2025年5月4日日曜日

20250504 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.203-205より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

19世紀に日本がたどった制度発展の道筋からまたも明らかになるのは、決定的な岐路と、制度的浮動の小さな相違の生む小さな相違との相互作用だ。日本は中国と同じく絶対主義に支配されていた。徳川家はやはり国際貿易を禁じる封建体制を17世紀初頭に引き継ぎ、維持していた。日本もまた、西洋の干渉によって生じた決定的な岐路に直面した。1853年7月、マシュー・C・ペリー率いる四隻のアメリカ軍艦が江戸湾に入港し、アヘン戦争の際にイングランドが中国から勝ち取ったような貿易特権を要求した。だが、この決定的な岐路は日本ではまったく異なる役割を演じた。日本と中国は距離的に近く、頻繁な交流があったにもかかわらず、19世紀までに両国の制度はすでに隔たっていたのだ。

 日本における徳川家の統治は絶対主義的で収奪的だったが、有力な藩主に対する支配力はわずかしかなく、挑戦を受けやすかった。中国では、農民の反乱や内戦があったにせよ、絶対主義はもっと強力だったし、敵対勢力の組織化や自治の程度は低かった。中国には藩主に当たる存在、つまり皇帝の絶対主義的支配に挑戦し、代わりとなる制度を推進できる者はいなかった。こうした制度上の相違は、中国や日本を西欧と分かつ相違と比べれば、多くの面で小さなものだった。しかし、イングランドや合衆国の武力を伴う出現によって生じた決定的な岐路に際しては、きわめて重要な影響力を持っていた。中国がアヘン戦争のあとも絶対主義の道を歩みつづけたのに対し、日本では合衆国の脅威のせいど徳川家の統治に対する反抗勢力が結束し、第10章で述べるように、明治維新という政治革命を引き起こしたのだ。

 こうした政治革命のおかげで、日本では包括的な政治制度とさらに包括的な経済制度のもとで衰弱していったのである。

 日本は根本的な制度改革のプロセスを始めることで、合衆国の軍艦による脅威に立ち向った。このことが、われわれを取り巻く情勢のもう一つの側面、つまり停滞から急成長への移行の理解を助けてくれる。韓国、台湾、最後に中国が、第二次世界大戦後に日本と同じような道をたどって猛スピードで経済成長を成し遂げた。これらのケースのいずれにおいても、成長に先立って各国の経済制度に歴史的な変化が起こっていたのだーもっとも、中国のケースで際立つように、必ずしも政治制度は変化しなかったのだが。

 急成長の期間が突如として終わりを告げ、逆に衰退が始まるのはどうしてだろうか。そのメカニズムも重要だ。包括的制度への決定的なステップが急速な経済成長に火をつけるのと同じように、包括的制度からの急な離反は経済の停滞につながることがある。だが、急成長の行き詰まりは、アルゼンチンやソ連のケースのように、収奪的な制度のもとでの成長が終わった結果であることが多い。すでに見たように、これが起こる理由は次のどちらかだ。収奪の成果をめぐる内輪もめが政権の崩壊を招くこと、あるいは、収奪的制度のもとではイノヴェーションと創造的破壊が本質的に欠けているため、持続的な成長に限界があること。ソ連がこうした限界にぶつかった様子については、次章でより詳細に論じることにしよう。

20250504 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」 pp.311-315より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」
pp.311-315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 1890年、イタリアは列強のなかで最小のメンバーだったが、日本はまだその一員に数えられてもいなかった。何世紀ものあいだ、日本では各地に分立した封建領主(大名)と戦士階級(武士)による少数独裁政治がしかれてきた。天然資源に乏しく山地が多い地形であるために、耕作に適するのは国土のわずか20パーセントで、日本には経済発展に不可欠とされてきた条件がすべて欠けていた。日本語が複雑でほかによく似た言語がないことや、文化的な独自性を強く意識いたために、外の世界と隔絶していた日本は、もっぱら内側に目を向け、外国からの影響をこばみながら19世紀の後半を迎えた。こうしたことを考えると、日本は政治的には未成熟で、経済的にも立ち遅れ、世界の大国のなかで軍事的な重要性をもたない国であることを運命づけられていたようにみえる。しかし、数十年のうちに、日本は極東の国際政治において主役を演じるようになる。

 1868年の明治維新に日本がこの変身をとげたのは、エリートたちが西側による支配と植民地化を避けようと決意していたためであった。そのころのアジアはどこでも西欧によつ植民地化が進んでゐたが、日本はこれに抵抗するために改革を断行し、封建秩序を打ちこわして武士階級の激しい抵抗を受けることも辞さなかった。日本が近代化しなければならなかったのは、個々の企業家が望んだからではなく、「国家」が近代化を必要としたからだったのである。当初の抵抗を粉砕してしまうと、日本はコルベールやフリードリッヒ大王も顔負けの統制経済を断行し、国家主導で近代化を進めた。プロイセン‐ドイツにならって新憲法が制定され、法律制度の改革も行われた。教育制度の大幅な拡充によって日本の識字率は比類のない高さになった。暦も変更された。衣服の習慣も改められた。近代的な銀行制度も発展した。英国海軍から専門家を招いて助言を求め、近代的な艦隊の創設に始まり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を手助けした。日本の軍人は西欧の陸軍士官学校や海軍士官学校に留学した。近代的な兵器が輸入されると同時に、国内の軍需産業の育成も行われた。国が先に立って鉄道網、電信、海運業の創設に努力し、台頭しつつあった企業家と力を合わせて鉄、鋼鉄、造船などの重工業を育て、繊維産業の近代化を促進した。政府の補助金は輸出を奨励し、海運業を促進し、新たな工業をつくりあげるために使われた。日本の輸出、とくに絹および繊維製品の輸出は急激に伸びた。こうした発展の陰には、富国強兵というスローガンを建製しようという強力な政治姿勢があった。日本人にとっては、経済力と陸軍力および海軍力は手をたずさえて伸びていくものだったのである。

 だが、それには時間がかかり、いつまでも深刻な障害が残った。都市部の人口は1890年から1913年までに2倍に増えたが、耕作農民の数は変わらなかった。第一次世界大戦の直前でさえ、日本人の6割は農林水産業に従事しており、農業技術にかずかずの改良が加えられたにもかかわらず、山地の多い地形や小規模土地所有のために、たとえばイギリスのような「農業改革」は進まなかった。こうした「腰の重い」農業が基盤になったので、日本の潜在的な工業力や一人当たりの工業化水準は列強の最下位かそれに近かった(第14表、第17表くぉ参照)。1914年までの工業の伸びの大きさは、近代的なエネルギー消費律の急激な伸びと、世界の総生産に占めるシェアの増大にうかがえるか、ほかの領域ではまだ遅れていた。鉄と鉄鋼の産出量は少ないし、輸入への依存がきわめて大きかった。同じく、造船業が拡大していたものの、軍艦の一部は海外に発注していた。また資本の不足も深刻で、外国から多額の資金を借り入れなければならず、それでも工業や産業基盤の整備、軍事力の向上に投資する資金は充分ではなかった。経済的には非西欧諸国としては唯一、帝国主義のさかんな時代に産業革命を行うという奇跡をなしとげたが、それでもイギリス、アメリカ、ドイツとくらべれば工業面でも財政面でも見劣りは免れなかった。

 しかし、さらに二つの要因が働いて、日本は列強の仲間入りをはたし、たとえばイタリアをしのぐほどになる。その第一は地理的に孤立していたことである。すぐ近くの大陸にあるのは滅びかけた帝国たる中国で、ほとんど脅威にはならなかった。そして中国や満州、それに挑戦(朝鮮の植民地化はかなりの不安の種だった)などが他の列強の手に落ちるにしても、日本はどの帝国よりもこれらの地域に近い。ロシアは1904年から5年にかけての戦いで6000マイルにわたる鉄道を利用し、苦心して軍隊に補給品を送ったときにこのことを知ったし、イギリスとアメリカの海軍はそれから数十年後、フィリピン、香港、マラヤに救援軍を送ったとき、平坦問題と取り組んで苦労することになる。東アジアでは日本が着実な成長をとげていたことを考えれば、他の大国が日本の進出を阻止することは至難のわざで、やがて日本がこの地域で支配力をふるうようになるのは当然といえよう。

 第二の要因は、モラルである。日本人が文化的な独自性を強く意識し、天皇崇拝や国家にたいする畏敬の念が強く、軍人の名誉と尊厳にたいする武士的な気質がゆきわたり、規律と勇気が重視されていたことから、きわめて愛国的で犠牲をものともしない政治的風土が育まれた。それが一つの要因となって、拡張政策を追求して「大東亜共栄圏」を確立し、製品市場と原材料の供給地を確保すると同時に、戦略的な安全保障をはかろうという流れがさらに強まったというのは異論のないところだろう。この姿勢が明確になったのは、1894年に日本の陸海軍の対中国作戦が成功したときである。このとき、両国は朝鮮における権益をめぐって争い、陸と海の両方で、装備にすぐれた日本軍は勝利への意志を固めて突き進んでいった。戦後処理をめぐってロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」の脅威にあって、日本政府はしぶしぶ旅順と遼東半島を返還した。このことで、日本政府は捲土重来の決意をいっそう固めただけだった。林男爵の次のような苦々しい決意に共感しない者は、日本政府のなかにはほとんどいなかったのだ。

 新しい軍艦が必要ならば、われわれはどんな犠牲を払っても建造しなければならない。わが陸軍の組織が不備だというなら、ただちに改善にとりかかなければならない。必要なら軍事制度全体をも変更しなければならぬ…。

 現在、日本は平静を保ち毅然として身を処し、外国から向けられた疑惑を晴らさなければならない。そして、そのあいだに国力の基本を固め、東洋に進出する機会を待つのだ。その機会はきっと到来する。その日がきたとき、日本は国としての運命を決することになるのだ…。(R・ストリィの引用による)

 復讐のときは10年後にやってくる。朝鮮および満州にたいする日本の野心がロシアのツァーリのそれと衝突したのである。海軍の専門家は、東郷提督の艦隊がロシアの艦隊を対馬沖の日本海海戦で破ったことに感歎したが、他の人びとを驚かせたのは日本の行動そのものだった。旅順奇襲(1894年の日清戦争に始まり、1941年にふたたび採用された慣行)を西側は拍手をもって迎え、日本の国家主義者がいかなる犠牲も省みず徹底的な勝利を求める情熱にも感心した。それよりさらに驚異だったのは、旅順要塞の包囲戦と奉天の会戦における日本軍の将兵の戦いぶりだった。何万人もの犠牲を出しながら、地雷原を渡り、鉄条網を越え、機関銃の弾丸を浴びつつ突撃し、ロシアの塹壕を制したのである。サムライ精神を発揮して銃剣をふるえば、大量の武器が投入される近代戦においても勝利を獲得できるかにみえた。当時の軍事専門家が考えたとおり、モラルと規律が国力の充実に欠かせぬ必要条件だとすれば、日本にはこの資源が豊かにあったのである。

 それでも、日本はまだ駆け出しの大国にすぎなかった。日本が戦った相手がさらに遅れた中国やツァーリのロシアだったことは幸運だった。ロシアの軍部は頭でっかちで、しかもペテルブルグと極東をへだてる広大な距離のために不利益をこうむっていたからである。さらに、1902年に日英同盟が締結されていたので、第三国の介入を恐れることなく地元で戦うことができた。日本海軍はイギリスで建造された軍艦が頼りだったし、陸軍ではクルップ製の大砲が主力だったのである。さらに重要なのは、多額の戦費を国内の資金だけではまかなえなかったが、アメリカやイギリスの金融市場で調達できたことだった。事実、1905年末にロシアとの和平交渉を進めていたとき、日本は破産の瀬戸際に立っていたのだ。この事実を、東京の市民は知らず、和平交渉がロシアに比較的有利に終わったと考えて怒りを燃やした。とはいえ、日本の勝利は確定し、軍部は栄光と賛美に包まれ、経済は回復することができた。そして(地域的なものであったにしろ)列強としての地位がどこからも認められるところとなり、日本は一人前になった。極東では、日本の反応を考慮することなくして、どんな行動に出ることもできなかった。だが、日本がさらに拡張政策をとっても、他の列強から横やりが入らないかどうか、それはまだ不明だったのである。

2025年5月2日金曜日

20250501 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.174-176より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.174-176より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

革新派は、伝統や既存の精度や機関を軽視し、より良い社会構造を一から創出する方法を知っていると考える傾向にある。保守派はそれよりも伸長になりがちだ。保守派の主要な見識を言い表した人物として最も有名なのがエドマンド・バーグであり、彼によれば、社会の現実は、革新の擁護者が把握しているよりもはるかに込み入っており、人々はこの世の中を理解して未来を予測するのがあまり得意ではないという。だから、たとえ物事が不当に見えても、あるがままにしておくのが最善であり、もし何らかの変化が避けられないのなら、その変化は限られた範囲でゆっくりと進むべきなのだ。社会は、長い間に試行錯誤を通して積み上げられてきた規則や制度や習慣の複雑な仕組みによって機能する。そうした無数の規則などが、互いにどう結びついているのかは誰にも理解できない。古代からの伝統は馬鹿げていて現状には無関係に見えるかもしれないが、それを廃止すれば、思いがけない問題が生じかねない。逆に、公正で、とうに起こっているべきであるように思えた大変革も、旧来の政治体制が犯したどんな罪よりもはるかに重大な罪につながりうる。ボリシェヴィキが帝政ロシアの多くの不正を改め、完璧な社会を一から創出しようとしたときにどうなったか見てみるといい、というわけだ。

 したがって、これまでは保守派であるというのは、政策よりもペースの問題だった。それか特定の宗教やイデオロギーに傾倒しているから保守派となるわけではない。すでに存在し、それなりに機能してきたものなら何であれ維持することに熱心なのが保守派なのだ。保守的ポーランド人はカトリック信徒、保守的なスウェーデン人はプロテスタント、保守的なインドネシア人はイスラム教徒、保守的なタイ人は仏教徒だ。帝政ロシアでは、保守的であるとは皇帝を支持することを意味した。1980年代のソ連では、保守的であるとは共産主義の伝統を支持し、グラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)や民主化に反対することだった。同時期のアメリカでは、保守的であるとはアメリカの民主主義の伝統を支持し、共産主義や全体主義に反対することだった。

 ところが2010年代から20年代の初めには、多くの民主社会で保守政党がドナルド・トランプらの非保守的な指導者にハイジャックされ、過激な革命政党に変えられてしまった。アメリカの現共和党のような新種の保守政党は、既存の制度や伝統を維持するために最善を尽くす代わりに、そうした既存のものに強い不信の目を向ける。たとえば、彼らは科学者や公務員、世の中のために働いているその他エリートたちに対して、これまで払って当然だった敬意を退け、彼らを軽蔑の目で見る。選挙のような民主主義の基本的な制度や伝統も同様に攻撃し、選挙での敗北を認めることも、権力を潔く移譲することも拒む。バークの主張するような保守政策とは違い、トランプの打ち出す政策は、既存の制度を破壊し、社会に大変革を起こすことを訴える。バーク流の保守主義が樹立されたのは、バスティーユ牢獄の襲撃が起こったときであり、バークはぞっとしながらこの事件を見守った。ところが2021年1月6日、多くのトランプ支持者は、連邦議会議事堂の襲撃を熱狂しながら見守った。トランプの支持者は、既存の制度は完全に機能不全に陥っているので、打ち壊してまったく新しい構造を一から築き上げる以外に選択肢はないと説明するかもしれないが。だが、この見方は、正しいかどうかにかかわらず、保守派ではなく典型的な革命主義者のものだ。革新派は保守派の自滅にすっかり不意を衝かれ、アメリカの民主党のような革新派の正当は否応なく、旧来の秩序と規制の制度の守護者になった。

 なぜこんなことが起こっているのか、確かなことは誰にもわからない。テクノロジーの変化のペースが加速し、それに伴って経済も社会も文化も変わっているため、穏健な保守派の政策が非現実的に見えるようになってしまったからというのが、一つの仮説だ。もし既存の伝統や制度や機関を維持するのが絶望的で、何らかの大変革が避けられないようなら、左派による革命を妨げるには、先手を打って人々を煽動し、右派による革命を起こさせるしかない。これが1920年代から30年代にかけての政治のロジックであり、当時、イタリアやドイツ、スペイン、その他の保守勢力は、ソ連型の左派による革命の機先を制するため(と考えて)過激なファシスト革命を後押しした。

2025年5月1日木曜日

20250430 株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」pp.36-39より抜粋

株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」
pp.36-39より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B000J93MGQ

  私は奈良にきて、さまざまの古い仏たちを見ながら、そのあまりの多様さに眩惑され混乱して、はっきりとまとめて考えることがなかなかできないでいたが、そのうちにようやく一条の理解の筋道をたてることができた、と思った。これについては後にあららめて考えたいが、おおよそ次のようなことを疑うことができない。
ー日本の彫刻は宗教彫刻であって、その志向するところは精神的な感動をあたえるにあった。肉体はただ精神の宿る場として、このかぎりにおりてのみとりあげられた。肉体を肉体として表現しようという意欲はなかった。呪縛し魅惑する精神がもっとも宿る肉体の部分は、顔と手である。故に、ここが仏教彫刻の焦点である。ただこれをよりよく表現するためにのみ、顔と手には(そしておそらく胸あたりまでは)実在的にも充実した探求がされている。しかし、他の部分はほとんど顔を手を支える台のようなものであり、肉体としての注意の中に入ってこない。こういう部分の迫真的表現は、できなかったのではない。しようとしなかったのである。技能はあっても、その興味がなかったのである。そして、右の精神的感動の表現のためにもっとも用いられた表情は、荘厳な調和ある相貌のほかに、憤怒と微笑だった。また印を結んだ手の形だった。この神秘主義はさまざまのヴァリエーションをなしているが、この原理は他の原理が入ってきた後代にも、ずっと主流となっている。後代の肉感的であるといわれる彫刻ですら、その意図するところは肉感を通じての神秘感にあった。白鳳のあの完全な肉体への志向は、一つの挿話にすぎなかった。日本人は肉体を肉体としてヨーロッパ風に意識したことは、ほとんどなかった。仏像は人体としてではなく、精神的影響をあたえるものとしてつくられ、肉体を独立した存在として四方八方から立体的に眺めるという気持はなかった。いまのわれわれにとって自明な彫刻感は、おそらく大正時代に入ってはじめて確立したものであろう。だから、われわれが古い彫刻を見るときには、レンズを代え、ピントを別に合わせなくてはならぬー。
 この私の臆説は、念裏にすこしづつ醞醸していたのだったが、この釈迦三尊を見たときに決定的なものとなった。
 光背を頂点とする大きな三角形の中の、線の音楽の中から、三尊の顔と手が浮き出している。顔と手以外の部分には、実在を再現しようという意図はまったく見られない。体躯は非情な強靭な線の交錯する塊にすぎない。本尊は小さい台の上に坐っているので、蓮茎の上の脇侍と共に宙に浮いているようであり、そのひろく張りだして垂れた裳は着物というよりもむしろ雲のようである。
 胸にたれ下ったふしぎに象徴的な襟も、肩にかかっている蕨手形の髪も、光背の渦巻も、すべて線による主観の表現であり、現実を遮断している。そして、抽象的な紋様をくりかえすことによって、直観に限定された方向をあたえ、感情にきびしい統制を加て、意識のうつろいやすい感性の領域からひき離して、絶対世界へと強制している。
 本尊の体躯は萎縮して、顔はゴツゴツとして頬骨がつき出て、鼻は平らに、唇はひろく、ほとんどネグロ的な相好である。何となく未開人の呪術師を思わせ、こちらを凝視しながら嘲笑しているようでもある。円満とか慈愛とかいうことからはとおく、むしろ怪奇で醜悪である。
 醜とか悪とかグロテスクとかいうことは、つよい力をもっている。むしろ醜の中にこそ、人の心を貫き圧倒するものがある。額から光を放って人をおそれさせはばからせたカインは、強烈な呪縛力をもっていたのであろう。この像も人の心にしみ入るような凝視と蠱惑をもっている。そして、この手!この手はじつに傑作だと思った。両手共に掌を前にむけて、片方は挙げ片方は垂れ、いかにも人を吸引しながらしかも同時に拒否しているようである。中門の遠望にもこれに似た謎のような感じを味わったけれども。
 この仏像の前に、飛鳥の人はおそれおののいたことであったろう。一光三体の六つの視線に射すくめられて、ひれ伏したことであったろう。かねてから山の霊や木の霊や生や死のもつ呪力はしっていたが、精神が自立して主体となって、このような超人の俤をとってかれらの前に出現したのは、これがはじめてであったろう。
 私にはこの仏像の印象はじつに強烈で、金堂の四天王と共に、暗い神秘主義の絶頂だと思われた。
 ところが写真ではー。この三尊は光線を十分にあてた大きな写真で見ると、いずれも若々しく柔和な微笑をたたえている。古拙で純潔で愛らしい。左右の脇侍は、宝物殿の六観音によく似たあどけない子供の顔をしている。私がじかに見たのとはまったく正反対の表情である。その呪縛は畏怖ではなく、情愛である。見ていて心をとろかすようである。
 どちらがほんとうなのだろう?
 やはり両方がほんとうなのだろう。
 この仏像は二重の表情をもっているにちがいない。
 

2025年4月28日月曜日

20250428 総投稿記事数2330に到達して思ったこと:義務から自然な営みへの変容

 さて、今回の記事投稿により、総投稿記事数が2330に到達します。とはいえ、これもあまりキリの良い値ではなく、来る6月22日の当ブログ開始から丸10年になるまでに、さらに20記事ほど追加して2350まで到達ことを今後の目標とします。また、ここ最近は、どうしたわけか、以前ほど投稿記事数に対する拘りがなくなりました。しかし同時にそれは、必ずしも情熱が冷めたというわけではなく、当ブログ以外でも定期的に文章を作成する機会はあることから、文章作成自体に対する情熱や興味は以前と比べますと、たしかに変容したとは云えますが、しかし減衰したとは云えませんし、こうした停滞やプラトーといった時期も、作成期間には度々あって然るべきであると考えます。そしてまた、それが、当ブログが開始から丸10年に到達する直前とも云える時期であれば、なおさらであると考えます。つまり、ともかくも記事を作成する意志を持ち続けていれば、いつかはまた復調出来ると、これまでの経験は語るのです。とはいえ、作成する意志を持っていると自己暗示をかけているだけではダメであることから、こうして、あまり日付けの間隔を空けないようにして、新規での更新が必要であるのだと思われます…。しかし、そこには以前のような逼迫した感覚はありませんので、やはり私のブログにかける情熱や興味は変化したのだと云えます。くわえて、少し以前に集中的に引用記事を作成していた期間がありましたが、これも、現在考えてみますと、自らの文章を作成するに際しても有意義であったと云えます。さらに、以前より運用を試みている汎用化しつつあるChatGPTは、私の場合、(どうにか)継続している当ブログがあったことから、能動的そして継続的に文章作成に援用することが出来ているのだと云えます。こちらに関しては、関連する新書などを読み参考にしている部分も少しはありますが、それ以外は、ほぼ自らの泥縄式の手探りにて文章作成の援用に用いており、また、おそらく相対的に見れば、その上達の程度も遅いのでしょうが、それでも、慣れないながらも手ごたえを感じつつ、新たな文章作成の手法を体感を通じて学習する感覚は新鮮であり、今後、さまざまな文章の作成に用いることが出来るようになれれば良いと考えています。また、ChatGPTは初版が出てきた当初、2022年11月の頃と比較しますと、現在の最新版は、かなり能力の向上が認められますが、それでも、おそらく、こうした個人の意見や所見などの文章の生成はおそらく困難であり、そして、そうした当初にある文章を作成するのは、今後、ChatGPTの性能が大幅に向上したとしても、やはり当分の間は人間であり続けるのではないかと考えます。そして、その当初にある文章を私が(どうにか)作成することが出来るのは、これまでの経験と、そして当ブログの継続があったからであると考えます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2025年4月25日金曜日

20250424 体調不良と歴史と万葉集から 

  先月3月は紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を北から順に紀ノ川、有田川と書き進め、そして日高川についてを書き進めるなかで、ある疑問が生じ、その疑問を、近くに控えていた和歌山市での勉強会の際に実地検分しようと考え実行しました。しかし、そこでの観察から、さきの疑問への見解は、たしかに、ある程度明瞭になった感はあるのですが、その明瞭化された見解を組み込み、手を着けていた日高川流域の歴史文化のブログ記事をさきに進めることが出来るのかと問われれば、ことはそう上手くは進まず、それまでの寝不足や季節の変わり目ということもあって体調不良(不定愁訴)となり、新たなブログ記事を作成する気力がなかなか湧いて来ませんでした。それでも、ある種類の公開される記事は定期的に作成しており、また、その文章を作成するための題材探しは日常的に行っていたことから、気力は湧かずとも、それは以前によくあった「スランプ」とは性質が異なると云えます。また、ここ最近のことを思い出しますと、先週の木曜日は所用もあり、また散歩も兼ねて、都内をおそらくは10㎞近く徒歩にて移動し、そして、その翌日、金曜日は幾つかの記事で、計6000文字以上の文章は作成したことから、翌日の土曜日は疲れが出て辛かったという記憶があります。そして本日、木曜日も、おそらく5㎞以上は徒歩で移動し、さらに自転車で6㎞ほど走り、くわえて、読み進めている幾つかの著作も、それぞれ有意に進みましたので、それなりに疲労はしているのでしょうが、本日は自然に新たな記事作成に取り掛かることが出来ました。おそらく、今月初旬からの体調不良(不定愁訴)は、徐々に改善されつつあるのかもしれません。しかし、ある程度の年齢になってから、疲労による体調不良になると、回復するまでに掛かる期間がバカにならなくなるのかもしれません…。ともあれ、また復調しましたら、日高川流域の歴史文化についてのブログ記事を、さらに先に進めたいと考えています。

 しかし一方で、日高川流域の歴史文化の資料をあたっていますと、古墳時代末期、万葉集に収録された幾つかの和歌の作者が生きた時代の歴史が想起されてきます。そして、それら和歌の意味と、その作者の後の命運、そしてまた、そのしばらく後の我が国の命運とを併せて考えてみますと、現在の我が国とも通底するものが感じられることもあり、また暗鬱とした気分になります…。そして、その暗鬱とした気分とは、視点を変えてみますと、これまた日高川にまつわる安珍・清姫伝説を一通り理解した後に、おそらくは多くの男性が抱くであろう感情と類似したものであるのではないかと思われました…。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2025年4月23日水曜日

20250422 (株)東京創元社刊 コナン・ドイル著 上野 景福訳『勇将ジェラールの回想』 pp10-13より抜粋

(株)東京創元社刊 コナン・ドイル著 上野 景福訳『勇将ジェラールの回想』
pp10-13より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488511015
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488511012

 さて、みなさん、このわたしにいささか敬意を示してくださるのは、ともかく結構なことだ。わたしの栄誉は、これすなわちフランスならびにみなさん方の名誉にほかならないから。今みなさん方の目の前でオムレツを食べ、酒杯を傾けているのは、半白の口髭をたくわえた老軍人とも言えるが、また歴史の一齣でもあるのだ。まだ若造のうちから歴戦の勇士となり、剃刀を使う前から剣の使い方を知り、百戦のうち、ただの一度も敵に背中を見せたことがない英雄ーその最後の生き残りが、このわたしなのですぞ。20年のあいだ、わが軍はヨーロッパ各国に真の戦闘とは、どんなものか、いやというほど知らしてやった。それがひとわたり終わったとき、わが征露の大軍をよく崩壊させたのは、ひとえに寒暖計の仕業であって、銃剣では決してなかった。ベルリン、ナポリ、ウィーン、マドリッド、リスボン、モスクワーわが軍はこの都市全部に馬を進めた。いやまったくの話、も一度繰り返すが、お子さん方に花束を持たせてお寄こしなさい。この耳はフランス軍のラッパの響を聞き、この目は、再び翻ることがなさそうな国国にフランスの軍旗がはためくのを見たのですぞ。

 今こうして肘掛け椅子にうとうとすると、勇士たちー緑の軍衣の追撃兵、巨人揃いの胸甲騎兵、ポニャトフスキ将軍麾下の鎗騎兵、白いマントの龍騎兵、黒毛皮の高帽がゆらゆら動く擲弾騎兵などが、次から次へと目の前を通り過ぎ、それから太鼓の低い激しい音が轟き、土煙の舞い上がった渦の中を、かついだ刀剣の合間から、丈の高い戦闘帽をかぶった褐色の顔の列が、長い羽毛をなびかせ、揺り動かしているのが見える。次に馬を進めるのは赤毛のネー将軍、それに顎がブルドッグを思わすルフェーブル将軍、さらにガスコニー地方人らしく、ふんぞり返って歩くランヌ将軍、そして綺羅星のような将軍たちと、派手な飾り羽の最中に、ちらと目にとまったのが、あの人物ーほのかに微笑をたたえ、遠くを見るような目付きをした猫背の男。とたんにわたしの微睡は醒めて、椅子から飛び起き、かすれ声を張りあげ、頼りなく手を指しのばす。ティトー夫人よ、過去の幻影の中に住む老人を笑ってください。

 戦争が終わったとき、わたしはれっきとした旅団長で、師団長に昇進するのも間近だった。だが軍人生活の栄光と苦難を物語るのだったら、むしろ若い時分のことに戻ったほうがよさそうだ。ご存じと思うが、配下に多くの部下と軍馬を抱えた将校は、兵員と馬匹の補充から、飼葉の補給、馬丁の面倒、兵舎のことなどに絶えず追いまくられ、敵と対決していない時ですら、毎日の生活が実に厳しいものだ。ところが、やっとこ中尉とか、やりくり大尉といった青年将校時代には、双肩にかかる重さといえば、肩章以外にはなく、拍車をがちゃつかせ、外套をカッコよく靡かせ、酒杯を飲みほし、女に接吻するのも勝手で、頭の中にあることといえば、ただ優雅な生活を楽しむことだけ。思いもかけない冒険を体験をするのは、むしろこの時代なので、これからお聞かせする物語では、この時代のことをしばしば取り上げることになろう。そこで今晩は、わたしが《陰鬱な城》を訪れた顛末と、デュロク少尉の奇妙な使命と、ジャン・カラバンと名乗り、後にストラウベンタール男爵とわかった男の身の毛もよだつ事件をお話ししよう。

 まず知っておいていただきたいのは、1807年2月、といえばダンチッヒ陥落の直後、ルジャンドル少佐とわたしはプロシアから四百頭の軍馬を東部ポーランドへ補給する命令を受けた。

 厳しい気候に加え、エイローの激戦のため、軍馬の損失がはなはだしく、われらが第十軽騎兵連隊は、軽歩兵連隊に変わってしまう恐れがあった。だから少佐と私は、前線では大いに歓迎されることがわかっていた。しかし、われわれは、はかばかしく前進できなかった。それというのも雪が深くつもり、しかも悪路ときていて、おまけに護衛兵としては前線に復帰する病気上がりの兵員が20人いるだけだった。おまけに飼葉が毎日変わり、ときにはまったくやれないときもあるので、これでは並足より早く馬を動かすことは不可能というものだ。物の本などでは、騎兵は疾風のように、狂乱の駆け足で通過と書いてあるのは知っている。しかしわたしは戦闘を交えること12回にして、わが騎兵旅団がいつも並足で行進し、敵の前だけでは速足で駆けるのに、大いに満足するようになった。これは軽騎兵と追撃兵について言っているのだから、胸甲騎兵や龍騎兵にいたっては、さらにこれに輪をかけて当てはまることになる。

 わたしは馬が好きだ。だからあらゆる年齢、色合い、性質の四百頭の馬を配下に持てて、わたしは大満足だった。馬は大部分ポメラニア産だが、ノルマンディやアルザスからのもいて、馬もそれぞれの地方出身の人間の場合と同様に、その性格が違っているのが認められて面白かった。さらに気がついたことは、これはそれ以後もしばしば認められたことだが、馬の性質はその色合いでわかった。気紛れで過敏な神経を持っ、あだっぽい薄い赤褐色から、胆のすわった栗毛まで、そしておとなしい葦毛から、強情な磨墨まで。こんなことはわたしのこれからの話とは、まったく関係はないが、四百頭の馬が最初に出てくるとなると、騎兵将校はどう話を進めていいものやら。私はまず自分の興味をひくものを話題にすることにしている。こうすればみなさんも興味を感じてくださるものと思う。