2016年6月25日土曜日

野上彌生子著「迷路」下巻 岩波書店刊 pp.55‐58より抜粋 20160625 

「ねえ、」 呼びかけて、あとをつぐまでの数秒に、多津枝はその廃墟の、半分引き裂かれた二階家で「ハンガリアン・ラプソディ」を弾いていたのは、彼女自身であるかのように感じたのである。
「アメリカの爆撃機がどんどん飛んで来るようになっても、日本が勝つと思う。」
「はじめる連中は、勝つ気なのだろう。」
「あんたのこと、訊いているのよ。」
「わからないね。誰だって一応そういうほかはない。」 返事といっしょに、省三は紺のスエタの腕を組んだ。
「しかし、僕は不当な暴力は認めたくないし、暴力のうちに勝つことも信じたくない。シナの戦争がつねに成功を報じられながら、日本の手に入れているのは点と線に過ぎないといわれるのも、暴力にほんとうの征服のない証拠だからね。ナチやファシズムに対する否定も同じ理由だ。」
「でもドイツは勝ってるのよ。」
「勝っていることと、最後まで勝ちつづけるかどうかは、別だぜ。第一次のヨーロッパ戦争でも、はじめはドイツが勝ったのだからね。それに日本とアメリカの場合は、条件も全然違う。僕のは単に原理的な考えに過ぎないが、経済学者やエンジニアたちがひそかに抱いている悲観説は、アメリカの富と、無限の生産と、機械力の基礎づけによるものだ。多津ちゃんの恐怖だって同じ意味だろう。きみは最近まであすこにいて、アメリカと称する、石油と、石炭と、鉄と、銅との、あらゆる戦争工業物資から組み立てられて、胴っ原にはドルがざくざく詰まっている、たとえば、巨大な機械人間といった怪物を三カ月のあいだ眺めて来た。帰ったらさっそく遁げこみ場所だ、と脅えあがったのも無理ないよ。」
「ばかにしてる。」幽霊と子供の比喩にも似たそのいい方に、多津枝はちょっと反抗的な親しいほほ笑みを見せてから、左右のいびつな眼の瞬きですぐそれを消した。
「でもほんとうの意味では、私アメリカを怖がることないと思うの。金持ち喧嘩せずですもの、仕掛けなければ、爆撃機だって飛んで来はしないわ。それよか、勝とうが負けようが、アメリカと戦争さえすればよい。しなければならないみたいに思いこんでいる方が、ずっと怖い。」
「軍人となれば戦争が職業で、生活じゃないか。それにドイツとしては、新しい戦線をつくらせる意味で突つくだろうし、軍需屋は軍需屋で、いっそう儲けるためにおだてるだろうし―」
「そこまで、ほんとうのこというものじゃないわ。」
「なんだって。」
「私、誰の奥さんなの。」
「―失敬。」
多津枝はもう一度親しげにほほ笑もうとし、急に片輪のはずれた車のように大きい方の眼が吊れ、小さい方と斜っかいに眼窩の中で停止した、ぴりっと眉根だけが動いた。が、もう二週間まえになるけれど、と話しだした声はいともおだやかであった。
「国彦が来た時、会社のひとが二人いっしょに乗って来たの。晩御飯のあいだヨーロッパの戦争話がはずんでね。といったってクルップがどうの、スコダがこうのって儲け話だったのが、英米に凍結された在外資金のことから、とうとチャーチルのこのあいだの日本攻撃の演説になり、さて、今後の見通しはどうか、明るいか、暗らいかという議論がはじまったのよ。ねえ、明るいってば、平和解決だし、暗らいってば、戦争でしょう。」
「わかりきった話だ。」
「ですから、その積りになってたら、どうもおかしいの。よくよく聞いて見ると、あべこべなんですもの。明るいというのは、日米戦争までたしかにもって行けるというのだし、そのまえに外交の折衝でかたがつくのが、あのひとたちには暗らいってことになるのよ。」
多津枝は長椅子の凭れから腕をはなし、なにか蛇が鎌首をもたげたふうに、上半身をしゃっきりと立てた。膝におかれた手は、組みあわされているより、上になった五本の指が、下側の指を暴力的に捻じ伏せているように、また感情的になにか迸りでようとするものを、じっと食いとめている錘りのようにも見えた。今度はほほ笑みのかげさえ浮かべなかった。かえってよそよそしく蒼ずんだ顔に、唇をすこし尖らせ、張りつけたように瞠ったいびつな眼で、なにかほんとうに怒っているように省三を見つめた。子供の時から彼よりはずっときかぬ気の多津枝は、小言のでそうなことをしでかすと、逆に突っかかって来た。娘になり、人妻になってからもそれが変らず、わけても、結婚によって否応なく身につけている彼女の生活圏の内側にあるもので、彼の非難を受けても仕方のない話になると、この挑戦があらわれるのであった。
省三はあたらしく煙草に火をつけ、これも彼のきまった報い方で、無視的に煙を吹いた。ほんとうをいえば、多津枝に対してつねには決してもたない暖かい憐みを感ずるのも、彼女なりのよさを思うのもこの時に限っていた。蜘蛛がその糸で小さい羽虫を包むように、捕らえられた網の目のなかで、彼女がどんな有り方を、またどんなもがき方をしているかを、この場合ほど隠さず示すことはなかった。
浅間の山だって、ここと向側の小諸とでは方向が違うだろう。」
わずかな労わりを、その言葉に見せながら「彼らの明るいも、暗らいも、位置と見方で生ずるいわば物理的な相違だよ。だが、予想通り明るくなろうが、反対に暗らくなろうが、すくなくとも、僕自身には直接には関係ないな。どちらにしたって、今日明日とは行かないだろうし、その頃には南シナあたりの柔らかい泥が、いっそ気らくに眠らしてくれてるだろうから。」
「そんないやな話、いまからすることないわ。」
多津枝は急にほぐれた優しい顔で、組み合わせた手を解き、薄桃いろの掌をすりあわせた。」
迷路
 ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927
野上彌生子


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