2017年9月8日金曜日

20170907 ブログ記事を書き続けることにより分かってくること・・外界(自然風土)からの影響:文体の獲得

本日は帰宅時間が若干遅くなってしまい、つい先ほどブログのチェックを行いました。

昨日投稿分のグダグダとした内容の無い投稿記事であってもそれなり(25)に読んで頂いており多少驚かされました。

これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、先日来から新たに読み進めている通史的な著作は、さきに読了した類似系統の著作に比べ、何と云いますか全体的にさらに抽象性が高いと思われることから、まさしく考えつつ読み進めており、また、それはそれで(大変)面白いのですが、他面、やはり小説などと比べてみますと、その読み進めるスピードは顕著に遅くなるようです・・(苦笑)。

もとい、このような遅々とした読書を行っておりますと、時折、自身の根本的な読解能力が劣化したのではないかいう危惧・不安もまた生じ、そこから他の既読の著作をあらためて手に取り読んでみますと、そこでどうにか自身の読解能力は特に低下していないことが認識され、再度、安堵した心持ちにてこの遅々とした読書に戻ることが出来るわけです・・(苦笑)。

あまり自慢できることでもありませんが、これまでに私は(ある程度)さまざなな種類の書籍を読んできたのではないかと考えますが、この読む書籍の分野・種類(の好み)にはかなりの濃淡・偏差があり、たとえば詩集などに関しては、これまでに何度か挑戦したものの、積極的に面白いと感じたことはありませんでした・・。

ただ、漢詩に関しては九州在住の末期に面白そうだと感じるようになりましたが結局それは現在に至るまで芽吹き安定するということはありませんでした・・。

それでも
当時、漢詩を面白そうであると感じることが出来るようになった原因とは、現在になり考えてみますと、一連の当ブログ記事においては(相変わらずの)陳腐な考えではありますが、それは在住地域の自然風土に大きく因るのではないかと考えます・・。

そしてまた、こうしたことは実際に体験・経験をしてみないと実感として分からないのではないかと思うのです・・。

また同時に、ある程度の長さの文章を【継続的に】作成する際に発動する脳・精神の部位とは、同時におそらく外界(自然風土)からの影響をより大きく受ける部位でもあり、また、その視座にて考えてみますと、現在このように(概ね)継続的に作成しているブログ記事とは、さきに書いた外界(自然風土)から生じる文章への影響を出来るだけ最小化しようとする試みであり、さらにそれを換言しますと、如何なる環境においても出来るだけ安定して恒常的に文章作成を行うことが出来るようにする(文体の獲得)鍛錬でもあるとも云い得るのです(笑)。

しかし、これ(ブログ記事作成)を継続することによって単純に恒常的な文章作成を行うことが出来るようになるというわけでもないことがここ最近ボンヤリと分かってきたようにも思われます・・。

しかしながら
、それでも書き続けることが重要であろうことには変わりはないのですが・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。






2017年9月6日水曜日

20170906 記事主題の着想がないままにて記事を書くと・・見通しについて

A「気が付いてみましたら700記事到達の後、40記事近く作成しておりました・・。

そして、この調子にて記事作成を行っていきますと、今月中に750記事に特に無理なく到達することが出来る目算が立ちます。

750記事への到達と考えてみますと、1000記事を目標とした場合、その四分の三に到達したことになりますので、以前667記事到達の際の1000記事を目標とした三分の二への到達よりさらに一歩、一段階進んだことになります・・。

普段、ブログ記事作成の最中は、あまりこうしたことを考えませんが、それでも時折は記事作成前に、これまでに作成した記事を眺めてしばらく考えてみることもあり、そうしますと何かしらさきに書いたような思い、感慨といったものが浮かんでくるようです・・(笑)。

とはいえ、そうした思い、感慨とは、あまり創造的なものではなく、こうした記事の導入部としては悪くないのかもしれませんが、そこから先のの更なる創造的な展開には必ずしも結節し易いというわけではないようです・・(笑)。

それ故、こうした導入部における記述から、次への展開を促すコトバとして『さて、』あるいは『そうえいば、』といったもの(コトバ)が用いられるわけですが、これらのコトバとは一種文法上の徳政令あるいは、それまでの展開をあまり考慮しなくても良いという免罪符的な効果を持ち、自身は文章作成の力量不足のためか、恥ずかしながらこれらを多用している次第です・・(苦笑)。

さて、気が付いてみましたら今月に入り既に五日以上経ちました。

また日中の陽気も先月後半からの本来のこの季節に似つかわしくない冷涼さをそのままに継続し今月に至り、このまま本格的に季節は秋になってしまう様相さえ感じ取れます・・。

そして、ブログ記事に関しては、本格的に冬が訪れる前、年内にどうにか800記事まて到達することが出来れば良いとは考えておりますが、更にその先のブログ記事作成については、漠然と1000記事まで到達したいと考えていますが、今現在の段階では、この1000記事とは、そこまで現実味を持っているわけではありません。

ただ、800記事までに関しては現実的にどうにか到達することが出来るかもしれないとは考えておりますが・・。

普段、特にブログ記事作成の折には、こうしたことを考えることはあまりないものの、何らかの機会にそうしたことを不図考えてみますと、なかなか面白いことに自身のある方面(ブログ記事作成)での目算がどの程度先まで具体的に立てることが出来るかが分かり、これはこれでなかなか面白い感覚であるといえます・・(あくまでも感覚的なことではありますが)。

また、この感覚を具体的なことにたとえてみますと、水面から水中を覗き込み、どの程度の水深まで見通すことが出来るかのかと似ているのではないかと思われます。

しかしながら、こうした思い付き、発想も、特に創造性に基づくというわけでもなく、こうしたブログ記事のつかみ程度には良いのかもしれませんが、更にその先の文章の展開においては寄与するところがあまり大きいとも思われないのです・・。

そのため、本日投稿分のブログ記事においては残念ながら、これといった主張・主旨といったものがないままにて終えるのことになりそうですが、よくよく考えてみますと、これまでほぼ毎日のように作成している一連のブログ記事において、毎回確たる主張・主旨があったとも思われないため、また、昨今より続いているスランプの影響も考慮し、時折はこうした記事であっても差支えないこととします・・。

とはいえ、見方を変えてみますと、こうしたことを主題もないままにて書き連ね、ここまで書き続けることが出来たというのも、自身としては上出来の部類であるのかもしれません・・(笑)。

おそらく(ブログ記事の継続的な作成)以前の自身であれば、こうした状態にあった場合、何も書かなかったのではないかと思われます・・。

今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」











20170905 探求のはじめにある感覚とはどのようなものか・・?

A「昨日投稿分記事の最後に書いた銅鐸に関してですが、その興味への起源を思い返してみますと、それは和歌山県での在住期間であったと云えます。

くわえて、その伏線となった経験とは、祖父母の家があった伊東市に滞在の折、とある用事にて出向いた沼津にて当地の自然が発する大気を(当時の自身は)何やら異様なものとして感じたことであったのではないかとも思われます・・。

とはいえ、自身が、この沼津の自然が発する大気を異様なものとして感じた原因とは今現在になってもよく分かりません・・。

ただ、その時に反応として思ったことは割合明瞭に憶えていて、それは『本当に日本とは私なんかが知らない自然を持つ国なんだ・・』といったことであり、おそらくそのことをどこかで反芻していたがために、その後も結果として割合長く西日本に滞在することになったのではないかとも思われるのです・・。

そして、当地和歌山での在住にて包括的な自然風土にも慣れてきた頃、おそらく6月頃であったと記憶していますが、当地域特有の南方的な強い雨が降る日、勤務を終え帰宅し、翌日が休みということもあり、本箱に入っていた書籍を何冊か代わる代わる手に取り眺めておりますと、一つの書籍(古代史の概説書)に銅鐸の写真と共に『和歌山県**市出土』と記載されており、それが当時在住していた場所と目と鼻の先と評しても良い程に近かったという一種の親近感からか、その銅鐸の写真を眺めておりますと、屋外の雨の音と銅鐸の写真画像が混然一体となったイメージ・イマージュとして刷り込まれていったように思われるのです・・。

無論、こうした経験とは(今現在の科学では)科学的なものとして分類されないと思われますので、あくまでも私見ではあるとして書きますと、それまでツルツルと滑って何処から、どのようにして手をつけて良いか分からないある種の知識体系にたいして挑む最初の効果的な一撃とは、往々にしてこうしたものではないかと思われるのです・・(笑)。

ともあれ、こうしたある種の内的な経験を経ることにより、何やら視界が啓け、さまざまな遺跡、遺物出土地に対して、さながら釣りに行くような心持ちにて出向き、その地で偶然に遭遇した方々に声を掛けて、お話を伺うといったことも出来るようになっていきました・・。

そして、後になり、その地域に関する文献をあたってみますと、大変面白いことに、さまざまなカタチにて当地にて聞いたお話と反映し合っていることが多いのです・・。

こうした感覚とは、おそらく実際に経験してみないと分からないと思われますが、自身の場合、こうした感覚を信じ続けたことによって、いくつかの我が国の古代史に属することをどうにか分かり得たと思いますし、また、それに関連させるカタチにて当地域の雨乞い祭祀もまた、自分なりの認識を得ることが出来たのではないかと思われるのです・・(また、それはあながち間違いでもなく一応学問的な信頼性もあるのではないかとも考えています・・。)

そして、その基層部には自身の場合、(自身が感じた)その地域の『自然風土』といったものがアーチの楔石として存在すると考えるのです・・。

また、それは自身の記憶のなかにある九州においても同様であるのです・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」






2017年9月5日火曜日

20170904 引き続きスランプにて記事作成をしていて思ったこと・・【銅鐸について思い出せないこと】

A「本日の首都圏は日中断続的に雨が降り、そして気温も上がらず九月初旬としては涼しい日であったのではなかと思われます・・。

つい先日割合長めの通史ものの著作を読了しましたが、それに次いで、また新たに長めの通史ものの著作を読み始めた次第ですが、その読み進めるスピードは遅く、あるいは著作を読む間隔のインターバルをもう少し長めにとっておけば良かったのではないかとも今になって思われます・・(苦笑)。

また、以前にもブログ記事に書きましたが、読み進めるのに多少苦労する著作を読んでいる折は、ブログ記事作成などを含めた文章作成ひいては能動的行為全般の活性が鈍化する傾向があると思われるのですが、今現在もまた、そうした例に漏れず時折ボンヤリとしながら、この記事を作成している次第です・・(苦笑)。

とはいえ、これまでのブログ記事作成期間とは、総じてこのような状態であったかというわけでもなく、あまり明瞭な記憶としては残っていませんが、割合熱心に何やら文章を書き連ねることが出来ていた時期・期間もまた、たしかにあったように思われるのです・・。

そして大変面白いことに今現在、まさしくこうしてブログ記事を作成している時とは、過去にどのような感じで自身がブログ記事を書いてきたかとはあまり思い出せないのです。

おそらく視点が過去へ向かっている時とは、他方にある創造的な活動全般があまり活発に為されないのかもしれません・・。

また、そうしたことに視点が向かうと、文章の進みとは顕著に遅くなるのです・・(苦笑)。
(それは決して悪いことであるとは考えませんが・・。)

そのように考えてみますと、これまでに作成した一連の文章とは、(ほぼ)毎日とりあえず、ある程度書いてみて、そして、その書かれた文章が自身の精神・心情あるいは既存一般的な知見(意見ではない)と合致しているかどうかを読み返し検討・加筆訂正することを重ね、繰り返すことにより(どうにか)作成されているといえるのですが、こうした流れが(一応)ある程度確立してきますと、比較的文章が湧いてくる時期であっても、そうでない現在のような時期であっても(その内容が面白いかどうかは別として)何かしらの文章は書き続けることが出来るようです・・。

ちなみに今現在においては自身の作成した文章の面白さなどは、あまり意識的に考えを巡らすようなものではなく、書かれた文章全体の中に後知恵的にわずかに面白い記事が見出すことが出来れば、それで良いのではないかと考えています・・(笑)。(砂金採取と同様の要領)

そういえば、さきほど自身の意識が過去に向いている時とは、文章作成が進まない傾向があると書きましたが、これと多少関連することであるかもしれませんが、大分前に読んだ記憶のある記述が、どの著作に記載されていたかを忘れてしまうことは時折あることであり、今現在も一つあまり大きなことではないのかもしれませんが、そうしたものを抱えているのです・・。

それは和歌山県にて出土した特徴的な形式を持つ銅鐸に関してなのですが、もしも私が記憶しているとおりの書籍での記述であれば、それはこの形式の銅鐸の出土分布から云える傾向が変化するのですが、そのことは和歌山市の太田黒田遺跡から出土した外縁付紐式の銅鐸(当地特有の緑泥片岩製の舌を持つ)が島根県雲南市の我が国これまでの最大個数の銅鐸出土地である加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸四つと同笵(同じ鋳型にて製作)である事実と、私としては同程度に面白いことであるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


参考文献:「銅鐸民族の謎_争乱の弥生時代を読む
      臼田篤伸著
      ISBN-10: 4882029286
      ISBN-13: 978-4882029281











2017年9月3日日曜日

20170903 昨日の続き・・読書の傾向から思ったこと・・

A「休日ということもあってか、昨日投稿分の記事は思いのほか多くの方々に読んで頂けました(47)。

また、この記事においては読了した書籍内容に対しての感想はあまり書かず、主に書籍の種類による読み易さ、およびその効果といったことを書きましたが、本日はこれに対する補足を少し書いてみようと思います。

さて、ある程度学術的な内容の書籍、論文などに関しては比較的明瞭にその書籍が頭脳・感性のうちの頭脳の運動を促すものであると認識することが出来るのでしょう。

一方で、たとえばある程度史実に沿い、時代考証が為された小説・物語の体裁の著作であれば、それは頭脳・感性双方の運動を促すものとなり、そして継続的な読書により、そうした体裁あるいは文体に慣れていきますと、徐々に感性の運動の方が優位となり、それに伴い感性的なものとして作中にて述べられているさまざまな知見・考えなどを吸収・受容することが出来るようになるのではないかと思われます・・
(これは実際に書いてみますと、自身の筆力の不足もさることながらなかなか微妙で伝わり難い感覚であるのかもしれませんが・・)。

私事にて恐縮ですが、自身に関しては、さまざまな歴史小説、物語などの読書を通じて初期の段階における歴史・人文社会科学知識全般を得てきたと云えます・・。

しかし、こうした知識獲得の仕方とは必ずしも(学校教育的に)効率的なものではなく、それ故にか、学校の成績に関しては悪い方ではなかったですが、ずば抜けて良いというわけでもありませんでした・・(無駄なことをよく知っているといった評価が多かったように思います・・(苦笑))。

そうしたことから、このかなり非効率的な自分の勉強(?)方法およびそれを敢えて行ってしまう変に頑固な性格を呪うこともありましたが、その後20代にてさまざまな良い先生方に出会うことを直接的な契機として、こちらの方の才能に関してはどうにか、こうしてある程度の期間、ブログ記事を書き続ける程度までは開花したのではないかとも思われるのです(・・はたしてそれは開花なのであろうか?)(笑)。

いや、何れにしましても、それはさきの先生方からして頂いたことに比べれば、あまり大したことではないといえますが・・(苦笑)。

ともあれ、自身はこのあまり大きな緊張を心身に対して強いらない緩やかな感性方面の経路からの比較的長期間にわたる知識・知見の流入にて、これまでどうにかやってきたのではないかと思われるのです・・。

このことは、特に卑下することもありませんが、一方でもちろん自慢に値するものなどでもありません・・。

単純に自身の元々の性格・性情がそうした方面に進ませ、そしてある程度どうにかなってしまったということになります・・(苦笑)。

しかし、ここに至るまでに失ってきたものもまた少なからずあるようにも思われますので、結局のところそれは、プラス・マイナス差し引きゼロであったのかとは、今現在はよく分からないところです・・(笑)。

とはいえ、今後もまた何かした面白い書籍を見つけ読んでみようと思いますが・・。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


20170902 『銃・病原菌・鉄』上下巻読了・・読書の種類について思ったこと・・

A「本日さきほど先日来より読み進めていた著作を読了しました。

これは上下巻各々400頁程度といった、それなりに読み応えのあるものでしたが、同時に長編文学作品などと比べますと、その読了後の感覚はやはり異なると云えます。

しかし、どこが異なるのかとは今現在上手く言語化出来る自信はありませんが、強いて書いてみますと、それは本日読了した通史的な著作とは、頭脳に対しての負担をより強いるのに対し、感性(情感?)に対しての負担はそこまでないものと云えます。

また、これは、昨日投稿したブログ記事にて書いたことでもありますが、そうした種類の著作(感性よりも頭脳を使わせる)を読んだ直後における能動的な活動に対して抑制的な影響をもたらすのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうした著作の読書が能動的活動に対して徹頭徹尾、抑制的な影響しかもたらさないというわけでもなく、それはおそらく筋肉でいうところの持久力に富む遅筋の発達を促すものであり、特に体力のある若い時期において、こうした種類の著作に数多く触れておくことは、後に続く青年期以降の知的活動全般を励起、活性化するといった効果があるのではないかと思われます・・(とはいえ、それはわざわざ意識して行うことでもないと思われますが・・)。

一方で、どちらかというと読み易い文学作品などに関しては、頭脳よりも感性により働きかけるといった効果をもっているようであり、これは特に日常的に頭脳を使う文章を扱っている方々からすれば、表層的なコトバのお遊び程度の認識であるのかもしれませんが、しかし、こうした言語の用い方の方がおそらく言語それ自体としては古来より正統な用い方であり、そして今後もまたそうであるのです・・。
【ここの視座を掘り返してみるとかなり深いのではないかと思われるのです・・。】

それ故、小説、物語特に古典などをあまり価値のないもの、あるいは科学的ではないと考えている理系学問分野全般の方々は、御自身が能動的な興味を持って読み込むことが出来る一つの著作、一人の著者といったものを書店での立ち読み等を通して見つけ、それを継続していますと、保証は出来かねますが、いずれ少なからぬ確率にて、何かしら面白い(小さくても・新しい)発見をすることが出来るのではないかとも思われます・・。

何れにしましても、こうしたことは行ってみても特段損をすることはありませんので、また、もうじき読書の秋ということもありますので、試みては如何でしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」


2017年9月2日土曜日

20170901 文章作成に対しての読書も持つ意味について・・書籍を読むとは?

A「本日、九月初日の首都圏は未だ『残暑』といっても良いこの時季であるにもかかわらず、いささか早急に秋が訪れたような陽気でした。

さて、先日より読み進めている著作は残り50頁程度となりました。おそらく明日には読了に至るのではないかと思われます。

ともあれ、
久々に通史的な著作を読んでいるためであるのか、昨今、能動的にブログ記事を作成することへの困難さをおぼえるのです・・(苦笑)。

やはり書籍を読む行為、そしてその時期とは主に『受容』の態勢にあると云えますので、それが何かしらブログ記事作成といった能動的な行為に対して影響を及ぼしているとは十分に考え得ることです。

いや、もう少しこのことを【読書とブログ記事作成】考えてみますと、それは精確には自身にとって身近な、慣れ親しんだ、血肉化された言語・著者・分野における書籍の読書であるならば、さきに書いたように読書という行為が本質的に『受容的』なものであるとしても、それとは逆に能動的な(ブログ記事をも含めた)文章作成に対して促進的な役割を果たすことの方が多いのではないかと思われるのです・・。

このあたりには如何なる精神のメカニズムが関与しているのか分かりませんが、何れであれ、これまで一応ブログ記事を作成してきた実感として、以上のようなことが認識し得るのです。

しかし、そのように考えてみますと『では、文章作成行為を励起させる、自身のより基層に近い部分にある(一連の)書籍とは何か?』と考えてみますと、それは端的に『その著作を読むと比較的文章がスムーズに書くことが出来る。』と分類、認識し得るものであり、当然ながらそうした著作とは個人により異なると云えます。

また、そうした著作を未だ見出していない方もいるのではないかと思われます。
【もちろん見出す必要性などまったくないのですが・・(笑)。】

さらに、もちろんそこには表層的な文体の【読書の影響による】真似もいくらかは含まれるのでしょうが、おそらく、そこには無意識にも至るさらに深い何かがあるのではないかと思われるのです・・。

つまり、その程度(無意識にも至る)まで深く読み込んだ書籍があるということが、その反面にある文章作成という能動的な活動に対しても影響を及ぼしているのではないかと思われるのです・・。

そして、書籍の乏しかった時代における読書とは、そうしたものであったのではないかと思われます・・。

また、現代の我々もまた、そうした経験を教育の何処かの段階で経ることは、なかなか重要なことではないかとも思われるのです。

とはいえ、そこで極めて重要であると思うことは、個人にとって、そうした核ともいえる存在となる書籍を選ぶことは、現代の我が国においては、あくまでも個人の裁量に任せられることであり、また、そうした意味においてキリスト教文化圏(特に新教)での信教に必ず付随する『聖書』という(書籍の)存在が極めて意義深いものであることが認識されるのです・・。

一方、我々日本人にはそうした種類の書籍はありません。
(あると主張される方々もいるかもしれませんが、キリスト教文化圏における『聖書』のような存在はないと思われる。)

それ故、もちろん無理強いはしませんが、それに代わり得る書籍(複数でも)を何かしら持つことは、我々先祖の行ってきた伝統的な読書の方法にも適い、少なくとも、文章作成という能動的行為に対しては、あるいは多少の効果を持つのではないかとも思われます・・。
【昨今巷にていわれる『紋切り型社会』とは、おそらくこうした社会での(読書の)傾向がPC・スマホの普及により侵食され、劣化していることを示しているのではないかとも思われます・・。】

他面
、私事になりますと、これまでに書いてきたブログ記事とは、そうした核となる存在が自身にとって何であるのか、あるいはそれ以前に、その核となる存在の有無に対する賭けであるようにも思われるのです。

もちろん、まだ勝負はついていませんが・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復そして、その後の復興を祈念します。」