2025年12月24日水曜日

20251223 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」 pp.56‐59より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」
pp.56‐59より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 一般社会の人間は全部盲目だ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否して、これと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる。だが、この評価は日本の社会にも世界にも通用しない。触れれば、すぐにくずれてしまう。そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。

 しかし、その彼ら(将校)より、さらに不安定な位置にいる人びとがいた。下士官である。最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶対的で救いがたい状態であった。社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。

 日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している。彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない。これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝跪しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた。

 これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある。戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない。しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられるーこれをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。そしてのその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。

「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬した払わず、最低の待遇しかしない。これが一番ひどい扱いだと私は思う。最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。

 だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった。それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表れている。そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れているーというより、今でも全然そのことが念頭にないのである。日本のインテリ特有の一種の鈍感さである。

 下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感ーというより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、このヤロー」。彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた。そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。

 一般社会から実際には無視される。すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる。これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。

 結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。すると「お国のため」と「お国」」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない。同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう。

 こういう状態で生きていれば、結局は一種の根源主義者にならざるを得ない。彼らが何もかも否定し、社会全部を「めしい」考えることによって彼らだけの自己評価に生きるなら、その評価が依拠する根元は「絶対」であらねばならない。ここに「天皇制ラディカル」ともいうべき「国体明徴」問題も起れば、彼らの自己評価のみに基づく行動も起る。

 二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な地位は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうべき「ヤットコ大尉」である。しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。

 

2025年12月16日火曜日

20251215 師匠の講演前夜での予演および駄弁りと、当ブログの備忘録的性質について

 昨日投稿の記事は、これまでブログ記事作成を休止していた反動によるものであるのか、比較的一気呵成に作成することが出来たと云えます。また、ブログ休止中であっても、記事のネタになりそうな現実の出来事はそれなりにありますので、それらについても忘れないように、何処かに書き記しておく必要があると思われます。しかし現在、ブログを休止していますと、当ブログ副題で述べた通りの「主に面白いと思った記述、考えたことを記します。自身の備忘録的な目的もあります。」という一文が、実際にそのままの意味であったことに、改めて気が付かされます。

 つまり、さきのような現実の出来事を、ある程度抽象化して文章にすること自体が、その出来事を忘れないための手段であったことに、今さらながら思い至るのです。

 さて、ここまで文章を作成していて思い出された記憶は、去る12月6日(土)に関与させて頂いた学会に関するものです。こちらの学会は比較的新しい歯科医学分野の学会であり、その学術大会は、今回で第11回目を迎えます。そして、この学術大会では、以前より、歯科理工学分野の師匠を教育講演講師としてお呼び頂いていますが、今回も師匠は新たにネタを仕込み、スライドを作成され、講演前日の夕方には会場近くのホテルに入られていました。
 
 そしてその日、学術大会の用務を終えた私と、診療を終えた都内で開業されている門下の先生(私の兄弟子にあたります)を呼び出し、宿泊先のホテルで、作成したスライドを予演のように我々に聞かせるのです。その後、我々の意見を聞き、それが議論を通じて妥当であると判断されますと、スライドに加筆修正をしたり、画像データを差し替えたりされます。そうした様子を見ていますと、師匠は既に70歳をとうに過ぎているにもかかわらず、他者からの見解を度々求め、ご自身の作成スライドに躊躇なく手を加えることが出来ることに毎回のように感心させられます。

 実際、そのことを師匠に尋ねてみますと、概ね次のように返答されました。

「最近はだいぶ普及してきた云うてもやな、まだまだジルコニアは分かってへんことも多いんや。それでな、一番アカンのは、よう分からンままに、科学的な根拠もない憶測みたいなンが、業界やら学会やらに、割と広う出回ってしもてることや…。
せやからな、この学会で教育講演やらせてもらえるンは、ワシにとってはホンマに有難い機会なんや。
それでや、お前らみたいに気ぃ使わんでエエ連中に、いっぺん作ってきたスライドの内容を聞かせて、その反応を見てな、これはイケる、これはアカン、云うてもろて、それをまたスライドに落とし込む。まあ、そういう作業がな、ワシにとっては結構大事なンや。」

さらに、体力や学会などでの立ち振る舞いについては、次のようにも述べられていました。

「ワシもな、前に比べたら、体力は確実に落ちてきとる。せやけどな、まだ60分や90分くらいの講義や講演やったらイケる。ただな、元の体力が落ちとる分、余計なとこで消耗したくないンや。

学会のパーティ云うたら、エライ先生もようけ来てはるやろ。それに、よう知らん先生にも、それなりに気ぃ使わなアカン。

そんなンするくらいやったらやな、お前らみたいに、気ぃ使わんでエエ連中相手に、いろいろ喋っとる方が、よっぽど楽やし、その分、講演の方にも気持ちがちゃんと向くんや。」

この師匠のスタンスは以前と変わらないものであると云えますが、学会発表であれ、講義や招待講演や教育講演であれ、自らの知見に基づき、科学的に妥当と考えられる見解を、出来るだけ分り易く伝えようとする、その一貫した行為態度には、私自身も多少なりとも学ぶところがあったのではないかとも思われます。あるいは、それが少しでも根付いたからこそ、当ブログは、なんとか10年以上継続することが出来たのではないかとも思われます。

ちなみにこの時、最近刊行された歯科専門雑誌に掲載された師匠の執筆記事について、「お前、読めえ!」と云われ、続いて同席していた先輩からも「俺の記事も読めえ!」と云われました。そこで私は、「分かりました。次の休みに水道橋のシエン社に行って、立ち読みして、面白そうでしたら購入します」と返事をさせて頂きました。そして、去る11日(木)の休日に御茶ノ水駅で下車し、駿河台を下って靖国通りに出て、神保町の古本屋街沿いを九段下方面へ少し歩き、神保町交差点で右折して白山通り沿いに水道橋方面へ進み、JR水道橋駅の高架を過ぎて後楽園方面への交差点を渡る手前で左折すると、マクドナルドやココイチを過ぎた辺りの左手に、歯科系書籍の専門店として界隈では知られているシエン社があります。

そこで、他の歯科系雑誌や書籍をしばし立ち読みした後、件の雑誌を手に取り読んでみますと、やはり面白いと思われましたので、購入させて頂きました。また、購入時に領収書の作成をお願いしたところ、そこからシエン社さまの相談役の方と多少話が盛り上がってしまいましたが、ともあれ、師匠から勧められた書籍は購入し、その後拝読させて頂きました。内容は、師匠が常々述べられている世界規模での歯科医療の様相や、その推移が、材料学あるいは工学的見地から述べられており、特に業界に関与される方々は、興味深く読むことが出来るのものと考えます。

また、ここまで文章を作成していて、さらに思い出されたことがあります。それは、過日、国際関係論や公衆衛生、医療政策分野などに造詣が深い別の先生から、電話口にて自著を勧めて頂いたことです。後日、こちらの著作も購入して拝読させて頂きましたが、これもまた大変興味深い内容が述べられており、いずれ改めて引用記事を作成させて頂く予定です。

このように、ブログ記事のネタとなりそうな現実の出来事は、それなりに生じています。しかし、いざそれらを記述しようとしますと、どうも、この文章のように、何やらゴタゴタした文章になってしまうようです…(苦笑)。後日、改めて加筆修正を行うことになると思われますが、とりあえず、今回はこの辺で区切らせて頂きます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2025年12月15日月曜日

20251214 2400記事への到達後に思ったこと:1万時間の法則から

去る11月にブログ総投稿記事数が目標としていた2400記事に到達し、そこから自作文章での新たなブログ記事はあまり作成しておらず、また、引用記事はいくつか作成しましたが、それらは10記事もありません。他方、文章を作成する機会はコンスタントにあるため作成していますが、当ブログが目標に到達して一旦休止となったためであるのか、その文章作成も以前ほど身が入らなくなってきた感じが少しあります。しかし、それは恒常的な変化ではなく、またしばらく休止期間を設けることにより、以前よりも、より充実して上達した文章作成が出来るようになるのではないかと思われます。この休止期間の中にあっても、人工知能に頼らずに、時々はこうして文章を作成することは、それなりに重要であると思われるため、こうして新たな記事作成を試みています。また、作成を始めてから、ここに至るまで比較的スムーズに出来たことは、自分としては安心を感じますが、一方で、さらに投稿の頻度を上げた方が良いのではないかと危惧する部分もあります。とはいえ、新規での記事作成を行わないことによって生じる、こびり付くような不快感は、過日の2400記事到達により、ありません。そして、このことが到達前後で最も大きく変わったことであると思われます。

また、そのように考えてみますと、当ブログはもう終えて閉じるべきであるのかとも思われるところですが、それと同時に2500記事程度までは、そこまで大きく苦労をすることなく到達出来るようにも思われるのです。それ故、休息期間は今しばらく継続して、具体的には来年の3月末頃までは基本的に休止し、その間も時々は文章の作成自体を忘れないように、このように新規での作成を心掛けたいと考えています。

そういえば、このブログ記事作成の休止期間に、どうしたわけか「1万時間の法則」という言葉を耳にする機会が何度かありました。そこで、その意味をネット検索で調べてみますと、これは単純に「時間を積み重ねれば熟達する」という意味ではないことが分かりました。むしろ、意味のある練習を長期にわたり継続することで技能や思考が一定の水準に達する、という趣旨での経験則であり、「1万時間」という数字も多分に象徴的な値に過ぎません。それよりも、その本質は、長期的な継続を通してしか得られない変化があるという点にあり、これは多くの領域に通底する考え方であるように思われました。

また、当ブログについて考えてみますと、その価値は論文のように投稿先雑誌毎の評価指標により数値化されるわけでもなく、スポーツのように点数や審査員による判断があるわけでもありません。そのため、特定の記事やブログ全体の意味を、どのように位置づければよいのか分からず、曖昧な不安を覚えることもあります。その点で、この「1万時間の法則」は、明確な指標を持たない営みの価値を測るための、ひとつの座標軸になるのではないかと思われました。

とはいえ、文章表現の熟達は「書けば書くほど上達する」といった直線的なものではなく、むしろ長く継続するほどに、自らの未熟さや無知に気付いてしまうといった側面があります。さらに、ある程度継続しますと、ブログ記事の作成といった行為自体の意味を問い直したくなる時期も訪れます。やがて継続の理由も、技術向上や成果の可視化といった外的指標では測定され得ず、むしろ「文章の作成を通して思考が組み換えられ、世界の見え方がわずかに変わっていく」内的な効果に重点が移っていくのではないかと思われるのです。

近現代史や国際関係論や考古学、古代史あるいは民俗学といった分野に触れるたびに、それらは思考の層となり、徐々にこれまでとは異なった景色へと導いてくれます。そして、文章の作成とは、単に知識を扱う技術ではなく、世界を認知する方法そのものを再構築する営みであると云えるのかもしれません。その過程で、これまで所与・自明であった前提や価値観が次第に揺さぶられ、やがて自らの思考そのものが、いつの間にか変化していることに気付かされます…。

長期的に取り組むほど、継続は「上達のため」だけではなく「対象への理解を深めるため」に行われるようになります。文章化することは、対象の構造を理解するための方法であり、思考を透明化する媒体でもあると云えます。文章化することにより曖昧であった概念が言語としての輪郭を持ち、推敲を通じ、さらに明晰化されます。そして、こうした循環を何度も反復することで、意識の奥に沈んでいた思考が徐々に結晶化していくのではないかと考えます。

そして、この視座から「1万時間」を見直してみますと、それは単に熟達の到達点を示す数字ではなく、「ある程度の継続期間が思考をどのように変化させるか」を示す象徴とも見えてきます。長期にわたる継続的活動は、自覚され得る成長を直線的に保証するものではありませんが、同時にそれは、さまざまな質の時間を含み込みつつ、緩徐的に認知の構造を変化させます。それ故、成長を実感できない時期も、不意に新たな、そして明晰な視野が開ける瞬間も、同じ時間の連続線上に位置付けられるものと云えます。時間が精神に及ぼす作用とは、多くの場合、そのように複雑で非線形なものであると云えるでしょう。

ともあれ、そうしたことから、対象が変わらなくても、ある程度の期間をかけて向き合えば、その対象の見方や理解の仕方は変わっていきます。その意味で、文章の作成とは、その過程において認知の癖や偏りに気付き、それを調整する手掛かりが示され、内面での調和を取り戻す行為でもあるとも云えます。そして、その継続とは、こうした自己の再編成が緩やかに進行することであり、あるいはむしろ「1万時間」という区切りを越えてから、より本質的な変化が生じるのかもしれません…。

そうしますと、重要であるのは「1万時間」という数字そのものではなく、その継続した時間の中で何が変わり、何が見えるようになり、世界との関係がどのように変化したかということであると云えます。そこから、文章の作成とは、自らが世界に触れるための営みであり、そして、時間をかけて、その精度を研ぎ澄ませることが、世界に触れ、自らの考えを整える営みと云えるのではないかと思われます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
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ISBN978-4-263-46420-5

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2025年11月29日土曜日

20251128 株式会社新潮社刊 三島由紀夫著「春の雪」pp.91-94より抜粋

株式会社新潮社刊 三島由紀夫著「春の雪」
pp.91-94より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 410105049X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101050492

松枝家の大ぜいの使用人のなかで、こうも無礼なあからさまな飢渇を、目に湛えているのは飯沼一人であった。来客の一人がこの目を見て、

「失礼だが、あの書生さんは、社会主義者ではありませんかね」

と尋ねたとき、侯爵夫人は声を立てて笑った。彼の生い立ちと、日頃の言動と、毎日「お宮様」に参詣を欠かさないことを、よく知っていたからである。

 対話の道を絶たれたこの青年は、毎朝早く必ず「お宮様」に詣でて、ついにこの世で会うことのなかった偉大な先代に、心の中で語りかけるのを常としていた。

 むかしは端的な怒りの訴えであったのが、年を経るにつれて、自分でも限度のわからない厖大な不満、この世をおおいつくすほどの不満の訴えになった。

 朝は誰よりも早く起きる。顔を洗い、口をすすぐ。紺絣の着物と小倉の袴で、お宮様へ向かうのである。

 母屋の裏の女中部屋の前をとおって、檜林の間の道をゆく。霜柱が地面をふくらませ、下駄の朴歯がこれを踏みしだくと、霜のきらめく貞潔な断面があらわれた。檜の茶いろの古葉のまじる乾いた緑の葉のあいだから、冬の朝日が紗のように布かれ、飯沼は吐く息の白さにも、浄化された自分の内部を感じた。小鳥の囀りは希薄な青い朝空から休みなく落ちた。胸もとの素肌を、発止と打ってくる凛烈な寒さのうちに、心をひどく昂らせるものがあって、彼は「どうして若様を伴って来られないのか」と悲しんだ。

 こういう男らしい爽やかな感情をただの一度も清顕に教えることができなかったのは、半ば飯沼の越度であり、清顕をむりやりこの朝の散歩へ連れ出すような力を持つことができなかったのも、半ば飯沼の科であった。6年間のあいだに、彼が清顕につけた「良い習慣」は一つもなかった。

 平らな丘の上にのぼると、林は尽きて、ひろい枯芝と、その中央の玉砂利の参道のはてに、お宮様の祠、石灯籠、御影石の鳥居、石段の下の左右の一対の大砲の弾丸などが、朝日を浴びて整然と見える。早朝のこのあたりには、松枝家の母屋や洋館をめぐる奢侈の匂いとはまったくちがった、簡浄の気があふれている。新しい白木の桝のなかに入ったような心地がする。飯沼が子供のころから美しいもの善いものと教えられたものは、この邸うちでは死の周辺にしかないのである。

 石段をのぼって社前にたったとき、榊の葉の光りを乱して、赤黒い旨を隠見させている小鳥を見た。鳥は柝を打つような声を立てて眼前に翔った。鶲らしかった。

『御先代様』と飯沼はいつものように、合掌しながら、心の中で語りかけた。「何故時代は下って今のようになってしまったのでしょう。何故力と若さと野心と素朴が衰え、このような情けない世になったのでしょう。あなたは人を斬り、人に斬られかけ、あらゆる危険をのりこえて、新しい日本を創り上げ、創成の英雄にふさわしい位にのぼり、あらゆる権力を握った末に、大往生を遂げられました。あなたの生きられたような時代は、どうしたら蘇えるのでしょう。この軟弱な、情けない時代はいつまで続くのでしょう。いや、今はじまったばかりなのでしょうか?人々は金銭と女のことしか考えません。男は男の道を忘れてしまいました。清らかな偉大な英雄と神の時代は、もう二度と来ないのでありましょうか?

 そこかしこにカフエーというものが店開きをして客を呼んでいるこの時代、電車の中で男女学生間の風儀が乱れるので、婦人専用車が出来たというこの時代、人々はもう、全力をつくし全身でぶつかる熱情を失ってしまいました。葉末のような神経をそよがすだけ、婦人のような細い指先を動かすだけです。

 何故でしょう。何故こんな世の中が来たのでしょう。清いものが悉く汚れる世が来たのでしょう。私が仕えている御令孫は、正にこういう弱々しい時代の申し子になられ、私の力も今は及びません。この上は死して私の責を果すべきでしょうか?それとも御先代様は深い御神慮により、ことさらこうなりゆくように、お計らいになっておられるのでしょうか?』

 しかし、寒さも忘れてこの心の対話に熱してきた飯沼の胸もとには、紺絣の襟から胸毛の生えた男くさい胸がのぞき、自分には清らかな心に照応する肉体が与えられていないことを彼は悲しんだ。そして一方、あのような清麗な白い清い肉体の持主の清顕には、男らしいすがすがしい素朴な心が欠けていた。

 飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱してくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒をとり出し、狂気のようにそこらを掃いて廻った。

2025年11月26日水曜日

20251125 株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦」pp.129-132より抜粋

株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦
pp.129-132より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4910364854
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4910364858

中国は大陸からの脅威と海洋からの脅威の両方に備えなければならないという点で、典型的な「両生類(amphibia)」である。大陸国家(land power)としての性格と、海洋国家(sea power)としての性格を、併せ持つ。この特性は、ロシアのような典型的な大陸国家とは、大きく異なっている。しかもインドのようにチベット山脈に守られながら、海洋に突き出た半島部に存在する半島国家とも、異なっている。

 歴史上、かつて「両生類」と言えるが、世界有数の大国となった国があた。1871年統一以降のドイツである。ドイツは、東欧のプロイセン主導でヨーロッパ大陸中央に位置し、東欧その他の大陸各地域に影響力を行使しやすい性格を持っていた。他方、バルト海のみならず北海にも面し、ライン川のような大規模河川も持ち、海洋にも影響を与えうる地理的性質も持つ。実際に、ドイツは、陸軍も海軍も、欧州有数の強力な軍隊とした。ここに「ドイツ問題」、つまり欧州大陸の中央部に最大の人口と国力を持つ大国が生れて従来の勢力均衡政策が通用しなくなってしまった、という問題が生まれた。これによって、19世紀までのバランス・オブ・パワーの仕組みが時代遅れなものになって崩壊し、二度の世界大戦を引き起こした。

 21世紀になってからの中国の超大陸としての台頭は、二度の世界大戦の前の時期のドイツの世界の大国としての台頭を想起させる。21世紀東アジアにおける「ドイツ問題」と言って過言ではない。東アジアにおけるアメリカの存在が、均衡を維持するための方策のカギになるが、急速に拡大する中国の勢力を考えると、均衡維持は簡単ではない。

 ドイツの台頭を伝統的な「バランサー」であったイギリスが受け止めることができなかったように、21世紀の中国の超大国としての存在を、旧来の覇権国であるアメリカも受け止めることができない、と考える者は「トゥキュディデスの罠」を強調して、米中戦争は不可避であるという見方に傾く。「トゥキュディデスの罠」とは、新旧の覇権国の間の相互不信から対立が深まって戦争に発展していく現象のことだ。

 20世紀初頭のドイツと現在の中国が似ているのは、「両生類」の国家が世界有数の大国として台頭した点だ。「両生類」国家は、大陸と海洋の両面で、自国に有利な戦略をとれる優位性を持つ。他方、最大の弱みは、内陸の他の大陸国と、海洋国家との間の挟み撃ちに遭う恐れがある点だ。かつてのドイツの場合には、二度の世界大戦で、大陸国家で、大陸国家ソ連(ロシア)を米英の海洋国家の挟み撃ちにされた。その後、第二次世界大戦後も、海洋と大陸の双方向からの封じ込めによって、大国としてのふっかるの可能性を抑え込まれた。

 これを現在の中国にあてはめると、米ロの大同盟が形成されて、挟み撃ちにされてしまうと、非常に苦しい、という観察が導き出される。米ロの挟み撃ちにされると、どちらにも影響力を拡張できないばかりか、両面からの挟撃に応じて始原を分割していかなければならなくなる。ドイツはこの負担に耐えられず、二度の世界大戦で敗北した。

 かつて15世紀の明朝の時代に、鄭和提督は7回にわたるインドやアフリカにまで至る海外への大遠征を行った。欧州諸国の大航海時代が始まる前に、中国の西太平洋からインド洋にかけての地域における海洋覇権の可能性があったのである。しかし明の皇帝は突然、海外渡航を禁止し、艦隊を廃止した。北方の蛮族の侵入に備えるためであったと推定されている。両面作戦を避け、資源の集中投下を図ったのである。

 この観点から見ると、アメリカとの超大国間の緊張関係の管理を引き受けていかなければならない現在の中国にとって、大陸側の背後に控えるロシアとの良好な関係の維持は、死活的な意味を持つ。関係を損ねたら、アメリカとロシアに挟み撃ちにされる。逆に、もしロシアから攻められる恐れがなければ、資源を太平洋側に面した海洋の防衛にあて、台湾奪回統一もその路線にそって狙っていけばいいことになる。

 中国の軍事費は、2000年に約300億ドルだったが、2024年には約3140億ドルと10倍い所の規模になっている。その過程で、特に高い伸びを見せたのが、中国人民解放軍海軍(PLAN)である。中国海軍は、すでに艦艇数で世界最大と言われる。海軍への予算配分は、2000年代初頭の約10%から、2020年代には約30%に増加したと推定されている。これによって南シナ海や台湾海峡を越えて、インド洋や太平洋に展開することができる能力を整備し、「遠海防衛」戦略を進めている。有事の際の海上封鎖の可能性を排除し、アメリカとの超大国間の競争関係を勝ち抜く意図があると言える。なお中国の陸軍は、2015年に30万人の兵力削減を発表し、約200万人体制となった。予算配分としては、2000年代の約50%から、2020年代には約30%に減少したと推定されている。こちらは大陸側に仮想敵が存在していないという認識を反映した措置だと言ってよいだろう。

2025年11月25日火曜日

20251124 毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える」 pp.116-120より抜粋

毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4620327557
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4620327556

 私が折に触れ読み返している本に、「ベルツの日記」があります。
 この本の中には、お雇い外国人学者として明治9(1876)年から26年間、東京医学校(現・東京大学医学部)で教鞭をとり「日本の近代医学の父」ともいわれたドイツ人医師エルウィン・ベルツが、日本在留25周年記念の祝賀会で来賓と学生を前にして行った次のような演説が収められています。
「わたしの見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。」
「西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、(中略)かれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず、新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果かれらから引き継ぐことで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。」エルウィン・ベルツ著トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳「ベルツの日記 上巻」岩波文庫、1979年)
 ベルツ先生の「(日本では科学の成果を)引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした(科学の)精神を学ぼうとはしない」というこの苦言を、私はたびたび噛みしめています。それは、ベルツ先生がこの言葉を述べた当時から現在まで、日本のこの「病巣」が何の治療も施されないまま放置され、存在し続けているからです。
 明治維新後、それまで西欧から大きく遅れていた日本は、西欧の技術と工業を急いで導入し、生活レベルと軍事力で世界に追いつくために国家をあげて取り組みました。ベルツ先生が嘆いたように、日本は科学の真髄を学び、そこから学問として発展させる余裕も考えもなく、ただひたすら科学技術の成果を追い求めたのでしょう。
 そして、日本人の創意工夫のセンスと、何事にも勤勉に取り組む国民性が、急速な近代化の波に乗って後発国の成功物語を築き、ついには太平洋戦争へとつながっていきました。戦後はスクラップになった国をゼロから立ち上げ、外国の技術導入に取り組み、生来の勤勉さを発揮して高度経済成長を実現しました。
 しかし、こうした日本の成功と失敗の体験は、科学技術を国家観の中に取り込み、政策理念としての基礎を築くことには寄与しませんでした。ベルツ先生のいた明治からずっと、日本は科学の果実だけを追い求めるような国家なのです。
 日本は毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していますが、これは科学投資と研究理念の基盤固めが功を奏したわけではなく、個人的な能力が発揮された結果といえるでしょう。私には、日本人のノーベル賞が国家として科学技術創造立国を築き上げてきた成果の賜物という見方はできません。どちらかといえば、本流ではない方々が受賞しているように思います。
 私達の社会では、教育現場が依然として「理系・文系」と色分けされ、偏差値だけで大学進学の行方を決め、ひいては人生そのものを大きく左右する仕組みをつくってしまいました。
 国民もこれを受け入れたため、長きにわたって高等教育と研究の現場はタテ型に固定されてしまいました。その結果、この仕組みを打破してグローバル時代に適応した社会に再構築することを困難にしています。
 この日本的な「成功物語」で築き上げた科学の伝統を打破し、ベルツ先生が苦言を呈した状況から脱却するための方策を、私はここまでにいくつか提案してきました。
 最後に、「科学リテラシーのある政治家を多数、国会に送らねばならない」とも私は考えています。そして、政党の政策立案の段階から科学技術創造立国を構築する理念を盛り込み、国家の中枢に「ハコもの」ではない真の科学政策司令塔と、それを支える組織を確立するのです。
 「科学リテラシーを持つ政治家」といっても、いわゆる理系教育を受けてきた人を指すわけではありません。理系の人間が文学や芸能に才気を発揮することもあるように、文系の人間でも科学技術への興味とセンスを持っている人は必ずいるはずです。まずは、そうした人材の掘り起こしが急務なのではないでしょうか。

2025年11月24日月曜日

20251123 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.322-325より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.322-325より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504652
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504656

 より包括的な制度と漸進的改革への道をうまく地ならしできた政治改革に共通する要素は何だろうか?北米、19世紀のイングランド、独立後のボツワナで成し遂げられ、結果的に包括的政治制度をかなり強化することにもなったそうした改革に共通するのは、社会のきわめて広範かつ多様な集団への権限委譲に成功したことだ。包括的政治制度の基盤である多元主義に必要ななのは、政治権力が社会に広く行き渡ることであり、狭い範囲のエリートに権力を与える収奪的制度から出発する場合には、権限委譲のプロセスが必要だ。第七章で強調したように、名誉革命はそうしたプロセスのおかげで、あるエリートによる別のエリートの放逐とは一線を画したものとなった。名誉革命の場合、多元主義の出発点は政治革命によるジェームズ二世の排除である。革命を率いた幅広い連合には商人、実業家、ジェントリーばかりか、王権側に与しないイングランドの貴族も多数含まれていた。これまで見てきたように、名誉革命は。それに先立つ幅広い連合の結集と権限委譲のおかげで達成されやすくなった。より重要なのは、名誉革命によって、以前よりもさらに幅広い階層に、さらに権限が委譲されたことだ。とはいえ、その階層が社会全体に比べれば狭かったのは明らかだし、イングランドはその後200年間、真の民主主義からは程遠い状態にあった。北米の植民地で包括的制度の誕生につながった要因も同じようなものだったことは、第一章で見た。ヴァージニア、カロライナ、メリーランド、マサチューセッツに始まり、独立宣言と合衆国における包括的政治制度の統合に至った道筋もまた、社会のより幅広い階層に権限が委譲されていく道筋だった。

 フランス革命もまた、社会のより幅広い階層への権限委譲の一例で、そうした階層がフランスのアンシャンレジーム(旧体制)に向かって立ち上がり、より多元主義的な政治機構への道を開いた。だが、ことに革命の最中に生じたロベスピエールの弾圧的で血なまぐさい恐怖政治を見れば、権限委譲のプロセスには落とし穴があることは明らかだ。それでも結局、ロベスピエールとジャコバン派幹部は排除された。フランス革命が残した最も重要な遺産はギロチンではなく、革命によってフランスやヨーロッパで各地で成し遂げられた大幅な改革だったのである。

 そうした権限委譲の歴史的過程と、1970年代以降、ブラジルに起こったことのあいだには多くの共通点がある。労働者党のルーツの一つは労働組合運動だったが、その最初期から、ルーラのような指導者たちは、党に協力する多数の知識人と野党の政治家とともに幅広い連合をつくることを目指した。そうした動きが、党による地方政府支配の広がりとともに、全国各地の社会運動と融合しはじめ、市民の参加を促し、全土に及ぶ一種の統治革命のきっかけとなった。ブラジルでは、17世紀のイングランドと18世紀初頭のフランスとは対照的に、政治制度を一挙に変える導火線となるような急進革命は起らなかった。それにもかかわらず、サンベルナルドの工場で始まった権限委譲のプロセスが有効だったのは、一つには軍政から民主主義体制への移行のように国政レベルで根本的に政治を変える動きとなったからだ。より重要なのは、ブラジルでは草の根レベルの権限委譲が、民主主義への移行と包括的政治制度への動きの同時進行を可能にし、公共サービス、教育の拡大、真に平等な機会の提供に取り組む政府を誕生させる最大の要因となったことだ。これまで見てきたように、民主主義は多元主義の誕生を保証するわけではない。それに関しては、ブラジルの多元的制度の発展と、ベネズエラの経験の対比が多くを物語る。ベネズエラも1958年から民主主義体制へ移行したものの、草の根レベルの権限の委譲を伴わず、政治権力の多元的な配分も生み出さなかった。その代わり、腐敗政治、利益供与のネットワーク、対立がはびこり、そのせいもあって、選挙の際、有権者はウゴ・チャベスのように独裁者になりそうな候補者でも喜んで支持した。おそらく、ベネズエラで地位を確立しているエリートたちに立ち向えるのは彼だけだと考えたからだろう。その結果、この国はいまだに収奪的制度を脱することができず、一方でブラジルは旧弊を打破できたのだ。