中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.140-144より抜粋
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
アメリカには、これまで著名な作家がごく少数しか出なかった。偉大な歴史家もいなかったし、詩人もなかった。住民は、いわゆる文学を、一種の不信の眼をもって見る。ヨーロッパには、第三級の町で、毎年、連邦24州を合わせたよりも多い文学作品を刊行するところがある。アメリカ人の精神は普遍的な観念から遠ざかる。理論的な発見には決して向かわない。政治さえも、また産業と同じ傾向にある。合衆国では、立法は絶えず行われるが、法の一般原理を探求する偉大な著作家はいまだない。アメリカ(の人々)には、法律家や解説者はあるが、経世の書を著すものはいない。政治において、世界に例を示すほうが、教えを垂れるよりむしろ多い。機械の技術についても同様である。アメリカでは、ヨーロッパの発明の応用には鋭敏で、それを完全なものにしてのち、自国の必要に見事に適応させる。人々は器用ではあるが、工学の理論を培おうとはしない。よい職人はいるが、発明家は少ない。フルトンは、その天才を長いこと諸外国(人のところ)に売り歩いたのち、はじめて自国に捧げうるようになったのである。
イギリス系アメリカ人の文明の状態を知りたいと思う人は、この問題を二つの異なった相の下に見ることになる。有識者のみに注目すれば、その少ないのに驚かされ、文盲を数えれば、アメリカの人民は地上で最も開明されているように見える。国民全体はこの両極端の間にある。これは他のところでもすでに述べた。
ニューイングランドでは、各市民が人間の知識の規範的な諸観念を授けられる。その他、宗教の教えと証しとを学ぶ。祖国の歴史と憲法の要綱も教わる。コネティカットとマサチュセッツとでは、これらを不完全にしか知らないものはごくまれである。全く知らないものがいたら、いわば珍事である。
ギリシャ、ローマの共和政とアメリカの共和政とを比較すると、前者には(少数の)手書きの本の図書館と無知の人民とがあり、後者には数多くの定期刊行物があり、開明された人民が住んでいる。(とても比較にはならない。)次いで、アメリカを判断するのにギリシャ、ローマの(歴史の)助けをかり、二千年前のことを研究して現代の事態の推移を予見しようと、あらゆる努力がなされているのに思い至る。そうすると、このように新しい社会状態には新しい観念だけが適用されるべきだと考えられて、(古代との比較の空しさを悟って)私は自分の蔵書を焼きたい気になる。
また、ニューイングランドに関する私の叙述を無差別に連邦全体に及ぼしてはならぬ。西方、南方に進むにつれ、人民の教育は低下する。メキシコ湾に面する諸州では、われわれのところ(フランス)と同様に、初等の知識ももたない人が相当にいる。しかし、合衆国では、全く無学の状態にある地域は探しても見あたらない。その理由は簡単である。ヨーロッパの諸国民は未開と野蛮から出て、文明、開化を志した。その進歩は均等ではなく、あるものは駆け足で、他は、いわば並み足であり、停止しているものもあれば、また途上で眠っているものもある。
合衆国の状況は全然ちがっている。イギリス系アメリカ人の祖先は文明のすべてに浴して、この地に着いた。もはや何も学ぶものがなく、ただ忘れないようにすればよかった。そして、このアメリカ人の子孫が、年々、荒野に居を移すとともに、既得の知識と学問に対する尊敬の念とをもっていったのである。教育が文明の効用を感じさせ、この文明を子供たちに伝えるようにした。合衆国においては、社会は幼年期をもたず、成年期に生れた。
アメリカの人々は田舎者という言葉を全く使わない。そんな観念がないからである。未開時代の無知、田園的な簡素さ、村落の質朴さは、彼らの間に全く維持されていない。また、生成途上の文明のもつつよさも、悪さも、粗野な慣習も、素直な優しさも、彼らの頭にはない。
連合した諸州のきわみ、社会が果て、荒野のはじまるところに大胆な冒険屋がいる。彼らは親のもとにいれば貧困な境涯に甘んじなければならないので、それを逃れるためにアメリカ大陸の孤独な環境に踏み入り、そこに新しい祖国を求めるのをものともしない。住居となるべき地点に着くや否や、開拓者は急いで幾本かの木を伐り倒し、葉陰に丸木小屋を建てる。この人里から離れた住居ほど哀れに見えるものはない。旅行者が夕刻そこに近づくと、板壁を通して、炉の火の輝きが遠くから見える。夜、風が立つと、森の木々の中で木の葉ぶきに屋根がざわめくのが聞こえる。このすばらしいい小屋には野卑と無知とがひそんでいるにちがいない。と思わないものがあろうか(誰でもそう思うであろう)。しかし、開拓者とその住みかとを連関させて(考えて)はならない。周囲はすべて野蛮、未開であるが、彼は18世紀間の労働と経験との成果である。彼は都会の服を着、都会の言葉を話す。過去を知り、未来に好奇の念をもち、現在について議論する。彼は非常に開花された人間であり、ただしばらく身を屈して森の中に住み、また、新世界の広野に、聖書と斧と新聞とをもって、踏み入るのである。
思想が広野のさなかを流布する信じられないほどの速さを頭に浮べるのは困難である。このような大きな知的運動は、フランスで最も開け人口も最も多い地方にさえ、起こるとは信じられない。
疑いもなく、合衆国においては、人民の教育が民主的共和制の維持に強く貢献している。精神を啓蒙する知育と、習俗を規制する徳育とを分離しないところでは、どこでもそうであろうと思う。しかしながら、私はこの利点を誇張しようとは少しも思わぬ。まして、ヨーロッパの多数の人々のように、読み書きを教えれば、すぐによい市民がつくれるとは信じえない。真の文明は主として経験から生まれる。アメリカの人々を徐々に自治に慣れさせなかったならば、彼らのもつ、書物から得た知識が、今日その自治の成功に大きな助けとなることは決してなかったであろう。
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