2015年11月22日日曜日

20151121 我が国における水稲耕作について

国内の地域性を検討、考察する際、水稲耕作およびそれに伴う民俗を扱うことは柳田國男民俗学以来の稲作を過度に重視したものとして、また古来より存在する他の作物農耕文化を軽視するものとして、批判される傾向もある。

しかしながら、我が国の主食が現在尚、水稲耕作により栽培される米であることは紛れもない事実であり、その栽培、多作に執念を燃やし続けてきた歴史を反映するものである。

その歴史の背景には様々な要素により構成された背景観念、日常性が、地域毎に類似、相違性を持ちながら存在するものと考える。

その意味において地域性とは、地域における特徴的な観念構成要素の相違、濃淡および、それらの表出傾向であると考えることができる。


以上のことを踏まえ地域性を検討、考察する場合、特に我が国にて水稲耕作に伴う民俗を扱うことは、それが古来より継続し為され、地域に住む集団に大きな変動が無い場合、そこに貫かれた観念および、それらの特徴的な表出の傾向を認識することができるのではないかと考える。


我が国に水稲耕作が伝来、伝播そして定着した時代は、縄文時代晩期~弥生時代であるとされている。

また、その詳細な年代については幅がある。

しかし、共通して云えることは、水稲耕作が当初、朝鮮半島を含む大陸に近い北部九州地域に波状的に伝来、定着し、その後、主に瀬戸内海を経て西日本各地に急速に伝播したことである。


現在我が国にて栽培されている米は丸く、粘り気のある温帯性短粒種のジャポニカ米に分類されるものである。

その原種は植物学的に長江(揚子江)の中下流域で栽培されていたものであると推定されている。

以上のことから、我が国における水稲耕作の伝来は、長江(揚子江)中下流域から、幾つかのルートを通り、波状的に北部九州地域に伝来、定着し、その後西日本各地に急速に伝播したものと考えるのが妥当である。

加えて、当初我が国に伝来した稲とは、その植物的特性から温暖湿潤な西日本が栽培好適地、可耕地であったと考えられる。

しかし、これは約一万年続いた縄文時代において、農耕が全く行われなかったことを意味するのではなく、遅くとも縄文時代後、晩期(紀元前千年頃)の西日本においては、陸稲を含めた雑穀、芋、豆類を主とした農耕が規模は不明ながらも一般的に行われていたものとされている。

また、縄文時代とは、その晩期を除き現在に比べ気候が温暖であり、特に東北、東日本においては、その人口規模から、豊富な落葉広葉樹林がもたらす動植物に依存し食料獲得が比較的容易であり農耕を食料獲得の主軸とする必要のない、いわば成熟した狩猟採集文化が営まれていたと考えられている。


一方、当時の西日本は、主に常緑性広葉樹林(照葉樹林)が多い植生であることから東北、東日本と異なり食料獲得を狩猟採集に大きく依存することが当初から困難であったものと考えられている。

このことを示唆する材料として、これまでに国内にて発見、発掘された縄文時代の遺跡の地域分布は、極端に東高西低であることが挙げられる。

そして、それを基づいて考えられる当時の人口の地域分布もそれと同様の傾向を示すものであったものと考えられている。


また、我が国の水稲耕作伝来以前における農耕の主な起源とは、縄文時代後期頃(紀元前二千~三千年頃)大陸より伝来した照葉樹林文化に含まれるものであったと考えられている。

照葉樹林文化とは、ヒマラヤ南麓、中国南部、東南アジア北部内陸部に起源を持つ、全体の傾向として南方的色彩の強い生活文化である。

加えて我が国に伝来した前述の短粒種ジャポニカ米の起源とされる長江(揚子江)中下流域もまた、この照葉樹林文化に包括される地域に属する。


照葉樹林文化を示す具体的生活文化とは先ず食文化に関連するものとして、焼畑農耕による芋、雑穀類の栽培、鵜飼による淡水漁撈、なれずし、味噌、納豆など発酵食品、喫茶の習慣などが挙げられる。

工芸文化に関連するものとして、竹細工、養蚕、漆器の製作などが挙げられる。

そして、精神文化に関連するものとして歌垣の風習、山上他界観、来訪神、死体から穀物の種子が化生する神話の存在などが挙げられる。

これらのうちの多くは現在の我が国において容易に見出す事が可能である。

しかし同時にこれら全てが縄文時代後期(紀元前二千~三千年頃)の一時期に集中的に伝来したとは考え難く、これらも水稲耕作と同様、波状的、段階的に伝来したものと考えられる。

また、その伝来経路とは必ずしも後の水稲耕作のそれと同一ではなく、中国南部、東南アジアの地域から主に日本海流(黒潮)によって伝来したと考えられる。

その意味において、稲が南洋より海上の道を経て我が国に伝来したと考える柳田國男の著作「海上の道」とは全否定されるものではない。


また、紀伊半島西部地域においてもこれらの生活文化が現在尚自然な形で継続しているといえる。

具体例として有田川における鵜飼いが挙げられるが、この特徴的な漁法は他に愛知、岐阜、島根、山口等の各県、そして京都府などにおいて見出す事が可能である。

そしてその起源とは中国の長江(揚子江)中下流域において見出すことが可能であるが、朝鮮半島においては見出すことができない。


なれずしに関しては、地域内に各種魚類を用いたものが存在するが、この種の発酵食品の起源も前述地域にある。

これと類似するものは朝鮮半島においても存在するが、その起源は我が国と同一であると考える。

それ故、我が国における発酵食品が全面的に朝鮮半島より伝来したと考えることは、その種類の多さ、分布地域の広さから見て困難であるものと考える。


ともあれ、縄文時代晩期(紀元前千年頃)から気候が冷涼化する。

このことにより特にそれまで人口の多かった東北、東日本では、既存の狩猟採集を基軸とする生活様式の保持が困難となり、さらにその後、大陸では戦乱が続き、そこから逃れるため周辺の比較的平穏な地域に避難、移住した。

その結果、朝鮮半島を含む大陸に居住していた人々が水稲耕作などの文化を携え波状的に日本列島に渡来したものと考えられる。

一方、主に列島中山間、海浜地域に散居していた在来の縄文人達は前述の環境変化に伴い、徐々に低地に移り、水稲耕作を受容したものと考えられる。

そして、その受容、定着が概ね平穏に為された要因とは、双方の保持していた背景文化の起源における類似性、親和性にあったのではないかと考える。

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