2026年1月19日月曜日

20260119 東浩紀による新著『平和と愚かさ』を読んで思ったこと

東浩紀氏による新著「平和と愚かさ」で述べられる「平和」とは、昨今の不安定な世界情勢の中で多く論じられるような、正義の完遂や政治的安定といった観念的な地平を指すものではなく、むしろそれは、政治や戦争について考えを巡らせる必要性すらない、いわゆる「平和ボケ」の中に安住し得る状態を指していると云えます。

昨今の我が国において「平和ボケ」という言葉は、危機意識の欠如を意味する否定的な文脈で用いられることが多いと云えます。しかし東氏は、本著においてこの状態に積極的な価値を見出し、メタ的に「思考しなくても良い自由」という核心を突こうとしているように思われます。

また、本著のもう一つの鍵となる「愚かさ」も、単に知的能力の不足や欠如を意味すると云ったものではありません。ここで東氏が指摘しているのは、正義や平和をめぐる思考が明晰化され、論理の連環が強固になればなるほど、かえって対立は先鋭化し、戦争という「合理的解決」へと収束してしまうのではないかという、逆説的なジレンマです。

たとえば「戦争を止めるべきだ」という主張が正論であったとしても、それを論理的に徹底し、あらゆる反論を封殺しようとすれば、最終的には「敵を殲滅する以外に平和への道はない」といった極端な帰結を招きかねません。つまり、論理性とは往々にして、我々を逃げ場のない闘争へと追い込む、チキンレースのような側面を持っているのだと云えます。

それを踏まえますと、本著で説かれている「愚かさ」とは、こうした論理性の否応のない進展を意識的に抑制しようとする態度であり、事実と論理性のみで全てを判断しようとする現代的な知的態度に対して、敢えて「考えないで済む領域」の重要性を説いているのだと理解することが出来ます。

また、平和や正義を強く論理化しようとする行為態度は、現代社会における「効率性(コストパフォーマンス)」の追求とも不可分であると云えます。効率を最大化し、無駄を徹底的に削ぎ落とした先にあるのは、数値化はし得ないものの充実した生の営みや、曖昧な情緒性の排除です。そして戦争もまた、究極的には政治的なコスト計算の帰結として選択される「解決策」という側面を持っています。もし我々が、あらゆる事象を論理性と効率性のみで判断しようとするのであれば、どこかで「究極的な破壊」が合理的な選択肢となる危険性を否定することは出来ません。

こうした視座から、本著での東氏の見解は、その手前で踏み止まり、言語化し得ない日常の喜びを享受出来る「余白」を維持することの重要性に集約されていると云えます。それは、効率化一辺倒の現代文明に対する、極めて根源的な批判でもあります。

さらにこの見解は、社会における「無用の用」の再評価とも評し得ます。我々が常に政治や平和について考える必要がなく、むしろ、それらの思考から解放され「考えないで済む領域」が確保されていること自体が、その社会の平和の程度を測る一つの指標となるのです。

もっとも、東氏は「考えないで済む状態」を無条件に称揚しているわけではありません。為政者や考える必要性のある方々が思考を放棄してしまえば、社会の秩序は容易に崩壊します。その意味で、東氏の議論は単純な非武装論や、政治的無関心の免罪符とは一線を画しています。本著で述べられる「愚かさ」とは、単に思考を止めることではなく、思考そのものが孕む「暴力性」を自覚し、それを出来るだけ自然に抑制しようとする態度であると解釈するのが妥当でしょう。

加えて、本著の重要な洞察の一つは、「平和」と「反戦」の峻別にあります。東氏の定義によれば、「反戦」とは戦争に対抗する能動的な政治行為であり、そこには常に「敵」や「対立」の構造が伴います。これに対して「平和」とは、そもそも戦争という概念が意識の遡上にすら上らない、忘却された状態を指します。

ここから「平和は思考不可能であり、記述不可能である」という逆説が導かれます。「私たちは今、平和だ」と言語化した瞬間、その平和は他者との比較や訂正可能性に晒され、政治的議論の客体へと変質してしまいます。平和とは、幸福と同様、語ろうとした瞬間に手の中から零れ落ちていく性質のものなのです。

『平和と愚かさ』は、読者に対して明快な結論や指針を提示する種類の著作ではありません。紀行文を思わせる比較的柔らかなその文体は、読者に思考の速度を落とさせ、読んだ文章の内容を自らのペースで咀嚼・反芻する時間を与えてくれます。

スピードと効率性が求められ、SNS等で「レスバ」や「論破」の応酬が繰り広げられる、末世とも見える現代社会において、東氏の「読み手に委ねる」という態度そのものが、ある種の洗練された思想的実践であるようにも感じられました。

平和を声高に主張することにより、却って平和を壊してしまう我々自身の「思考の型」を自覚し、正義を掲げる熱によって、私たちはあまりにも多くの「日常にある余白」を焼き払ってきたのではないでしょうか?失われてしまった、そうした場所を示し、今なお過熱し続ける世界に水を差すことこそが、本著の持つ大きな価値であると思われました。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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2026年1月10日土曜日

20260110 興味関心が時間を掛けて文章化に至るまで

年末年始にかけて、ベートーヴェンの交響曲第九番、ならびにベネズエラでの事案を題材にブログ記事を作成しました。いずれも私の専門分野ではなく、その意味では門外漢による文章であると云えます。そのためか、普段の投稿記事に比べて、やや否定的な受け止め方も目についたように感じられました。しかし、実際、それが、どの程度であるのかは慎重に見なければならず、そこには私自身の受け取り方も含まれているのかもしれません…。

とはいえ、冒頭二つの題材は、決して思いつきで選んだものではありません。ベートーヴェンの第九については、以前からなぜか惹かれており、中学生の頃に初めて購入したクラシック音楽のCDもこの楽曲でした。その後も指揮者やオーケストラの異なる録音盤をいくつも聴き、また、本楽曲が印象的に多用されたスタンリー・キューブリック監督『時計仕掛けのオレンジ』も興味深く何度も視聴しました。さらに大学一年生の時には第九の合唱に参加する機会があり、身体を通じて、この楽曲に触れた経験もあります。そして、昨年12月28日に上野の東京文化会館で第九の演奏会に出席させて頂いた折、こうした記憶が改めて励起され、それが記事作成につながったのだと云えます。

また、新年1月3日のベネズエラでの事案についても、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、背景や文脈を理解するために国際関係論や近現代史の書籍を継続的に読んできました。そして、その中にはベネズエラの状況に触れるものもあり、強い関心を抱き続けてきたとまでは云えないにせよ、多少の前提知識は蓄積されており、そこで、今回の事案に際して思うところもあり、ブログ記事題材として取り上げたのだと云えます。

それでも、専門外の分野を題材として文章を公表する行為は、我が国ではしばしば「越権」あるいは「付け焼き刃」と見なされ、白眼視されることもあります。しかし「専門ではない」ということと「何の知見の蓄積もない」ということは、必ずしもイコールではありません。専門性は、職業的訓練や研究成果などによって可視化されますが、知的関心の持続や思考の蓄積は、肩書や業績として表面化しない場合も多々あります。また、専門家でないからこそ、特定の学派や内部での言語世界に拘束され過ぎず、事象を一定の距離をもって捉え直せることもおおいにあり得ます。もちろん、その際には断定を避け、問いとして提示するような慎重さが必要であるとは考えますが...。

しかし、そうした慎重さとは、沈黙を選ぶ理由にもなりません。文章を作成するという行為は、おそらく、他者に結論を押しつけるためではなく、自らの中で持続してきた興味関心あるいは疑問を整理し、言語化する作業でもあると考えます。そして、さきの両記事も、そうした試みとして作成したものと云えます。無論、読んでくださった方々すべてに受け入れられることを期待しているわけではありません。ただ、これらの文章が単なる思いつきではなく、ある程度の時間をかけて培われた興味関心の延長線上にあることは、出来ましたら、ご理解頂ければと思います。

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2026年1月5日月曜日

20260104 今回のベネズエラ情勢から想起された「バナナ共和国」について

今回一連のベネズエラ・ボリバル共和国(以下、ベネズエラ)をめぐる報道に接し、久しく意識することのなかった「バナナ共和国(banana republic)」という言葉を思い出しました。以前、 ユヴァル・ノア・ハラリ の著作でこの言葉を知り、その語感の面白さから調べたところ、それが単なる蔑称ではなく、特定の歴史的・政治的構造を的確に表現したものであることを知りました。また、この言葉を創案したのが、ジャーナリストでもあった短編の名手と称される米国の作家 オー・ヘンリー であったことにも、当時は少なからず驚かされました。

「バナナ共和国」とは、特定の一次産品の生産に国家経済が依存し、外国資本と結びついた買弁的支配層が国家の主要な意思決定を左右する体制を指します。こうした国家は形式上は独立国であっても、実質的な主権は国外勢力に握られていることが少なくありません。そしてこの言葉が、今年初頭のベネズエラをめぐる一連の報道を通じて、あらためて想起されたのです。

今回、米軍が首都カラカスで実施した「真夜中のハンマー作戦(Midnight Hammer operation)」は、現職国家元首の身柄拘束を目的とする典型的な斬首作戦でした。長期間にわたる情報収集、通信・電力・情報網への事前侵入と遮断準備、さらには現地勢力への黙認工作などにより、ベネズエラ側に本格的な反撃の機会は与えられず、作戦は短時間で実行され、当初の目的は達成されました。

この成功は、2022年以来続く第二次露宇戦争におけるロシア軍の初動と対照的です。ロシア軍も当初、首都急襲による政権中枢の無力化、すなわち斬首作戦を志向しましたが、首脳の身柄拘束には至らず、ウクライナ軍の頑強な抵抗に直面して失敗し、戦争は長期化しました。

一方、今回のベネズエラでの米国による斬首作戦は成功したため、大規模な戦争は回避されました。その成否を分けたのは兵器の性能ではなく、作戦設計です。米国は目的を「政権転覆」ではなく「元首の身柄確保」に限定し、占領や統治を前提とせずに軍事行動を完結させました。さらに、その後の処理を国内の刑事司法手続に接続することで、軍事行動を「法執行」として再定義しました。

しかし同時に、この成功は国家主権という国際秩序の根幹を揺るがすものでもあります。他国の元首を軍事力によって拘束し、自国の司法制度に組み込む行為は、主権が事実上、力によって書き換えられたことを意味します。加えて、資源管理を含む暫定的な統治関与が示唆されたことで、ベネズエラは再び外国勢力の管理下に置かれる構図へと近づいたと云えるでしょう。

ここで「バナナ共和国」という言葉は、単なる歴史用語ではなく、現在の情勢を理解するための分析枠組みとして立ち上がってきます。独裁的元首の排除と秩序回復が掲げられる一方で、国家の富と意思決定が外国の管理下に置かれるのであれば、それは名称の如何を問わず、従属構造にほかなりません。

この事態を最も深刻に受け止めているのが、カリブ海地域の反米的国家、とりわけキューバです。長年ベネズエラ産石油に依存してきたキューバにとって、その供給源が米国の管理下に入ることは、経済問題にとどまらず体制存続に直結します。ベネズエラで起きたことが前例となれば、次は自国ではないかという警戒感が強まるのは自然な流れです。

他のカリブ海諸国や中南米左派政権もまた、表立った対抗を控えつつ、外交姿勢の再調整や域外大国との関係改善を通じ、間接的な牽制に動く可能性があります。中南米諸国は、かつてのモンロー主義を想起させる米国の行動を前に、静かな緊張状態に入りつつあると考えられます。

独裁体制の崩壊がベネズエラ国民に一定の希望をもたらす可能性は否定できません。しかし、その過程で国家主権が大きく損なわれたこともまた事実です。斬首作戦という戦術的成功の先に、いかなる戦略のもとで政治体制と秩序が再構築されるのか。この一連の報道を通じて「バナナ共和国」という言葉が想起されたのは、その問いが再び現実のものとなったからにほかなりません。

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2026年1月3日土曜日

20260103 2026年初投稿記事:最近の読書から思ったこと

新年を迎え、すでに3日間が経過しましたが、当ブログの方は、昨年12月29日分の投稿から更新はしていません。しかしながら、この間の年末年始の期間を振返りますと、この期間に、新たに入手したものや積読状態であった書籍を比較的落ち着いて読み進めることが出来ました。とりわけ、12月24日に届いた東浩紀による「平和と愚かさ」は、500頁近い文量ではありますが、読み始めてみますと、著者の文体に乗せられるのか、比較的スムーズに読み進むことが出来、現在、300頁ほどまでに至りました。本著作は、戦争や国際政治などを正面から論じるというよりも、著者が訪問した世界各地の風景や施設から、それぞれの歴史や文化について論じ、そこから平和について論を立てる、いわば、紀行文的な体裁の思想文であり、平易とは云い得ませんが、比較的読み易い文章であると云えます。また、そのなかの「我々が政治について語りすぎていること自体が、かえって平和から遠ざかっているのではないか?」という問題提起は、我々に即断を促すものではなく、むしろ、それ以前にある、いわばメタな考えを、より地に足の着いたものへと導くことを企図したものであるように思われました。

また、もう一つの読み進めている著作である伊藤之雄著、中公新書の「元老」は、現在の我が国の状況と、どこか通底するものがあるのではないかと思いつつ読み進めています。当著作は、明治維新から昭和初期にかけての我が国の政治を題材としていますが、そこで改めて意識させられるのは、戦前の我が国における元老という存在が、制度として明文化されていなかったにもかかわらず、実質的には政治の均衡を支える重要な役割を果たしていたと云う点です。元老は、大日本帝国憲法に規定された制度ではなく、特に法的な権限を持つ存在でもありませんでした。それでも首相奏薦を通じて、政党政治と天皇制、さらには軍部とのあいだに介在する、非公式な調停装置として機能していた側面があったことは否定出来ません。

繰り返し、元老は、戦前の大日本帝国憲法に規定された公的制度ではなく、その権能や資格、待遇が明文化された存在でもありませんでした。にもかかわらず、天皇の輔弼という立場から、内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の重要事項に参画し、事実上、政権形成に大きな影響力を持っており、実際、天皇は元老が奏上した首相候補を拒否した例はなく、大命降下は実質的に元老の判断に基づいていたと理解されています。

とはいえ、元老は常に一体として行動していたわけではなく、その政治的な働き掛けは、元老各個人の判断と人脈に依存する側面が強かったことも指摘されています。つまり、元老は内閣の安定を支えようとする一方で、場合によっては倒閣に動いた例もあり、元老の影響力は必ずしも一方向的なものではありませんでした。にもかかわらず、軍、政党、官僚、そして天皇制とのあいだに介在し、直接的な衝突を和らげる「非公式な調停装置」として機能していました。

最後の元老であった 西園寺公望 は、昭和15(1940)年に亡くなっていますが、その時まで元老や元老制度が十分な影響力を保持していたわけではありません。既に1930年代後半には、元老の政治的影響力は著しく低下していました。それでもなお、最後の元老、西園寺の死により、明治維新以来からの政治的慣行が名実ともに終焉したことが、太平洋戦争開戦に至る遠因の一つであったとする指摘もあります。

軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、昭和恐慌からの政党政治への不信、国際情勢の緊張化など、戦前の我が国が軍国化への傾斜を強めるには、複数の要因が重なっています。しかし、それらの過程のなかで、軍や政治の暴走を非公式にではあれ、抑制し得る機能を持つ存在が失われてしまったことは、結果として、その後の軍国化への歯止めを弱めたと云えるでしょう。

また、戦前の国民が「元老ではなく軍部を信頼した」と単純に判断することにも注意が必要です。当時、元老とは国民にとって可視的な存在ではなく、また、可視的な存在による政党政治の方は汚職、不祥事や分裂などで国民からの信頼を失っていました。その結果、消去法の様に、軍が秩序や強さを体現する存在として国民に認識され、支持を集めるといった構図が形成されたのであり、それはいわば、国民が積極的に軍部を選択したというよりも、他に信頼できる政治の担い手を見つけることが出来なかったというのが、実態に近いと思われます。

そして、こうした構図とは、決して過去にのみ当てはまるものではありません。現代の我が国社会においても、ネット環境の向上、SNSの普及などにより、情報の流通速度は飛躍的に高まりましたが、その一方で、既存メディアや政治への不信は、むしろ強まりつつあるように見受けられます。そして、その背景の一部には、面倒な調整や専門的知見に基づく判断よりも、分かり易く、強い断定調の言葉の方が支持を集め易いといった時代を通じて共通する我が国の事情や構造といったものがあるのではないかとも思われるのです。

もちろん、現代の我が国には、文民統制や憲法秩序、民主的官僚制といった、1945年の敗戦による民主化以降に培った制度的基盤があり、戦前の社会と同じに考えることは出来ません。しかし一方で、混乱する政治を調停して、一極への力の集中を抑制する装置が弱体化、衰滅すると、我が国の社会(民意)は「分かり易い勢力」の方へと傾斜する傾向があったと云うことは、我が国近現代史が示す一つの教訓と受け止めて良いのではないかと考えます。

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2025年12月30日火曜日

20251229 ベートーベン:交響曲第9番の思想的射程と現代的意義について

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる交響曲第9番ニ短調、作品125は、音楽史において独特の地位を占める作品であり、その最大の特徴は、終楽章に声楽を導入した点にあります。器楽を基盤として発展してきた交響曲の形式に、声楽を組み込むという試みは、当時の交響曲の様式からは逸脱するものでした。そして、その独自の構造ゆえに、本交響曲は音楽史における一つの転換点として位置づけられていると云えます。

本交響曲の構想は1818年頃から始まり、実際の執筆は1822年末から1824年初頭にかけて行われました。先述の終楽章にある声楽の歌詞には、フリードリッヒ・フォン・シラーが1785年に著した頌歌「歓喜に寄す」が採用されています。この詩を音楽化することは、ベートーヴェンにとって長年の願いであり、それが最後の交響曲において結実しました。

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で行われた初演では、ミヒャエル・ウムラウフが実質的な指揮を執り、聴力を喪失していたベートーヴェンはテンポを指示する役割で舞台に立ちました。終演後、聴衆の反応を認識できなかったベートーヴェンに対し、独唱者が客席の方へ向き直るよう促したことで、彼が初めて大喝采を認識したという記録が残されています。

また、本交響曲の背景には、当時の政治状況が深く関与しています。シラーが「歓喜に寄す」を執筆したのはフランス革命直前の啓蒙主義的な時代(1785年)でしたが、本交響曲が初演された1824年は、ナポレオン失脚後のウィーン体制下、宰相メッテルニヒによる保守反動的な政治体制が欧州を覆っていた時代でした。

こうした背景において、本交響曲は純粋な祝祭音楽とは異なる思想的性格を持ちます。終楽章冒頭において、先行する楽章の回想がバリトンの独唱によって否定される構成は、それまでの器楽的文脈を一度遮断し、新たな方向性を模索する転換点として機能しています。これは、既存の社会秩序や価値体系が限界に達した地点から、普遍的な共同性を再構築しようとする試みであるとも解釈出来ます。

また、当交響曲の作品構造は、内的苦悩から人類的な歓喜への移行を表現しています。第一楽章の不安定な導入、第二楽章の鬱勃とした律動、第三楽章の瞑想を経て、第四楽章において初めて「歓喜」が言葉として提示されます。

このプロセスは、歓喜が最初から与えられたものではなく、分裂や葛藤を通過した後にのみ到達し得るものであることを示しています。つまり、ここで描かれているのは、楽観的な調和ではなく、厳しい現実を前提とした上での生の肯定であると云えます。

後世、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において本交響曲を論じたことは、第九の思想的解釈を深める一助となりました。ニーチェは同著の第1節において、ベートーヴェンの「歓喜に寄す」を、個の境界が崩壊し万物が根源的な一体感へと回帰する「ディオニュソス的陶酔」の象徴として引き合に出しています。彼にとって当交響曲の終楽章は、苦悩や混沌を否定するのではなく、それらを包含した上で生を全肯定する力を具現するものでした。構築された形式の中で、情念と理性、個と全体が均衡を保つその姿は、きわめて高度な精神的営為であると云えます。

そして、この視座は現在の分断され、不安定化した世界情勢においても有効な示唆を与えてくれます。国家間の対立や価値観の相違などが顕在化している現在、当交響曲が提示する「歓喜」は、既に完成された調和を謳歌するものではなく、むしろ、世界が分断され、不安定化している地点から、それでもなお共存の可能性を構想し得るかという問いとして機能するのではないかと考えます。

さらに、当交響曲が初演から200年以上経た現在も世界各地で演奏され続ける理由は、当交響曲が安定した世界の祝祭音楽的なものではなく、不安定な世界においてこそ参照されるべき思想的課題を我々人類に提示し続けているからであると考えます。救いが保証され得ない厳しい状況から、いかにして我々は歓喜を見出し得るのか。その問いは、今もなお現代社会に対する解決が困難な問題(アポリア)として提示され続けていると云えるのではないでしょうか?

Beethoven: The Ideological Scope and Contemporary Significance of Symphony No. 9

Ludwig van Beethoven’s Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 occupies a unique place in the history of music. Its most striking feature is the introduction of vocal music in the final movement. To incorporate voices into a form that had developed as purely instrumental was a clear departure from the conventions of the symphony at the time. For this reason, the Ninth Symphony is widely regarded as a turning point in the history of Western music.

Beethoven began to conceive the work around 1818, and he composed it between late 1822 and early 1824. The text sung in the final movement is drawn from Friedrich von Schiller’s 1785 ode “An die Freude” (“Ode to Joy”). Setting this poem to music had been one of Beethoven’s long-held ambitions, and it was in his final symphony that this aspiration was finally realized.

The premiere took place on May 7, 1824, at the Kärntnertor Theater in Vienna. Michael Umlauf effectively conducted the performance, while Beethoven—by then profoundly deaf—stood on stage giving tempo indications. When the music ended, Beethoven was unable to perceive the audience’s reaction. According to contemporary accounts, one of the soloists turned him toward the audience so that he could see the overwhelming applause.

The political background of the work is also significant. Schiller wrote “Ode to Joy” in the intellectual climate of the Enlightenment, shortly before the French Revolution. By contrast, the symphony was premiered in 1824 during the post-Napoleonic era, when Europe was dominated by the conservative order enforced under the leadership of Metternich.

In this context, the Ninth Symphony cannot be understood as simple celebratory music. At the opening of the final movement, motifs from the preceding movements are recalled and then rejected by a baritone soloist. This gesture interrupts the established instrumental narrative and marks a decisive break, opening the way toward a new direction. It can be interpreted as an attempt to reconstruct a form of universal human community at a moment when existing social orders and value systems had reached their limits.

The overall structure of the symphony traces a movement from inner struggle toward a vision of human joy. The uneasy opening of the first movement, the surging vitality of the second, and the meditative character of the third all precede the final movement, in which “joy” is articulated for the first time through words. Joy is not presented as something given from the outset, but as something that can be reached only after passing through division and conflict.

What is affirmed here is therefore not an easy or optimistic harmony, but a form of affirmation grounded in harsh reality. Joy emerges not through the denial of suffering, but through its inclusion.

The later reception of the work was deepened by Friedrich Nietzsche, who discussed the Ninth Symphony in his first book, The Birth of Tragedy. Nietzsche refers to “Ode to Joy” as an expression of Dionysian ecstasy, in which the boundaries of the individual dissolve and all beings return to a fundamental unity. For Nietzsche, the final movement does not negate suffering or chaos, but gives form to a force that affirms life by embracing them. Within a carefully constructed musical form, passion and reason, the individual and the whole, are held in tension and balance. This represents an exceptionally high level of spiritual achievement.

This perspective remains relevant in today’s divided and unstable world. At a time when conflicts between states and clashes of values are increasingly visible, the “joy” presented in the Ninth Symphony does not celebrate a harmony already achieved. Rather, it functions as a question: whether it is still possible to imagine coexistence from a point of fragmentation and instability.

The fact that this symphony continues to be performed worldwide more than two centuries after its premiere suggests that it is not music for a stable and settled world. Instead, it persistently confronts humanity with a set of intellectual and ethical challenges that become most urgent precisely in times of uncertainty. From conditions in which no redemption is guaranteed, how are we to find joy? This question continues to confront modern society as an unresolved aporia.

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2025年12月24日水曜日

20251223 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」 pp.56‐59より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」
pp.56‐59より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 一般社会の人間は全部盲目だ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否して、これと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる。だが、この評価は日本の社会にも世界にも通用しない。触れれば、すぐにくずれてしまう。そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。

 しかし、その彼ら(将校)より、さらに不安定な位置にいる人びとがいた。下士官である。最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶対的で救いがたい状態であった。社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。

 日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している。彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない。これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝跪しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた。

 これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある。戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない。しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられるーこれをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。そしてのその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。

「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬した払わず、最低の待遇しかしない。これが一番ひどい扱いだと私は思う。最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。

 だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった。それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表れている。そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れているーというより、今でも全然そのことが念頭にないのである。日本のインテリ特有の一種の鈍感さである。

 下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感ーというより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、このヤロー」。彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた。そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。

 一般社会から実際には無視される。すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる。これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。

 結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。すると「お国のため」と「お国」」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない。同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう。

 こういう状態で生きていれば、結局は一種の根源主義者にならざるを得ない。彼らが何もかも否定し、社会全部を「めしい」考えることによって彼らだけの自己評価に生きるなら、その評価が依拠する根元は「絶対」であらねばならない。ここに「天皇制ラディカル」ともいうべき「国体明徴」問題も起れば、彼らの自己評価のみに基づく行動も起る。

 二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な地位は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうべき「ヤットコ大尉」である。しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。

 

2025年12月16日火曜日

20251215 師匠の講演前夜での予演および駄弁りと、当ブログの備忘録的性質について

 昨日投稿の記事は、これまでブログ記事作成を休止していた反動によるものであるのか、比較的一気呵成に作成することが出来たと云えます。また、ブログ休止中であっても、記事のネタになりそうな現実の出来事はそれなりにありますので、それらについても忘れないように、何処かに書き記しておく必要があると思われます。しかし現在、ブログを休止していますと、当ブログ副題で述べた通りの「主に面白いと思った記述、考えたことを記します。自身の備忘録的な目的もあります。」という一文が、実際にそのままの意味であったことに、改めて気が付かされます。

 つまり、さきのような現実の出来事を、ある程度抽象化して文章にすること自体が、その出来事を忘れないための手段であったことに、今さらながら思い至るのです。

 さて、ここまで文章を作成していて思い出された記憶は、去る12月6日(土)に関与させて頂いた学会に関するものです。こちらの学会は比較的新しい歯科医学分野の学会であり、その学術大会は、今回で第11回目を迎えます。そして、この学術大会では、以前より、歯科理工学分野の師匠を教育講演講師としてお呼び頂いていますが、今回も師匠は新たにネタを仕込み、スライドを作成され、講演前日の夕方には会場近くのホテルに入られていました。
 
 そしてその日、学術大会の用務を終えた私と、診療を終えた都内で開業されている門下の先生(私の兄弟子にあたります)を呼び出し、宿泊先のホテルで、作成したスライドを予演のように我々に聞かせるのです。その後、我々の意見を聞き、それが議論を通じて妥当であると判断されますと、スライドに加筆修正をしたり、画像データを差し替えたりされます。そうした様子を見ていますと、師匠は既に70歳をとうに過ぎているにもかかわらず、他者からの見解を度々求め、ご自身の作成スライドに躊躇なく手を加えることが出来ることに毎回のように感心させられます。

 実際、そのことを師匠に尋ねてみますと、概ね次のように返答されました。

「最近はだいぶ普及してきた云うてもやな、まだまだジルコニアは分かってへんことも多いんや。それでな、一番アカンのは、よう分からンままに、科学的な根拠もない憶測みたいなンが、業界やら学会やらに、割と広う出回ってしもてることや…。
せやからな、この学会で教育講演やらせてもらえるンは、ワシにとってはホンマに有難い機会なんや。
それでや、お前らみたいに気ぃ使わんでエエ連中に、いっぺん作ってきたスライドの内容を聞かせて、その反応を見てな、これはイケる、これはアカン、云うてもろて、それをまたスライドに落とし込む。まあ、そういう作業がな、ワシにとっては結構大事なンや。」

さらに、体力や学会などでの立ち振る舞いについては、次のようにも述べられていました。

「ワシもな、前に比べたら、体力は確実に落ちてきとる。せやけどな、まだ60分や90分くらいの講義や講演やったらイケる。ただな、元の体力が落ちとる分、余計なとこで消耗したくないンや。

学会のパーティ云うたら、エライ先生もようけ来てはるやろ。それに、よう知らん先生にも、それなりに気ぃ使わなアカン。

そんなンするくらいやったらやな、お前らみたいに、気ぃ使わんでエエ連中相手に、いろいろ喋っとる方が、よっぽど楽やし、その分、講演の方にも気持ちがちゃんと向くんや。」

この師匠のスタンスは以前と変わらないものであると云えますが、学会発表であれ、講義や招待講演や教育講演であれ、自らの知見に基づき、科学的に妥当と考えられる見解を、出来るだけ分り易く伝えようとする、その一貫した行為態度には、私自身も多少なりとも学ぶところがあったのではないかとも思われます。あるいは、それが少しでも根付いたからこそ、当ブログは、なんとか10年以上継続することが出来たのではないかとも思われます。

ちなみにこの時、最近刊行された歯科専門雑誌に掲載された師匠の執筆記事について、「お前、読めえ!」と云われ、続いて同席していた先輩からも「俺の記事も読めえ!」と云われました。そこで私は、「分かりました。次の休みに水道橋のシエン社に行って、立ち読みして、面白そうでしたら購入します」と返事をさせて頂きました。そして、去る11日(木)の休日に御茶ノ水駅で下車し、駿河台を下って靖国通りに出て、神保町の古本屋街沿いを九段下方面へ少し歩き、神保町交差点で右折して白山通り沿いに水道橋方面へ進み、JR水道橋駅の高架を過ぎて後楽園方面への交差点を渡る手前で左折すると、マクドナルドやココイチを過ぎた辺りの左手に、歯科系書籍の専門店として界隈では知られているシエン社があります。

そこで、他の歯科系雑誌や書籍をしばし立ち読みした後、件の雑誌を手に取り読んでみますと、やはり面白いと思われましたので、購入させて頂きました。また、購入時に領収書の作成をお願いしたところ、そこからシエン社さまの相談役の方と多少話が盛り上がってしまいましたが、ともあれ、師匠から勧められた書籍は購入し、その後拝読させて頂きました。内容は、師匠が常々述べられている世界規模での歯科医療の様相や、その推移が、材料学あるいは工学的見地から述べられており、特に業界に関与される方々は、興味深く読むことが出来るのものと考えます。

また、ここまで文章を作成していて、さらに思い出されたことがあります。それは、過日、国際関係論や公衆衛生、医療政策分野などに造詣が深い別の先生から、電話口にて自著を勧めて頂いたことです。後日、こちらの著作も購入して拝読させて頂きましたが、これもまた大変興味深い内容が述べられており、いずれ改めて引用記事を作成させて頂く予定です。

このように、ブログ記事のネタとなりそうな現実の出来事は、それなりに生じています。しかし、いざそれらを記述しようとしますと、どうも、この文章のように、何やらゴタゴタした文章になってしまうようです…(苦笑)。後日、改めて加筆修正を行うことになると思われますが、とりあえず、今回はこの辺で区切らせて頂きます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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