A「先日端午の節句にちなんで書いた記事は、その後思いのほか多くの方々に読んで頂けました。
こうしたことは日常生活においては、なかなか考える機会はありませんが、一度文章として書き、改めてそれを読んでみますと『あるいは、こうした考え、説を述べたのは私が初めてであるかもしれない・・?』といった、いささか誇大妄想と評しても良い思いが湧いてきます・・(苦笑)。
とはいえ、こうした日常生活においてあまり意識しないことを、それまでに得た何らかの知見と符合、対応させ、ある程度まとめ、考えとして述べることは、多少は面白いことであり、また、本来の研究であれば、この先、さらに関連文献等を読み込み論証、精査しなければならないところですが、残念ながら現在の私はそうした職に就いていないため、とりあえず、この『考えとして述べる』に留めておく次第です・・(苦笑)。
さて、ここまで書いており新たに想起したことは、さきの記事にて書いた古墳時代における靫(ゆぎ)の呪術的な意味合いと、その後の時代に見られる矢屏風およびその意味合いとの関連性と多少類似するのではないかと思われる、我が国弥生時代後期~末期(紀元前2世紀~紀元2、3世紀頃)の青銅器である銅鐸と中国南部、東南アジア(主に非漢民族居住地域)にて紀元前5世紀から近年に至るまで祭器として用いられてきた青銅器の銅鼓との関連、類似性です。
さまざまな説がありますが、それらの中で一つの有力な説として、銅鐸とは通常、地中に埋納、保管され、それが祭りなどの際に掘り出され、供えられるといったものがありますが、これはまさしくさきの中国南部、東南アジアにおける銅鼓と同様の扱い方であり、地域こそ異なりますが、それら祭祀背景の思想には、何かしらの類似性があるのではないかと考えられております。
さらに、これら地域に共通する他の要素として水稲耕作文化あるいは、もう少し、その文化を広く見て中尾佐助、佐々木高明等が提唱した照葉樹林文化などが挙げられるのではないかと考えます。
つまり『地域は異なるものの、ある程度共通する生活文化にて用いられる青銅祭器とは、自然、その背景思想および扱いも類似してくるのではないか?』といったことになるのです・・。
また、こうした類似性の背後には、生活文化の共通性以上に、(当時の)人種的な意味での共通性があったのではないかという説があります。
これは、神話、年中行事などの類似性から、あるいは北方内陸からの漢民族の侵出に圧迫された在来の非漢民族が押し出され、南方へ、あるいは山東半島から海路朝鮮半島へ、さらにはその先の日本列島西部に到達し、弥生文化の主要な担い手となったということから説明されておりますが、これは我が国への水稲耕作文化伝播の経路ともほぼ重なることから、特に無理な説明ではないと考えます・・。
とはいえ、その後、古墳時代になりますと、徐徐に独自の文化を歩み始め、我が国それは東、東南アジアなどにおいて特徴的な傾向を持つに至ったということが出来るのではないかと考えます。
ともあれ、面白いと思うことは時代、地域が異なるとはいえ、類似した背景思想を持つと思しき文化が見られることであり、また、これにより単純に『歴史は繰り返す』などとは云えませんが、それ以上に面白い、奥深い何かがあるのではないかと考えさせられるのです・・(笑)。
今回も、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
0 件のコメント:
コメントを投稿