つい先日600記事に到達したばかりであったと記憶しておりますので、今回の620記事到達は意外に早かったものと思われます・・。
また、記事作成についても、特段困るということもなく、現在のところ進行しておりますが、その一方で、この辺りで一度、意識的にブログ記事作成を休んでみるというのも悪くないのではないかと考えはじめました・・。
これは感覚的なハナシではありますが、おそらく、今の段階にて、しばらく休息を入れても、再度記事作成を開始するにあたり、特に問題はないと思われるのです・・。
さらに、一度意識的に休息期間を設けることによって、新たに書き始める際において、また新たな着想も(より多く)湧くのではないかとも思われるのです・・。
そして、こうしたことは実際に行ってみないと分かりませんので、過日600記事に到達した後、特に問題なく記事作成を継続出来ることを自身にて見届けた現今、行ってみるのは悪くないものと考えます・・。
また、記事作成をしばらく休息するのであれば、特に予告なしに行えば良いのではないかとも思われましたが、一応このように書いておけば、これまで読んで頂いている方々も特に不審に思うことなく、それを納得することが出来ると思われますので、本日このように記事として書いている次第です・・。
加えて、こうした伝達事項をも一記事とすることにより、一つでも記事数を増やそうとする、いわば下心もまたあるのです・・(笑)。
さて、本日の主題に関しては、先日より書いてきた古の物についてのことに加え、これまで作成してきたブログ記事に共通して関連すると思われる書籍からの抜粋引用を充てようと思います・・。
中央公論社刊 中公クラシックス ベルクソン著『哲学的直観ほか』 pp.11-13
ISBN-10: 4121600355
ISBN-13: 978-4121600356
『単なる分析によるのではなくて、内部から直観によってわれわれのすべてがとらえられる実在が少なくとも一つは存在する。それは時間のうちを流れているわれわれ自身の人格であり、持続しているわれわれの自我である。
われわれは他の何ものとも知的に、あるいはむしろ精神的に共感しえないとしても、われわれ自身の自我とはたしかに共感する。
私自身の自我(しばらくこれを活動しないものと想像して)へ内省の目を向けた場合、まず認められるものは、表面に固まった殻さながらの、物質界から入ってくるいっさいの知覚である。
それらの知覚は明晰、判明で、並置されているが、あるいは並置できるものであり、それらは集まって物objectsになろうとする傾きをもっている。
ついで認められるものは、多少ともそれらの知覚に粘着して知覚を解釈するのに役立っている記憶である。
そうした記憶はいわば私自身の底から剥離され、それらと類似した知覚のため表面へ引き寄せられたものであり、絶対的な意味で私の自我であるのではなくて、自我の表面に憩うているものである。
最後に、それらの知覚や記憶と何ほどか固く結ばれている、いろいろな傾向や運動習慣のうごめきー潜在的行動の群れが感じ取れる。
明確な輪郭をもったそれらすべての要素は、互いに離れていて区別が分明なほど、はっきり私の自我から区別されたものとして見える。
それらの要素は内部から外部へ向かって放射し、集まって一つの球体の表面を形づくり、そして次第に大きさを増していくその球体は、ついに外部の世界のうちへ没していく、しかし周辺から内部の中心へ向かって引きこもっていき、私の存在の深みのうちでもっとも均一的、もっとも定常的、もっとも恒存的に私自身の自我であるものを探すならば、私はもあったく異なった面目をそこに見出すのである。
そこには明確に切り取られた結晶とその凝固した表皮の下に、かつて私が見たどういう流動とも比較の出来ない、一つの連続した流動がある。
それは状態と状態との継起であって、各状態は続く状態の先触れとなり先だつ状態を含んでいる。
本当を言えば、それらが多数の状態を形づくっているということは、それらを通過し終わってふたたびその通過した跡を眺めようとして私が立ち戻ったときに言えることなのである。
それらの状態を経験しつつある間は、それらは互いに緊密に有機的につながっており、一貫した深い共通の生命によって生かされているために、どこである状態が終わったのか、どこである状態が始まったのかを言うことはできなかったであろう。
真実を言えば、どの状態も、始まったのでも終わったのでもなく、あらゆる状態が互いのうちへ延び入りとけ込んでいるのである。
この内的な生は、巻糸が解けるのになぞらえても良いかもしれない。
なぜなら、およそ生物であってその役割が次第に終点に達しようとしていることを感じさせないものはないからである。
かくして、生きるということは老いゆくことである。
しかしそれはまた、間断なく糸巻へ糸が巻き付けられていくことにたとえられてもよいである。
なぜならわれわれの過去は、われわれの跡をつけてきて、その途上、現在を拾い上げてはたえず大きくなっていくからである。
それゆえ、意識とは記憶を意味している。』
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。明日よりしばらくの間記事作成を意識的に休みます。
再開の後はまた、どうぞよろしくお願いします。
昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺を襲った地震によって被害を被られた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
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