2025年9月4日木曜日

20250903 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.97‐99より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.97‐99より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

三島 伝統の問題があるな。

安部 伝統はよそうや。

三島 安部公房のような伝統否定と、おれのような伝統主義者とが、どういうふうに喧嘩するかということは、面白いよ。

安部 おれも科学的伝統は幾分守っているからな。

三島 でも科学には、前の学説が否定されたら、どうやってやる。

安部 方法だよ。

三島 メトーデの伝統か。

安部 そうそう、事実というものはだね、科学のなかでは非常にもろいものだよね。だから好きなんだ。あおれは、科学は。

三島 日本の伝統は、メトーデが絶対にないことを特色とする。

安部 それが伝統か。困ったな。

三島 それはそうだよ。絶対そう思う。日本では、伝承というものにメトーデが介在しないのだ。それがいちばんの日本の伝統の特徴だよ。たとえば秘伝というものがあるだろう。お能で、秘伝を先生が弟子に譲る場合ね、入門者だって秘伝書を読めばいいようなものの、先生の戸棚から盗んで入門者が読んでも、なんにも解りはしない。それから20年くらいお能を勉強するのだ。そうしないとなんだか知らないけれども、一所懸命口移しに覚えて、30年か40年か50年かたって、なんか曖昧模糊としたことを書いてある巻き物をくれるだろう。月がどうだとか、日輪がどうだとか。それを読むとアッとわかるのだね。わかるそれは秘伝だから、ほかの人には言えない。言ったってほんとうはしようがないのだね。そうしてメトーデがないところで伝承していくのが日本の伝統だよ。

安部 だから日本でスパイ小説が発達しないのだな(笑)。

三島 盗んだってしようがないから、ぜんぜん。

安部 せいぜい忍者で止まったということか。

日本ではよく巻き物を盗んだりするが、盗んでもしょうがないのだ。

安部 嘘なんだな。

三島 嘘なんだ。そうして文学もそうだけれども、舞台芸術、武道なんかに象徴的にあらわれていると思うけれども、伝承という考えは、西洋でも、つまり鍛冶屋に弟子に入って、徒弟時代、遍歴時代、それからマスターになるね。それはメトーデを教わるのだよ。メトーデをだんだんマスターから教わって、マスターピースを作ってマスターになるのだよね。だけどそれは、西洋の歴史はメトーデの伝承の歴史だね。日本はそうではない。秘伝だろう。秘伝というのは、じつは伝という言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるようなものだ。横にずっと流れていくものは、なんにもないのだ。そうして個体というのは、伝承される。至上の観念に到達するための過渡的なものであるというふうに、考えていいのだろうと思う。

 そうするとだね、僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に。しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。

2025年9月3日水曜日

20250902 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.140-144より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.140-144より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

アメリカには、これまで著名な作家がごく少数しか出なかった。偉大な歴史家もいなかったし、詩人もなかった。住民は、いわゆる文学を、一種の不信の眼をもって見る。ヨーロッパには、第三級の町で、毎年、連邦24州を合わせたよりも多い文学作品を刊行するところがある。アメリカ人の精神は普遍的な観念から遠ざかる。理論的な発見には決して向かわない。政治さえも、また産業と同じ傾向にある。合衆国では、立法は絶えず行われるが、法の一般原理を探求する偉大な著作家はいまだない。アメリカ(の人々)には、法律家や解説者はあるが、経世の書を著すものはいない。政治において、世界に例を示すほうが、教えを垂れるよりむしろ多い。機械の技術についても同様である。アメリカでは、ヨーロッパの発明の応用には鋭敏で、それを完全なものにしてのち、自国の必要に見事に適応させる。人々は器用ではあるが、工学の理論を培おうとはしない。よい職人はいるが、発明家は少ない。フルトンは、その天才を長いこと諸外国(人のところ)に売り歩いたのち、はじめて自国に捧げうるようになったのである。

 イギリス系アメリカ人の文明の状態を知りたいと思う人は、この問題を二つの異なった相の下に見ることになる。有識者のみに注目すれば、その少ないのに驚かされ、文盲を数えれば、アメリカの人民は地上で最も開明されているように見える。国民全体はこの両極端の間にある。これは他のところでもすでに述べた。

 ニューイングランドでは、各市民が人間の知識の規範的な諸観念を授けられる。その他、宗教の教えと証しとを学ぶ。祖国の歴史と憲法の要綱も教わる。コネティカットとマサチュセッツとでは、これらを不完全にしか知らないものはごくまれである。全く知らないものがいたら、いわば珍事である。

 ギリシャ、ローマの共和政とアメリカの共和政とを比較すると、前者には(少数の)手書きの本の図書館と無知の人民とがあり、後者には数多くの定期刊行物があり、開明された人民が住んでいる。(とても比較にはならない。)次いで、アメリカを判断するのにギリシャ、ローマの(歴史の)助けをかり、二千年前のことを研究して現代の事態の推移を予見しようと、あらゆる努力がなされているのに思い至る。そうすると、このように新しい社会状態には新しい観念だけが適用されるべきだと考えられて、(古代との比較の空しさを悟って)私は自分の蔵書を焼きたい気になる。

 また、ニューイングランドに関する私の叙述を無差別に連邦全体に及ぼしてはならぬ。西方、南方に進むにつれ、人民の教育は低下する。メキシコ湾に面する諸州では、われわれのところ(フランス)と同様に、初等の知識ももたない人が相当にいる。しかし、合衆国では、全く無学の状態にある地域は探しても見あたらない。その理由は簡単である。ヨーロッパの諸国民は未開と野蛮から出て、文明、開化を志した。その進歩は均等ではなく、あるものは駆け足で、他は、いわば並み足であり、停止しているものもあれば、また途上で眠っているものもある。

 合衆国の状況は全然ちがっている。イギリス系アメリカ人の祖先は文明のすべてに浴して、この地に着いた。もはや何も学ぶものがなく、ただ忘れないようにすればよかった。そして、このアメリカ人の子孫が、年々、荒野に居を移すとともに、既得の知識と学問に対する尊敬の念とをもっていったのである。教育が文明の効用を感じさせ、この文明を子供たちに伝えるようにした。合衆国においては、社会は幼年期をもたず、成年期に生れた。

 アメリカの人々は田舎者という言葉を全く使わない。そんな観念がないからである。未開時代の無知、田園的な簡素さ、村落の質朴さは、彼らの間に全く維持されていない。また、生成途上の文明のもつつよさも、悪さも、粗野な慣習も、素直な優しさも、彼らの頭にはない。

 連合した諸州のきわみ、社会が果て、荒野のはじまるところに大胆な冒険屋がいる。彼らは親のもとにいれば貧困な境涯に甘んじなければならないので、それを逃れるためにアメリカ大陸の孤独な環境に踏み入り、そこに新しい祖国を求めるのをものともしない。住居となるべき地点に着くや否や、開拓者は急いで幾本かの木を伐り倒し、葉陰に丸木小屋を建てる。この人里から離れた住居ほど哀れに見えるものはない。旅行者が夕刻そこに近づくと、板壁を通して、炉の火の輝きが遠くから見える。夜、風が立つと、森の木々の中で木の葉ぶきに屋根がざわめくのが聞こえる。このすばらしいい小屋には野卑と無知とがひそんでいるにちがいない。と思わないものがあろうか(誰でもそう思うであろう)。しかし、開拓者とその住みかとを連関させて(考えて)はならない。周囲はすべて野蛮、未開であるが、彼は18世紀間の労働と経験との成果である。彼は都会の服を着、都会の言葉を話す。過去を知り、未来に好奇の念をもち、現在について議論する。彼は非常に開花された人間であり、ただしばらく身を屈して森の中に住み、また、新世界の広野に、聖書と斧と新聞とをもって、踏み入るのである。

 思想が広野のさなかを流布する信じられないほどの速さを頭に浮べるのは困難である。このような大きな知的運動は、フランスで最も開け人口も最も多い地方にさえ、起こるとは信じられない。

 疑いもなく、合衆国においては、人民の教育が民主的共和制の維持に強く貢献している。精神を啓蒙する知育と、習俗を規制する徳育とを分離しないところでは、どこでもそうであろうと思う。しかしながら、私はこの利点を誇張しようとは少しも思わぬ。まして、ヨーロッパの多数の人々のように、読み書きを教えれば、すぐによい市民がつくれるとは信じえない。真の文明は主として経験から生まれる。アメリカの人々を徐々に自治に慣れさせなかったならば、彼らのもつ、書物から得た知識が、今日その自治の成功に大きな助けとなることは決してなかったであろう。

2025年8月31日日曜日

20250831 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」pp.102-104より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」pp.102-104より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

 あなたはアルゴリズムにつきまとう問題の数々を並べ立て、人はけっしてアルゴリズムを信頼するようにはならないと結論するかもしれない。だがそれは、民主主義の欠点をすべてあげつらって、正気の人ならそのような制度はけっして選択しないだろうと結論するようなものだ。有名な話だが、ウィンストン・チャーチルは次のように言っている。民主主義はこの世で最悪の政治制度だーただし。他のすべての政治制度を除けば、と。是非はともかく、人々はビッグデータアルゴリズムについても同じ結論に到達するかもしれない。多くの障害を抱えてはいるものの、それよりましな選択肢はない、と。 

 人間の意思決定の仕方について科学者が理解を深めるにつれ、アルゴリズムに頼りたいという誘惑も強まりそうだ。人間の意思決定をハッキングすれば、ビッグデータアルゴリズムの信頼性が高まるばかりでなく、同時に、人間の感情の信頼性が落ちるだろう。政府や企業が人間のオペレーティングシステムをハッキングすることに成功すれば、私たちは精密誘導の操作や広告やプロパガンダの集中砲火を浴びることになる。私たちの意見や情動を操作するのがあまりに簡単になりかねない。その場合、私たちはアルゴリズムに頼ることを余儀なくされる。めまいに襲われたパイロットが自分の感覚が告げるメッセージを無視して、機械装置を全面的に信頼しなければならないのと同じことだ。

 一部の国や一部の状況では、人々はまったく選択肢を与えられず、ビッグデータアルゴリズムの決定に従うことを強制されかねない。とはいえ、自由社会とされている場所でさえも、アルゴリズムが権限を増すかもしれない。私たちはしだいに多くの事柄でアルゴリズムを信頼したほうがいいことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。考えてもみてほしい。わずか20年のうちに、何十億もの人が的確で信用できる情報を探すという、非常に重要な任務をグーグルの検索アルゴリズムに委ねるようになった。私たちはもう、情報を探さない。代わりに、「ググる(Googleで検索する)」。そして、答えを求めてしだいにグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そして今日、「真実」はグーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。

 同じことが、目的地までの移動のような身体能力にも起こっている。人々はグーグルを頼りに動き回る。交差点に差しかかると、直感は「左に曲がれ」と告げているのに、グーグルマップは「右に曲がれ」と言う。最初は自分の直感に従って左に曲がり、交通渋滞に巻き込まれ、重要な会議に出席しそこなう。次のときにはグーグルの言うことを聞いて右に曲がり、時間どおりに到着する。こうして、経験からグーグルを信頼することを学ぶ。一、二年のうちに、グーグルマップが言うことなら何にでも、ろくに考えもせずに従うようになり、スマートフォンが故障したら、完全にお手上げとなる。

 2012年3月、オーストラリアで沖の小島に日帰り旅行に出ることにした日本人観光客が、干潮の太平洋に車で突っ込んだ。運転していた21歳の野田ゆずは後に、GPSの指示に従っただけだと述べている。「車で行き着けるとのことでした。道路に導いてくれると繰り返すばかり。そのうち動けなくなってしまいました」。同様の事故は他にもあり、どうやらGPSの指示に従っていて車を湖に乗り入れたり、取り壊し中の橋から落ちたりということが起こっているらしい。目的地まで無事に行き着く能力は筋肉のようなもので、使わないと失われる。配偶者や職業を選ぶ能力にも同じことが当てはまる。

20250830 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.97-100より抜粋

春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.97-100より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861100585
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861100581

 枕詞は今では原義が不明になってしまっていることから、たんなる形容詞や形容句と思われているものも少なくないが、その背後をたどっていくと実体に突きあたる。

「万葉集」巻三には、柿本野人麻呂の旅の歌が八首まとめて載せてある。その一つに有名な、

ともしびの明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(二五四)

がある。「ともしび」が明石の枕詞であり、明石が地名であるのはいうまでもないが、では明石という地名の由来は何かというと、手許にある数種類の「万葉集」の注釈書では穿鑿されていない。そこで歴史地理学者・吉田東伍の「大日本地名辞書」を開いてみると、明石の名は付近の海中に赤い石がとれ、それが硯の材料に最適であることから起った、という説のあることを記している。また古書の中には、「赤石」または「明」という字を当ててアカシと訓ませたものもあるそうである。

 しかし私には、明石の名が赤石にもとづくとは思われない。明石市と淡路島の淡路町の間は明石海峡と呼ばれるせまい瀬戸になっている。私は淡路町の岩屋にある海ぞいの旅館で半日ばかり海を見てすこしたことがあるが、その間中、東に西に往き交う船舶のとぎれることがなかった。万葉時代にも、いやそれ以前から、そこが海の重要な交通路であったことはまぎれもない。西国からやってきて「明石大門」を通り越し、はじめて異郷を脱したという感慨を持つ旅人は多かったと思われる。さきの歌につづく人麻呂の歌、

天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(二五五)

という歌には、自分たちの住む国にやっと足を踏み入れるという安堵感がにじみ出ている。この「大和島」というのを畿内というように広域に解する必要はない。秋から冬の晴れた日には、明石から葛城山脈を遠望できると地元の人に聞いた。

 この重要な海峡では、船の航行を安全ならしめるために、目印として火が焚かれていたにちがいない。そして、その火をアカシと呼んだと思われる。松の根を切って燃やした灯火を「アカシ」と呼ぶ地方は、今日でも山梨、飛騨、大隅から南島までひろがっている(東條操『全国方言辞典』)。また、松の根を細かく引き裂き、灯火用に焚くときの台をヒデバチと呼んでいるところが各地にある。松明をタイマツと称するのも、松の根を焚いたからである。

 こうしてみると、明石という地方は、地中から赤い硯石の材料が出るからではなく、松の根を焚いて航行する船の目印の灯明としたことに由来するのではないか。とすれば、「ともしび」という枕詞と明石という地名が無理なくつながる。

 今日の灯台は、明治以前には灯明台と呼ばれていた。すなわち、神社に奉献された灯明台がその役割を果たしてきたのである。明石市の住吉神社もその一つであった。有明海に突きだした宇土半島北側の海岸にある熊本県宇土市住吉町には住吉神社が祀られている。神社の境内には、肥後藩主細川宣紀の寄進した高灯籠があり、ながく灯台として用いられた。現在の住吉灯台の前身にあたるものであった。

 烽火の制は、天智帝の時代から始まっている。したがって、万葉時代に海の要衝である明石の瀬戸に松の根を焚いて船舶の航行をたすける「ともしび」の設備があったと推測するのはいっこうに不自然ではない。

2025年8月30日土曜日

20250829 株式会社世界文化社刊 白洲正子著「風姿抄」 pp.38-40より抜粋

株式会社世界文化社刊 白洲正子著「風姿抄」
pp.38-40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 441809511X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4418095117

 彼(秦秀雄)は、井伏鱒二氏の「珍品堂主人」のモデルになった人で、珍品を見出すだけでなく、彼自身珍品である。別にそういったものを目指しているわけではない。人が見のがしたものの中に、安くて美しいものを発見する。落穂拾いの名人だ。世間一般の常識的な鑑賞ではなく、非常に個性的な物の見方をする。しぜん面白いものが集まって来るわけだが、時にはまったく他人に通用しない「珍品」に惚れこみ、長々とおのろけを聞かされることもある。

 いつか鎌倉時代の根来の盆を買って来た。たしかに時代はあるに違いないが、荒れはてていて、すだれのようなすき間があり、根来とは名ばかりである。だが、秦さんは夢中になっていた。「裏を観てごらんなさい、建長元年と書いてあるでしょう」

 だが、そこにはかすかに朱色が残っているだけで、建とも長とも読めはしない。好きなあまりに執念が、ありもしない字まで読ませてしまうのだ。そういう所が、まことに面白い。 大体、ものに惚れこまないような人に、骨董はわからないもので、それは欠点というより、むしろ美点と呼ぶべきであろう。贋物をつかむことも、あえて辞さない。贋物も買う勇気がない奴に、何で骨董がわかるか、という気概を持っている。真贋の問題は、とても奥深いのでここではふれないが、それは悪女にひっかかるような体験で、悪女ほど女の正体がつかめるものはないのである。

 とかくそういう人は誤解を受けやすく、秦さんも風評の多い人物だが、私みたいなぽっと出が、長い間つきあえるのも、しんは善人だからに違いない。そういったら、彼はがっかりするだろう。彼は自ら悪人をもって任じ、親鸞上人に帰依しているが、私に関するかぎり、いつも親切なおじさんだった。特に近頃は、年をとったせいもあって、秦さんには申しわけないけれども好々爺じみて来た。もっとも、人間は複雑怪奇なものだから、他の人がどう思うか、それは私の知ったことではない。少なくとも私は、こんな友達を持って、珍品を授けてくれるのを、有難いことに思っている。

 私は美術品が、夢にもわかるとは思っていないが、自分が好きなものだけは、はっきりしている。それを知るために、何十年もかかったといっていい。客観的に鑑賞するすべも、心得ていないわけではないが、それは別の世界の出来事で、どんなに立派な国宝でも、自分の性に合わなければ、単に「結構なもの」として頭のすみっこで認識するにすぎない。世の中には、「結構な人間」も大勢いて、尊敬はするが親しみが持てないのと一般である。それだけを知るために、何十年もかかったとは、何という愚かなことか。だが、骨董とは、そういうものであるらしい。

 骨董屋はよく物を買うのは真剣勝負だというが、場所が違うだけで、素人にとってもそれは同じことだろう。もしこの茶碗がいけなければ、私が駄目だということだ。うっかり編集者さんの口車に乗せられて、こんな原稿を引き受けてしまったことを、私は後悔している。それは裸の自分を見ることに他ならず、恐ろしくもあり、恥ずかしくもある。

2025年8月29日金曜日

20250828 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.130-132より抜粋 

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.130-132より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 お金や神のような共同主観的現実が、人々の頭の外の物理的な現実に影響を与えることができるのとちょうど同じで、コンピューター間現実もコンピューターの外の現実に影響を与えることができる。2016年には「ポケモンGO」というゲームが世界中で大人気になり、年末までに何億回もダウンロードされた。「ポケモンGO」は拡張現実のモバイルゲームだ。プレイヤーは自分のスマートフォンを使って、「ポケモン」と呼ばれるバーチャルな生き物を見つけたり、それと戦ったり、それを捕まえたりすることができる。ポケモンは、物理的な世界の中に存在しているように見える。私は一度、甥のマタンとポケモンハントに出掛けたことがある。彼の家の近所を歩いていても、私には家や木、岩、自動車、人、ネコ、イヌ、ハトなどしか見えなかった。ポケモンは目に入らなかった。スマートフォンを持っていなかったからだ。だが、自分のスマートフォンのレンズを通してあたりを見回しているマタンには、岩の上に立っているポケモンや木の陰に隠れているポケモンが「見えた」。

 私にはそれらのポケモンは見えなかったが、彼らはマタンのスマートフォンの中に閉じ込められているわけではないことは明らかだった。他の人々にも、それらのポケモンが「見えた」からだ。たとえば、同じポケモンを捕まえようとしている他の子供にも二人出会った。もしマタンがポケモンをうまく捕まえれば、他の子供たちもたちまち何が起こったかを目にすることができた。ポケモンは、コンピューター間現実の存在だったのだ。それらは、物理的な世界に原子として存在するのではなく、コンピューターネットワークの中にビットとして存在していたが、それでも言ってみれば、さまざまな形で物理的な世界とかかわり合い、その世界に影響を与えることができた。

 さて、今度はコンピューター間現実のもっと重大な例を考察しよう。グーグル検索でウェブサイトが与えられる順位について考えてほしい。グーグルでニュースや飛行機のチケット、お薦めのレストランなどを検索すると、あるウェブサイトがグーグルの最初のページのいちばん上に登場する一方、50ページ目の中ほどに追いやられているウェブサイトもある。このグーグルの順位とはいったい何なのか?そして、どうやって決まるのか?グーグルのアルゴリズムは、そのウェブサイトをどれだけの人が訪れるかや、どうやって決まるのか?グーグルのアルゴリズムは、そのウェブサイトをどれだけの人が訪れるかや、他のウェブサイトがどれだけ多くそのサイトにリンクしているかといった、多種多様な要因にポイントを割り振って順位を決める。順位そのものはコンピューター間現実であり、何十億台ものコンピューターをつないでいるネットワーク、すなわちインターネットの中に存在する。ポケモンと同じで、このコンピューター間現実も物理的な世界へとあふれ出てくる。報道機関や旅行代理店やレストランにとって、自分のウェブサイトがグーグルの最初のページのいちばん上に表示されるか、それとも50ページ目の中ほどに表示されるかは死活問題だ。

 グーグルの順位はじつに重要なので、人々はあの手この手を使ってグーグルのアルゴリズムを操作し、自分のウェブサイトの順位を上げようとする。たとえば、ボットを使ってウェブサイトへのトラフィックを増やすかもしれない。これはソーシャルメディアでもありふれた現象であり、調整されたボットの大軍団がユーチューブやフェイスブックやX(旧ツイッター)のアルゴリズムを絶えず操作している。もしもある投稿記事が爆発的に拡散したら、それは人間が本当に興味を持ったからなのか、それとも、何千ものボットがXのアルゴリズムをまんまと騙したからなのか?

 ポケモンやグーグルの順位のようなコンピューター間現実は、人間が神殿や都市に持たせる神聖さのような共同主観的現実と似ている。

2025年8月27日水曜日

20250826 紀州・和歌山人の性質について

 紀州・和歌山は温暖な気候や豊かな自然に包まれながらも、そこに住む人々の多くは、ある種の熱情、反骨精神、そして大胆な行動力を内に秘めている。彼らは、その海洋民らしい進取の気性と冒険心(射幸心も含む)と行動力によって、しばしば既存の枠組みを逸脱し、反抗することで新たな世界を切り拓いて来た。そして、その果敢とも云える地域の人々の精神的傾向は、政治家や外交官としても、商人としても、研究者としても、あるいは軍人としても、さまざまなカタチで卓越性を示してきたと云える。

 以下、私見となるが、こうした紀州・和歌山の人々の精神的傾向の原型は古代にまで遡る。五世紀代、ヤマト王権の朝鮮半島における軍事行動で派遣軍の司令官であった紀州の豪族・紀大磐(生磐とも)は、その職分を逸脱し、自ら三韓の王になろうとしたと伝えられる。こうした行動は、現代から見れば「反乱」となるが、さきの地域性の視座から見れば、単に野心や野望に基づくものだけではなく、紀州人が持つ逸脱や反抗の気質を歴史に刻印したものだと云うことが出来る。

 この紀州人の精神的な傾向は、千年以上を隔てて維新回天期や明治初期にも姿を現した。紀州藩を出自とする岡本柳之助は、新政府に抵抗する幕臣等によって構成された彰義隊に参加し、維新後は謹慎の後、明治政府陸軍に出仕して西南戦争では九州各地を転戦、活躍し、その軍事的才能を示した。しかしその後、竹橋事件での反政府的行動を指弾され官職追放となり、やがて福澤諭吉を介して当時の朝鮮独立運動指導者等と懇意になり、朝鮮の内政改革のために軍事顧問となった。さらに、辛亥革命に際しては清国に渡って活動し、上海にて客死した。その一様とは云えない生涯からは、安穏を拒み、既成の秩序から逸脱して反抗するという、古来からの紀州人の精神的傾向が看取出来る。

 同じく、紀州藩を出自とする陸奥宗光(伊達陽之助)もまた、この紀州人的性質を体現した人物と云える。陸奥は、若い頃に脱藩し、維新回天期には坂本龍馬と共に活動し、維新後は政治家・外交官として手腕を発揮し、我が国の近代化に貢献した。外務大臣としては、各国との不平等条約改正に尽力し、より対等な関係を築くために努力した。そしてまた、近代日本最初の本格的な対外戦争である日清戦争に際しては、危ない局面もありながら、当時、東洋に植民地を持っていた西洋列強諸国を大きく刺激することなく、我が国を戦勝へ導くことに貢献した。

 とはいえ、陸奥宗光の生涯には挫折も葛藤も少なからずあったと云える。そして、その紆余曲折の人生経路の背後からは、紀州人らしい強い自我と進取の気性、既存の秩序に挑む姿勢が看取出来る。それが結果として、我が国の近代外交史に確かな足跡を残したのだと云える。

 このように紀州人的性質としての「越境・逸脱・反抗」の精神は、それは単なる反発ではなく、社会の停滞を打破し、新たな創造や建設へとつながる原動力であったとも云える。古代から近現代にかけての岡本柳之助や陸奥宗光、それに続く多くの紀州・和歌山を出自とする優れた人々は、この精神を内面的な構え(ハビトゥス)として半ば無意識的に受け継いできたのではないかと思われる。

 そしてそれは、偶発的な活動として収斂されるものではなく、紀州・和歌山の自然風土と文化に根ざした地域の人々の性質であると云える。越境と逸脱から生じる新たな諸様相は、時代ごとに異なる意匠を装いつつも、その奥には、現在に至っては著しく衰弱しているが、なおも変わらぬ、さきの内面的な構え(ハビトゥス)が残されているのではないかと考える。その視座から「失われた30年」の我が国の衰退ぶりを検討してみるのも興味深いのではないかと思われる。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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