にそう書いてある。それを日本人は知っていて無視している。いかに政治音痴なのでしょうか。あるいは、池田は気の迷いでそう口走ったと判断しているのかも知れません。しかしそれは誤りで、彼は武力の重要性を知っていました。ただ、戦後15年しか経っていないので、すぐに事に当たりかかれないと理解していたのです。
 しかし、それから先の首相は経済発展すればそれでよい、となりました。そうなると、立派な政治家が出てくるはずはない。軍事問題に不案内なので、それに対する感覚がない。これはどうすべきか、答えは二つに一つで、日本がアメリカの五一番目の州になるのも選択肢の一つです。これは決して悪いものではありません。もう一つのシナリオは、日本では危機が迫ってくると、時々、突然変異みたいな人間が出てくることがあるので、それに期待することです。源頼朝にしても、大久保利通にしても、あんなに異様な日本人はいいません。2、300年に1人か2人登場するはずの変わった人物なしで日本が滅びるとしたら、それはそれでスカッとして諦めがつきます。

2026年4月27日月曜日

20260426 株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」106‐113より抜粋

株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」
106‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 437730612X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4377306125

青年将校と北一輝
 日本が国際連盟を脱退してから、ちょうど3年たった1936年(昭和11年)2月26日、未明。東京で重大な事件が突発した。
 その日は、前日に降り積もった大雪が、まだ首都をあつく、まっしろに蔽っていた。
 その雪を踏みしめて、22名の青年将校に率いられた、約1400余名の部隊が行動を起し、首相(未遂)、内大臣、蔵相、教育総監(陸軍)をはじめ、多くの重臣を襲い、首相官邸、陸軍省をふくむ永田町一帯 ―― いわば日本の政治の心臓部を占拠し、一挙に制圧した。
 首謀者たちは、これまで何度かクーデター未遂事件を起こした陸軍中央のエリート将校たちではなかった。
 彼らはすべて、隊付の ―― いわば下積みの若い尉官たちであった。この純真な青年たちは、その部下の兵士たちから直接、農村をはじめ一般庶民の疲弊をもっとも身近にかんじ、軍部の腐敗をふくめて、すべての日本の政治・社会の現状に、痛憤を抱いていた。そうして、このような現状がつづく限り、自分たちは安んじて国防の第一線に立ち、生命を抛つことはできない、と信じた。
 しかし、とりわけ規律厳正で、国家に対する忠誠心のあつい、陸軍士官学校出身の若い将校たちが、いわば徒党を組み、その部下を率いて大事を決行する ―― それは将校たちの、政治や社会に対する単純な憤慨からだけでは起り得なかった。そこには彼らの確信を支える、重い思想が必要であった。それを供給したのは、北一輝というひとりの思想家である。
 1883年(明治16)生まれの北は、社会主義者として出発し、わずか23歳のときに、発刊後ただちに発禁となった『国体論及び純正社会主義』の大著によって、その天才的な片鱗を示した。
 彼は、中国の革命に身を投じ、1919年(大正8)パリ講和会議が行われているころ、上海にあって排日のデモの怒濤を書斎から見おろしながら、「日本改造法案大綱」を書きあげた。
 この本も、ただちに発禁となった。が、それは青年将校たちの秘かなバイブルとなった。その内容を一口でいえば、天皇のもとにおける絶対平等主義であり、私有財産の大幅な制限、農地解放をふくむ日本の体制の根本的な変革を志向していた。
 彼の平等主義は、国際関係にも及び、中国の保全を説き、日本政府が山東半島の権益にこだわっているのを冷罵した。彼は、青島を取るよりも、イギリスから香港を奪取せよ、と説き、また日本は満州に植民するよりも、空漠たるオーストラリアを目指すべきである、と主張した。
 その大胆で、インスピレーションに満ちた宣言は、若者の心を妖しく魅了するに充分であった。
 北は、2月26日の青年将校の決起にはむろん直接には加わらなかった。が、彼らの思想的リーダーである磯部浅一(予備役)主計中尉とたえず連絡を取っていた。そして、熱心な法華経の信者である北は、彼らの成功をひたすらに神仏に祈り、霊感のくだるのを待っていた。

殺気立つ決起軍
 占拠地域の厳重な歩哨線を通って、まず川島義之陸相らが、占拠された陸軍省に入った。その大広間で、陸相は決起部隊の士官たちに囲まれ、最初の交渉が行われた。
 彼らの第一の要求は、彼らの行動が「義」のために行われたものであることを、陸軍および政府が認めよ――というものであった。同時に、今後の処置として、陸軍大将・真崎甚三郎を事態収拾の責任者として推し、維新内閣の実現を求めた。
川島陸相は、もう寝呆けていたわけではないが、あまりの思いがけない重大事件の突発に気が動転していて、ろくに口も利けない有様であった。その広間の一隅には、どこをどう通って来たのか、参謀本部の作戦課長の現職にある石原莞爾大佐が、いつのまにかふらりと入り込んでいた。その姿を目敏く認めた決起軍の栗原安秀中尉がつかつかと彼に近づき、「石原大佐どの。あなたのお考えは、われわれと根本的に違うのではありませんか。大佐どのは昭和維新について、どのように思われますか」と、語気するどく迫った。彼ら隊付の若い士官たちは、中央のスタッフたちを幕僚ファッショと呼び、除かなければならない主要な敵の一部と考えていた。

「昭和維新……? ぼくにはよく解らん」と、石原はぶっきら棒にこたえた。

「ぼくは、日本が軍備を充実すればそれが維新になる、と考えておる。何も、事件など起こすことはない」

 栗原中尉は、腰のピストルに手を掛けながら、さて、この男を射ち殺すべきかどうか、ためらった。

 横から、斎藤瀏予備役少将――彼は川島の二期後輩、著名な愛国歌人で、決起軍のシンパサイザーであった――が、議論に加わった。

「石原くん。きみなら、今、どうする」

「皆を説得して、引き揚げさせます。それでも聴かなければ……」と、石原はあいかわらずぶっきら棒にいった。

「軍旗を奉じて、討伐します」

「何をいうか、きさま!」

 斎藤少将の甲高い声が広間にひびいた。

 陸相との交渉を、取り囲むようにして背後から見まもっていた林八郎少尉が、ギラリと刀を抜き、それをふりさげたまま石原のほうに近づいてきた。背後から、「石原なんぞ、ぶった斬れ!」という声がかかった。

 陸相と交渉していた山口一太郎大尉がそれに気づき、あわてて立ちあがって二人の間に割って入った。

「石原さん」と山口大尉は低い声で、「別室で話しましょう」と強引に誘い、部屋から連れ出した。

「連中は気が立っているんですから……」と、山口は廊下をあるきながらいった。

「石原さんも、あんなことをいうから、わるい」

「そうか、オレがわるいかな」

 二人は、ガランとした別室に入った。

山口大尉がまた交渉の席に戻って行くと、石原はしばらく顎を撫でながら何事か考えていたが、やがて部屋から出、ひとりでまた歩哨線を越えて行ってしまった。ちょうど入れ替るように、今度は一台のピカピカの車が、歩哨線に近づいてきた。真崎大将であった。たまたまそこに立っていた決起軍の磯部中尉は、雀躍せんばかりにして将軍を迎えた。

「閣下」と、磯部はヒタと大将の目をみつめていった。

「ついに、やりました!」

将軍はギロリとその目を見返し、「よォ解っとる。おまえたちの気持は、よォ解っとる……」と、同様にいささか興奮した面持ちで答えた。

「どうか、あとをよろしくお願いします」

 磯部は声を絞り、ほとんどすがるようにいった。

「うむ、うむ」

 荒木の思想的後継者と見られていた真崎は、青年将校らの激越な言葉を、ながい間、いつもこのようにアイマイな、しかし物分りのよい親父のような態度で聞いていた。

「そうじゃ。岡田(首相)のようなやつは、ぶった切れ」などと、この将軍は、ときには威勢のいい相槌を打ち、青年将校たちを随喜させることはあったが、しかし「実行行為」について賛成する言質を与えたことは、かつてなかった。

 真崎は、ずかずかと大広間に通ると、そこに川島陸相の姿を発見し、大声で叱りつけた。

「きさまは、こんなところで何をグズグズしちょる!」

 陸相はハッと立ちあがり、身をかがめて、この先輩に敬意を表した。

「貴様は、責任者じゃろうが。……すぐ宮中に参内せい!」


あわてる陸相
 決起軍の関係者以外で、この未明に起こった事件の全貌を、もっとも早く知ったのは、満州事変のときの軍司令官・本庄繁大将であった。このとき彼は、侍従武官長――いわば天皇の軍事に関する最高顧問――をつとめていた。早晩、5時。彼は女婿にあたる山口一太郎大尉からの伝令将校の来訪によって叩き起こされ、事件の概要を伝えられた。山口は、決起軍の同志ではあったが、あえて実行行為には加わることなく、事件のあとの上層に対する工作の役割を、引き受けていた。本庄侍従武官長が、天皇に最初の拝謁を行ったのは、朝6時である。天皇は、そのときは黙して眉をひそめ、深い憂いに沈んでいるかのようだった。そしてポツリと一言、「武官長だけ、こんなことになりはせぬかと、いつかいったことがあったネ」と、思いかえす風であった。それから3時間おくれて、陸相が慌しくやってきた。彼はくどくどと状況を説明し、さらに、「つぎの内閣は、国民生活を安定させ、国防を充実させる、強力な内閣でなければならぬ……と思慮いたします」と、その意見をつけ加えた。陸相の報告を、いらいらと不興げに聞いていた天皇は、そこで発言を遮った。
「陸相が、そういうことをいう必要はない。まず反乱軍を鎮圧する方法を講ずるのが、おまえの役目ではないか」
 陸相は、雷に打たれたようにハッとし、おそるおそる天皇の顔をうかがった。彼はまだ蜂起した青年将校たちの醸し出す殺気に感染していて、彼らを反乱軍ときめつけることさえアタマになく、ただ狼狽(ろうばい)していたのである。
 陸相は一言、「恐懼の至りにございます」と、ふかぶかと頭を下げ、そしてそくさと御前を退出していった。
 天皇は当時、その政治においても、あるいは大元帥としての軍令においても、日本の至高の位置にあった。が、定められた機関の決定にしたがい、それに“認可”を与える以外、一歩もそこからはみ出さないのを慣例としていた。  しかし、このときは諮問すべき重臣たちは一挙に暗殺され――ときの岡田啓介首相は、よく風貌の似た義弟が身代わりとなって危く難を免れたことが、やがて判明したが――補佐すべき機関は、一時的に機能が麻痺状態にあった。  天皇は、このときはじめてみずからイニシアチブを取った。そうして重臣たちを襲った怒りの感情もあらわに、蜂起した軍隊を「反乱軍」と断定し、ただちにその鎮圧を命じたのであった。  天皇のピリピリした感情と生真面目な意志とに支えられて、日本の統治機構、そして陸軍の組織も、最初の衝撃と混乱から自分を取り戻し、徐々に立ち直っていく…。

激昂する天皇
 天皇に一喝され、陸軍省――そのときは九段下の憲兵司令部に本拠を移していた――に舞い戻ったものの、川島陸相はなお途方にくれていた。そして、軍事調査部長・山下奉文(ともゆき)少将らの意見具申にしたがい、とりあえず陸軍の長老による軍事参議官会議の諮問を求めることとした。  この会議は、宮中の一室で行われた。陸相、参謀次長、皇族の陸軍長老(東久邇、朝香、梨本)らが参集し、とりあえず「陸軍大臣告示」を出そうということで、評定はえんえんと翌日の午前1時半までつづいた。  重大事件突発の報を秘書から電話で受けた内大臣秘書官長の木戸幸一も、天皇が最初の本庄侍従武官長の拝謁を受けようとしている午前六時には、すでに宮中に車で駆けつけたひとりであった。  彼は、警視総監を手にはじめに――電話はつながったものの、相手の意見はまるで意味をなさなかった――、まず近衛文麿、つづいて興津の西園寺公と、電話を掛けまくった。  西園寺は、まだ寝ていた。電話口に出ると、「また、やりおったか。困ったものだ」と、呟くようにいった。そして着替えを済ませ、おりからの雪模様の寒さのなかを、ほどなくやってきた静岡県警の警備車3台に護られて、その警察部長官舎に避難した。  2月26日の宮中は、混乱のなかに過ぎていった。天皇は、つぎつぎに重臣の拝謁を受けながら、そのあいだ2、30分おきに本庄侍従武官長を呼んだ。そして、「まだか……。反乱軍の鎮圧は、まだか」と、からだを震わせながら催促した。  さいごに、本庄大将が天皇に呼ばれて同じ督促を受けたときは、27日の午前2時を回っていた。この老将軍は、そのまま宮城に泊り込んだ。

2026年4月26日日曜日

20260426 株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』pp.96‐98より抜粋

株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』
pp.96‐98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163680608
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163680606

 西暦紀元前後、アレキサンドリアがヘレニズム学芸の中心地だったころ、この地の図書館は万巻の書を集め、世界の知を結集していたとされる。しかし、7世紀にイスラーム教徒の軍勢がアレキサンドリアを征服した時には、すでに図書館は荒廃してしまっていた。
 この古代図書館の理念に倣って大図書館を建設し、世界の知を集積するというプロジェクトをエジプト政府が立ち上げ、ユネスコの後援を得て資金が集まった。完成した建物の主要部分は、ちょうどオレンジを八つ切りにして横たえたような形をしている。その「切り口」がガラス張りになっていて、地中海の陽光がいっぱいに差し込んでくる。
 ヘレニズム学芸の遺産の共有を通じて「西洋に開かれたエジプト文化」をあらわそうとしているのだろう。自らの文化をどう定義し、いかに世界に効果的に示せるか、という問題はテロリズムとの関連で疑念を持たれるアラブ諸国にとって死活問題である。
 式典にはフランスのシラク大統領をはじめ、スペイン国王夫妻やギリシア、レバノンの大統領など、豪華な来賓が集まった。日本もユネスコを通じてこのプロジェクトに大きく貢献しているのだが、存在感は薄い。シラク大統領が自ら出向いたフランスはすっかり主役である。
 シラクはその足でベイルートに赴き、18日から開かれた「フランス語圏機構」のサミットに出席した。モロッコ、レバノン、エジプトなどアラブ諸国もこの機構に加盟している。今回はイラク問題やパレスチナ問題などの議題に関心が集中し、シラクはアラブ寄りの姿勢を示して大いに点数を稼ぎつつ、言質は取られずに帰った。
 フランス語・文化の影響というのはかつての植民地支配を意味するのだが、それすらもしたたかに外交の手段にしてしまう。このような「文化の政治」において、日本はいかにも発信力が弱い。
 今年のエジプトではもう一つ大きな式典があった。革命の五十周年である。一九五二年七月二十三日、青年将校の一団が決起した。後に大統領となるナセルやサダトを含め、この時の指導者の多くは一九一八年に生まれている。士官学校に平民の入学がゆるされるようになった一期生である。この世代が政界を牛耳り続け、世代交代の制度を築けなかったことが、五十年後に制度疲労となって重くのしかかっている。
 興味深いことに日本では田中角栄と中曽根康弘がこの一九一八年の生まれである。一歳年下になると宮沢喜一がいる。破竹の急出世を遂げた田中角栄にしても首相となるのは七二年である。すでにその二年前、ナセルは心臓発作で亡くなっていた。ナセルを継いだサダトは八一年に暗殺される。中曽根の首相就任はその翌年である。宮沢になると九一年になってやっと首相の座をつかんだが、五五年体制に幕を引くという役回りを負わされた。
 若くして権力を握るには無理をしなければならず、機が熟すのを待って念願かなったころには盛りを過ぎている、という傾向が日本の政治の世界にはあるようだ。エジプトの場合は全く逆で、極めて若いうちに武力で権力を奪取し、死ぬまでその地位から立ち退かない。どちらが良いとも言えないだろう。
 日本の場合は、政治力と教養を兼ね備えた政治家が早期に首相を経験し、退任後を国際機関の長のような役目を務めて過ごすというライフコースが存在しない。このことが、文化をめぐる国際政治の舞台で、存在感を示せない一因になっているのではないか。

2026年4月22日水曜日

20260422 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」 pp.350‐355より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.350‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。

相対的に重要視されてきた中東

 第一に、中東の置かれた相対的な位置が持つ国際政治上の重要性は特筆される。中東はヨーロッパとアジアとアフリカの結節点に位置し、交通の要衝であることから、グローバルな大国が覇権的な地位を確立・維持するために、中東を掌握することが不可欠となる場面が、歴史上、恒常的に存在してきた。これは必ずしも中東そのものに希少な価値が内在的にあることを意味せず、むしろ相対的な位置関係によって生じた重要性である。大国あるいは帝国が、ヨーロッパとアジア・アフリカを横断する広範な領域に政治的・軍事的に勢力を展開するためには、その中間に位置する中東に安定的にアクセスし、自由に通行することが不可欠であると歴史上多くの場面で認識されてきたことから、中東に政治的な影響力を行使する手段を有し、場合によっては軍事的な手段を用いて支配することの価値が存在してきた。また、グローバルな通商貿易の存立に、中東地域の安定と、そこへの自由・安定的なアクセスの確保が不可欠なことから、世界的な帝国は中東の統制の必要性を感じ、中東に進出した。  ヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがる地域という特性そのものは、歴史を通じて変わることのない地理的な要因に多くを由来しており、近代に限らず、古代から、中東(と近代に呼ばれるようになった地域)の戦略的な重要性をもたらしてきた。たとえば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが記録に残した「ペルシア戦争」は、アケメネス朝ペルシアが拡張しアナトリア半島とバルカン半島南部にかけての、現在のトルコを中心とする地域を制圧したのに対して、アテネが中心になって立ち向かったという構図である。また、共和制ローマの三頭政治の崩壊後の内戦で、カエサルはポンペイウスを追い落とし、紀元前48年、逃亡するポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに上陸した。カエサルはプトレマイオス朝の内紛にクレオパトラ7世の側に立って介入し、翌年の「ナイルの戦い」に勝利し、共にエジプトを掌握した。カエサルはこの年に現在のシリアからトルコ黒海沿岸にかけての地域に遠征を行って勝利し、翌年に現在のチュニジアで政敵に勝利してローマに凱旋した。  
 エジプト・チュニジアやシリア・トルコといった現在の中東・北アフリカに戦略的な足場を築いたことで、カエサルはローマの内紛において優位に立ち、紀元前44年に終身独裁官に就任し、後の帝政ローマの成立への礎を築いた。カエサル暗殺後の第二次三頭政治では、イタリア以西を支配地域としたオクタウィアヌスが、北アフリカを支配地域とするレピドゥス、そしてギリシア、トルコ、シリア北西部、リビア東部を支配地域とするアントニウスと覇を競った。オクタウィアヌスはまずレピドゥスを降伏させて北アフリカを掌握し、アントニウスと対峙した。アントニウスはクレオパトラと結婚し、プトレマイオス朝にローマの東方領土を分割しようとしていた。オクタウィアヌスはアントニウスを紀元前31年にアクティウム(現在のギリシア)の海戦で破り、ローマに凱旋して、ローマ皇帝の前身となる「プリンケプス(第一人者)」に就任した。このように、中東を掌握することが、古代ローマで最高権力者の地位を獲得する際に不可欠の要件であったと見ることができる。
 ローマ帝国が衰退・不安定化し分裂傾向を抱える過程で、中東の重要性は増し、帝国の重心は中東に向けて移動していった。324年に皇帝となったコンスタンティヌス帝はサーサーン朝ペルシアの脅威に備えるために、330年にビュザンティオンを開いて遷都した。これが皇帝の死後はコンスタンティノポリスと呼ばれ、395年のローマ帝国東西分裂以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服して首都とし、イスタンブルと呼ぶようになった。ローマ帝国・東ローマ帝国と、それを継承したオスマン帝国が、ボスポラス海峡に跨り、黒海と地中海の結節点を扼するビュザンティオン=コンスタンティノポリス=コンスタンティノープル=イスタンブルを首都とし続けたことは、この地点を掌握することの地政学的な重要性が、継続して認識されてきたことを意味するだろう。地中海世界から西アジアにかけての領域を支配する帝国にとって、中東に直接あるいは間接的なプレゼンスを持つことは政治・外交・安全保障政策上、極めて重要であり、不可欠であった。

 近代における帝国主義の時代に、西洋「列強」がグローバルに勢力を伸長させ、世界各地で植民地獲得競争を行った時、やはり中東は争われる対象となった。これは英仏の東地中海からインドへの展開、ロシアの南下政策、ドイツの遅れた台頭が、衰退・崩壊過程のオスマン帝国の領域で摩擦を繰り広げた「東方問題」として現れた。

 中東の特性は、近代の地政学、特に海洋権力論に依拠した議論においては「チョークポイント」の議論によって論じられた。軍事や国際政治経済における「チョークポイント」の多くが中東に位置する。マハンは1890年の『海上権力史論』において七つのチョークポイントを指摘した。チョークポイントは、それを設定する主体や目的や政治的・軍事的環境条件の変化によって様々に定義されうるが、冷戦後のグローバル・エコノミーにおける資源や食糧の輸送経路の保全という観点からは、代表的なチョークポイントは次のものである。

ボスフォラス海峡*

ドーバー海峡

ジブラルタル海峡*

マラッカ海峡

ホルムズ海峡*

バーブルマンデブ海峡*

パナマ運運河

スエズ運河*

 このうち*を付した五つが広い意味での中東に含まれる(さらにマラッカ海峡は「イスラーム圏」に含まれる)。
 海洋国家としての英国の発展と覇権の維持に不可欠なチョークポイントを多く抱える場所として、近代における中東の地政学的な重要性は定義された。英国から米国に覇権が遷移した際にも、中東の地政学的な重要性への認識は受け継がれ、現在に至る。英国と米国によって推進されたグローバルな通商貿易体制に裨益する日本なども、この中東の地政学的重要性への認識を共有するようになった。  同時に、中東は大陸権力(ランド・パワー)を重視するドイツを発信源とする地政学においても重要である。それは中東の拡大・延伸領域と認識される「イスラーム世界」を重要な対象とする地政学と言える。この大陸型地政学の観点から、トルコやイランと歴史・文化的に連続性が強い中央アジアが、英・露を中心とした西欧列強の間で争われる「グレート・ゲーム」の対象となった。

豊富な資源による重要性
 
 第二に、この相対的な地理的条件において重要な中東に偏在して石油・天然ガスが産出されるという点が、近現代において中東の地政学的な重要性を飛躍的に高めている。現代の国際政治において、中東に関する地政学的な関心の原因となる要素の筆頭が、資源エネルギーであることは言を俟たない。中東に遍在する石油・天然ガスの支配や管理は、それを消費国まで運ぶシーレーンやパイプラインの維持を含めて、中東をめぐる国際政治の焦点となっている。特に第二次世界大戦以後においてこれは顕著である。中東の原油を消費国に運ぶシーレーンの途中に、ホルムズ海峡やスエズ運河、バーブルマンデブ海峡といった「チョークポイント」が点在していることにより、中東の安全保障はグローバルな課題となる。