2026年7月2日木曜日

20260702 株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」 pp.72-76より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.72-76より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4044007632
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044007638

九州から畿内へ、そして関東へ
 古墳の出現、すなわち弥生時代から古墳時代への移行にかならずつきまとうもうひとつの問題は、日本列島社会の空間構造の激変が、そこで生じているということである。すなわち、弥生時代の、少なくともある段階までは、九州北部に文化的な先進性と政治的な中心性があったのに対し、古墳時代は畿内を核とする時代へと変わったということだ。九州から畿内へという中心の移動がいつ、どのように生じたのかという問題は、邪馬台国の所在論や、神話の歴史学的評価と、きわめて密接に関連している。
 この、社会の中心が西から東へ移っていくという動きは、農耕社会成立以降三〇〇〇年の日本列島史の底流をなすメカニズムだった。弥生時代には九州北部にあった中心が、古墳時代に移り変わるころに畿内へと移動し、畿内を政治と文化の中心とする社会のかたちは、少なくとも平安時代までは続いた。その後の鎌倉時代と室町時代とは、いずれに比重を置くかは見方しだいのところはあるが、畿内と関東という、社会的役割を異にする二つの中心をもった時代だったといえる。これが、戦国から安土桃山にいたる動乱期をへて近世の江戸時代になると、中心としての関東の比重がかなり明確になる。ただし、経済や文化の限られた局面で畿内の中心性がまったくなくなったわけではない。さらに明治以降の近代から現代にかけては、関東に公式の首都が置かれ、その中心性はさらに増した。
 このように、弥生時代から現代にかけて、列島社会の中心は、九州北部(博多湾沿岸)から畿内(大和・河内・山城=京)、そして関東(鎌倉・江戸)へと、大きくみれば三遷している。空間構造の変化という視点から日本列島史のメカニズムを分析する目的で、それぞれが中心となった時代を、一般的な時代区分とは別に、かりに、「ツクシ時代」「ヤマト時代」「アズマ時代」とよんでみよう。
 ただ、各時代の境界はかならずしも画然としたものではなく、文字記録のうえではっきりと歩みがたどれるヤマト時代とアズマ時代のあいだには、新旧両中心が並び立つ鎌倉・室町という長い移行期がはさまっている。また、アズマ時代になってからも、旧中心の畿内が、京あるいは大坂(大阪)というかたちで、新中心の江戸(東京)に対して、文化あるいは経済のうえで独自の比重を保ちつづけた。
 これと同じように、ツクシ時代からヤマト時代への移行のときにも、新旧両中心の博多湾沿岸と奈良盆地とが役割を異にして並び立ったり、政治的中心が奈良盆地に移ってからも博多湾沿岸が文化や経済のうえで独自の地歩を占めつづけるような複雑な状況が生じていたにちがいない。したがって、いつ、どのような局面での中心の移動が、いかなる段階を踏んでおこなわれたのかを正しくつかむことが、弥生時代から古墳時代への移行の歴史的意義を明らかにし、ひいては、古墳とは何かという問題の答えを導くだろう。文字記録が貧しいこの時代にあっては、考古学が、そのための随一の手段となる。

前方後円墳の成立年代
 宗教、政治、経済、文化、そして人口。一口に中心といっても、さまざまな種類や局面での中心があり、それらはかならずしも一か所に合致するわけではない。弥生時代から古墳時代にかけて、すなわちツクシ時代からヤマト時代への移行期に、どのような中心がどこに生じ、それらがどう推移したのだろうか。考古資料をもとに復元してみよう。
 まず、本書のテーマである前方後円墳。さきに述べたように、これは、長を葬って神格化する装置であり、その背後には長どうしによる政治的な連合組織が想定できる。したがって、前方後円墳の規模や分布の焦点は、そういった祭政組織の総本山の所在、すなわち、古代においては分かちがたく結びついた宗教と政治という局面での、中心のありかをしめす可能性が高い。
 最初期の前方後円墳の中心が、まず、奈良盆地東南部の纏向遺跡付近に形成されたことも先述した。これは、いつの出来事なのだろうか。纏向付近の前方後円墳群のなかで、築造年代を絞りこむための情報がもっともよくわかっているのはホケノ山である。ホケノ山の埋葬施設の上に安置されていたとみられる壺は、「庄内式」とよばれる型式で、ともに出土する木材資料の年輪年代や、同じ庄内式の土器にこびりついた炭化物の放射性炭素年代などの複数のデータから、三世紀前半の所産とする説が有力だ。ただし、ホケノ山の土器は、庄内式のうちでも新しい特徴をもっている。また、埋葬施設から出た鏡のうちもっとも新しいのは画文帯神獣鏡といわれる型式で、それ自体には年代幅があるが、上野祥史氏によると、文様の種類や配置から、ホケノ山の例は三世紀中ごろにつくられたものらしい。これらの検討から、ホケノ山の年代は三世紀中ごろにほぼ絞られるだろう。
 いっぽう、纏向の盟主であり、列島最初の巨大前方後円墳とみられる箸墓の壺は、庄内式よりも一段階新しい「布留式」だが、そのなかではもっとも古い特徴をもつ。したがって、ホケノ山の直後のものだとみてよい。さらに箸墓には、特殊器台という、埴輪の元祖となった大形の土器も立てられていた。特殊器台はもともと吉備地域で発達したもので、箸墓の例はそのうちもっとも新しい「宮山型」である。宮山型の特殊器台は、吉備の土器でいえば、畿内の庄内式から布留式への過渡期に併行する「下田所式」段階の所産とみられる。こういった考古学特有の年代決定手続きの話は、ともすれば微に入り細をうがって複雑になってしまうが、ようするに、さまざまな材料から、箸墓は、ホケノ山の直後にあたる三世紀中ごろから後半にかかろうとする時期には完成していた可能性が高いということだ。
 そのほかの纏向の前方後円墳群のうち、墳丘長約一一五メートルの勝山古墳では、古墳の完成後に掘られた穴に、古墳の構築に使ったと考えられるヒノキ材が投げこまれていて、これは二〇〇年前後という年輪年代の測定結果が出ている。今後、同じようなデータが積み重なれば、三世紀に入るころには纏向の前方後円墳群の造営がはじまっていたことが明らかになるだろう。
 このように、鏡や土器の型式の検討、年輪年代、放射性炭素といった複数の手続きから、纏向の前方後円墳群は三世紀の前半には出現し、半ばごろには箸墓が完成して、前方後円墳の総本山たる威容を整えるにいたったことが明らかだ。箸墓以前の造営と考えられるホケノ山や勝山も、すでに長さ八〇〜一〇〇メートルという、ほかの地域にはない大形の墳丘や入念な埋葬施設をもっている。前方後円墳を主要な装置として、その後三〇〇年ほども続いた宗教と政治の中心は、三世紀前半には畿内の奈良盆地にあらわれていた。

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