春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.97-100より抜粋
ISBN-10 : 4861100585
ISBN-13 : 978-4861100581
枕詞は今では原義が不明になってしまっていることから、たんなる形容詞や形容句と思われているものも少なくないが、その背後をたどっていくと実体に突きあたる。
「万葉集」巻三には、柿本野人麻呂の旅の歌が八首まとめて載せてある。その一つに有名な、
ともしびの明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず(二五四)
がある。「ともしび」が明石の枕詞であり、明石が地名であるのはいうまでもないが、では明石という地名の由来は何かというと、手許にある数種類の「万葉集」の注釈書では穿鑿されていない。そこで歴史地理学者・吉田東伍の「大日本地名辞書」を開いてみると、明石の名は付近の海中に赤い石がとれ、それが硯の材料に最適であることから起った、という説のあることを記している。また古書の中には、「赤石」または「明」という字を当ててアカシと訓ませたものもあるそうである。
しかし私には、明石の名が赤石にもとづくとは思われない。明石市と淡路島の淡路町の間は明石海峡と呼ばれるせまい瀬戸になっている。私は淡路町の岩屋にある海ぞいの旅館で半日ばかり海を見てすこしたことがあるが、その間中、東に西に往き交う船舶のとぎれることがなかった。万葉時代にも、いやそれ以前から、そこが海の重要な交通路であったことはまぎれもない。西国からやってきて「明石大門」を通り越し、はじめて異郷を脱したという感慨を持つ旅人は多かったと思われる。さきの歌につづく人麻呂の歌、
天ざかる夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(二五五)
という歌には、自分たちの住む国にやっと足を踏み入れるという安堵感がにじみ出ている。この「大和島」というのを畿内というように広域に解する必要はない。秋から冬の晴れた日には、明石から葛城山脈を遠望できると地元の人に聞いた。
この重要な海峡では、船の航行を安全ならしめるために、目印として火が焚かれていたにちがいない。そして、その火をアカシと呼んだと思われる。松の根を切って燃やした灯火を「アカシ」と呼ぶ地方は、今日でも山梨、飛騨、大隅から南島までひろがっている(東條操『全国方言辞典』)。また、松の根を細かく引き裂き、灯火用に焚くときの台をヒデバチと呼んでいるところが各地にある。松明をタイマツと称するのも、松の根を焚いたからである。
こうしてみると、明石という地方は、地中から赤い硯石の材料が出るからではなく、松の根を焚いて航行する船の目印の灯明としたことに由来するのではないか。とすれば、「ともしび」という枕詞と明石という地名が無理なくつながる。
今日の灯台は、明治以前には灯明台と呼ばれていた。すなわち、神社に奉献された灯明台がその役割を果たしてきたのである。明石市の住吉神社もその一つであった。有明海に突きだした宇土半島北側の海岸にある熊本県宇土市住吉町には住吉神社が祀られている。神社の境内には、肥後藩主細川宣紀の寄進した高灯籠があり、ながく灯台として用いられた。現在の住吉灯台の前身にあたるものであった。
烽火の制は、天智帝の時代から始まっている。したがって、万葉時代に海の要衝である明石の瀬戸に松の根を焚いて船舶の航行をたすける「ともしび」の設備があったと推測するのはいっこうに不自然ではない。
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