2022年11月23日水曜日

20221123 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

 以下、私は単に想像であるとことわって、あるいは幻想であるかもしれないそのことにふれたい。

 まず、高句麗について触れる。

 この民族は本来、満州の草原に住んでいた連中であった。漢民族とは人種も言語を異にし、その社会の仕組みは中国の辺境の騎馬民族と共通したものをもっているが、しかし早くから漢民族文化に接触していたため、ゴビ砂漠の周辺にいる連中よりはるかに農耕的で、すぐれた移入文化をもっていた。

 かれらはたえず満州から朝鮮半島に南下していた。かれらの満州の故地に、「扶餘」という土地がある。この地名をとって、古くから朝鮮半島(とくに南朝鮮)にいて農耕民族になっていた韓民族は、北朝鮮にいるこのひとびとのことを「扶餘族」とよんでいた。簡単にいえば高句麗人・扶餘族は、北朝鮮人である。いまでも体格は北朝鮮人は南朝鮮人より平均的に背が高く、固有満州人にちかいといわれているが、朝鮮の上代の歴史からみても、高句麗人は南朝鮮の百済を新羅のひとびとよりも騎射がたくみで軍事的には優勢であった印象がある。満州草原できたえた牧畜民族的野趣を、農民になりきっていた南方の新羅人や百済人よりも濃厚にもっていたからであろう。

 朝鮮史でいう三国時代つまり北方の高句麗と南方の新羅・百済が鼎立していた時代、もし中国大陸に統一帝国が出現するという大変動さえおこらなければ、なお無事泰平にこの鼎立状態をつづけたかもしれない。

 が、589年、隋帝国が出現するとともにその兵力の大半をあげて高句麗へ攻めてきた。当時高句麗はいまの平壌を首都としつつ、その故郷である南満州のほとんどを領有し、いまの地名でいえば旅大や遼陽をふくむ遼東半島も撫順も瀋陽もみな高句麗の国土であった。隋にとっては辺境のわずらいを未然に防いでおくための武力行使であったのだが、逆に高句麗に敗けてしまい、この敗北が隋という短期帝国の衰亡原因のひとつになり、かわって大唐帝国の出現をうながす結果をもたらした。

 つづいてその唐が大規模な軍をおこし攻めてきたのである。戦争状態は20年つづき、ついに668年平壌が陥落して高句麗は滅ぶ。 

 この間、半島の情勢は混乱し、唐は高句麗攻撃中に新羅と同盟をむすんで百済は日本に救援をもとめた。当時、日本も隋帝国の出現の大津波(多分に心理的な)をうけ、大いそぎで中央集権の国家形態をととのえて万一の侵略にそなえるべくいわゆる「大化改新」を進行させつつあった。当時の日本の政策決定者は、国際情勢に過敏すぎる傾向をもった中大兄皇子(天智帝)であった。かれは百済救援のために出兵し、その水軍が白村江で唐の水軍と戦って全滅した。この敗戦で百済が滅び(663)、その貴族や人民が多数日本に逃げてきた。ついで5年後に、百済と同盟していた高句麗が滅亡した。以上が私の「想像」の背景である。

 「日本書紀」では、高句麗を高麗と書きコマと訓む習慣になっているが、この鴨緑江流域の大国と日本との関係は南朝鮮の百済や新羅にくらべてもわりあい薄い。 

 急に関係が濃密にあるのはやはり隋帝国の勃興で高句麗が圧迫をうけてからであり、高句麗が隋の大軍を敗走させたあと、推古帝26年(618)に国使をよこして捕虜や鼓や笛、弩、投石器などの戦利品を日本にもたらしてきている。

 それから半世紀経ち、高句麗が唐に攻められるという情勢が濃厚になったとき、その国使がやってきている。さきにふれた天智帝5年のことである。その正月、「高麗、前部能婁等を遣して」調をたてまつる。とある。この前部能婁は夏6月に帰ったという記事があとで出てくるから。彼は日本に帰化していない。

 問題はそのあと4カ月しかたたない10月にやってくる高麗の国使である、きびすを接してやってきているあわただしさに、高句麗情勢の緊迫化を感じさせる。おそらく救援を乞うための使者であろう。しかし天智帝としては、それより3年前に百済を救援して白村江で大敗し、この高句麗の国使がきた時期は百済の亡臣亡民を収容するのに混雑している最中であった。高句麗を救援する軍事力などは残っておらず、おそらく事情を話してことわったにちがいない。

 この10月の使者は、正使が乙相奄鄒(おっそうあむす)という人である。このひとはほどなく亡くなったのか、その後の消息が出て来ない。

 副使が、二人いる。達相遁(だちそうどん)と玄武若光(ぐぇんむにゃっこう)である。達相遁のその後もわからない。

 問題は、玄武若光のことである。以下単に若光という。かれは二位の位をもっていたというから、正使および副使ともども王族だったのであろう。

 この三人が帰途についた記事がのこっていないのである。

 この翌年、天智帝の皇女大田皇女がなくなって葬儀があった。そのとき、

「高麗、百済、新羅、皆御路に哀奉る」という記事がでている。この三国のひとびとが出てきて哀悼の意を表した。というのである。天智帝のころの騒然たる国際情勢がこの一事でもわかる。葬列を送ったのは、この三国のひとびとでも当然貴人だったであろう。ところでここに「高麗」が出ているのが、やや気になる。当時の情勢から考えて亡国の百済からのひとびとの人数がもっとも多く居住していたであろう。新羅がこれに次ぐ。高句麗貴族がいるのは多少珍奇な感じがする。この「高麗」は去年きた若光らの残留している姿と考えるのが自然ではあるまいか。

「この情勢ではとても貴国に帰るわけにはゆきますまい。ずっと日本に住みついたらどうですか」と、日本側からもちかけられたようにおもえる。かれらは帰国できる状況ではなかった。百済の新戦場を通過するわけにはゆかず、海路、すでに戦場になっている故国に帰ったところで、かんじんの高句麗国が存在しているかどうかわからない。げんにかれらが来日してから2年後に高句麗国は唐のためにほろぼされているのである。若光らは残留したであろう。

2022年11月22日火曜日

20221122 株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋

株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4270001178
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4270001172

創造性は誰もがー少なくとも原則的にはー評価するが、創造性を研究するとか育てるという試みには懐疑的な人が多い。

芸術家のほうにも、創造性については、ほうっておくべきだという意見が多い。正面から見つめては危険だというわけだ。

基礎科学の研究者にも創造性はほうっておくべきだという見解が多い。そもその定義からして、きちんと統制した研究の対象にはなじまない異常な現象だからである。

そこで創造性を育てる研究はニューエイジの実践家やビジネスのひらめきに関するセミナーの指導者、それに少数の勇敢な社会科学者などに委ねられてしまう。社会科学者にさえ、ためらいはある。フロイトはドストエフスキーに関するエッセイのなかで、「創造的な芸術家の問題を前にしては、残念ながら分析家は手をこまねくしかない」と書いている(念のために記せば、心理分析家はほかの臨床家よりも雄々しく、この問題に取り組んできた。

対照的に精神薬理学者は、きちんと薬を服用しない患者がでっちあげた口実だとして創造性を切り捨てる傾向がある)。

一部の社会科学者は「科学的発見や文学、舞踊、ビジネスを成功させる決断などという多様な営みを創造性という単一の概念でくくってしまうべきではない。」と考えている。

たとえばハワード・ガードナーは、言語と数学というような異なる領域には、別の知性が必要で、一つの領域の創造性が、ほかの領域に及ぶとは限らないと主張する。

 しかし創造性を研究する人たちは、多くの違った分野からの情報を関連づけ始めている。創造性の様な重要な現象を研究せずにほうっておくべきではない。というこれらの研究者の主張には説得力がある。

創造的な活動は、新奇性と価値との組みあわせを含むという定義が有効だということにはあまり異論がないだろう。創造性に新奇性が必要なのは、立証済みのソリューションはたとえ巧妙で有用であっても創造的とは言えないからだ。それに創造的な作品に(有用であるか、少なくとも社会の一部の人たちに光を与える)価値がなければならないのは、単に奇抜なだけでは創造的ではないからである。

この二つの要素からなる創造性の定義からすれば、なぜ創造性が狂気と隣りあわせなのかも説明できる(狂気とは異常で価値のないふるまいだ)。

 創造的な作品とは新奇性と価値があるものだという定義は、創造的な作品と呼ばれるものの社会的な側面を捉えている。創造的という特質は孤立した活動にはあてはまらない。新奇性や価値は社会的な文脈との関係で判断されるからだ。わたしが庭で石を動かすのに梃子の原理を利用したとしても創造的という評価は得られないが、わたしがクロマニヨン人ならべつだ。社会的な文脈がはっきりしない場合もある。わたしはなぜ「フィネガンズ・ウェイク」のような作品を創造的と判断するのだろう?一般大衆には充分な判断能力も関心もないが、その分野の専門家には現状維持が得策なので、画期的な仕事が抵抗にあう、という場合がある。価値判断における社会的な文脈の役割からは、ある年代の天才が次の世代には陳腐とされ、ただの変人と否定されていた人々が天才として復権するというプロセスも生じる。

2022年11月21日月曜日

20221121 岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」 PP.346-349より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著
コンラッド短編集』「武人の魂」
PP.346-349より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?

 そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。

 まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。

 わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。

 トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。

2022年11月20日日曜日

20221120 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.133-136より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.133-136より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

以上に指摘した日本の高等教育の弱点を考慮して、次のような改善策を提案したい。まず一〇歳代後半の人々の能力を高めるために、高校での教え過ぎの課目数を大幅に削減することを提案したい。

 専門化され過ぎていたと言われる私たちの時代の旧制高校の文科コースでも、次のような多用な課目が関連なしにばらばらに教えられていた。まず歴史では、国史、東洋史、西洋史の三科目がある上に国語、国文学史、漢文がある。これらすべてを一科目か二科目に統合する。この大科目の主題は日本はアジアの中でどういうふうに近代化(西洋化)されたかに絞られる。生徒は自分で自分のテーマを設定し、各先生と相談しながら、関連する書物を図書館で読んで、レポートを書き上げるのである。

 哲学・社会科学関係の授業も多すぎた。哲学、論理学、法制・修身と称する倫理学など、多くの科目が無責任、無連絡に教えられていた。生徒はどの科目にも専念することはないから、先生の言ったことをノートにとって暗記するだけであった。私自身は心理学と論理学の講義には興味を持ったが、それ以外の講義を馬鹿にしていた。

 体育の科目ですら多過ぎた。体操、武道、軍事教練の他に、殆ど全員はそれぞれ何らかのスポーツ・クラブに所属していた。これらも統合して好きなスポーツ一つだけに専門化すべきだ。

 要するに日本の高等学校は、新制でも旧制でも教え過ぎで、出来るだけ多くの科目を広く浅く学ばせようとする。だから日本人は、学問とは知識を数多く集めることだと考え、集めて保存するために記憶能力を磨く。その結果日本人は考えることを甘く見る。「なぜか」と尋ねることは、学校でも、家庭でも決して歓迎されない。それだけ日本の学校には無駄があるので、それらを改善して前節末に述べた理想案に近づけることは可能である。 

 高校の科目はできるだけ統合して、ごく少数の科目に合格すれば、大学への入学が許可されるようにすればよい。イギリスではAレベルの試験に三科目合格することが大学入学の条件とされているから、イギリスの高校生はAレベル三科目の学習に全力を注ぐ、したがって彼らは、日本の生徒と比べるならば深いが狭い。広大な無知の領域が彼らには残されている。しかしそのことはどうでもよいのだ。Aレベル水準の三つの科目をマスターした能力の者には、独力で四つ目や五つ目の科目を習得することは困難なことではない。

 要約して言うならば、高校の科目を、幾つかの大講座にまとめ上げ、同一の大講座に属する先生(例えば日本史、東洋史、西洋史、地理の先生)は共同して生徒の質問に答え、生徒の自主的勉強を指導する。どの大講座の科目を勉強するかは生徒の選択にまかされる。

 その他に別枠として外国語(英語)がある。これは大学進学の必修科目だが、私たちが教えられるような英文学の真似事としての英語ではなく、もっと実用的な(日常生活に役に立つと同時に大学で研究するのに役に立つ)英語を教える。英文学の真似事の英語は、英文学の真似事以外にあまり役に立たないことを英語の先生は自覚すべきである。

 以上の案では、私の理想案の内容がほぼ満たされている。不足しているのは、それが生徒の選別を充分していないということである。選別は重要である。出来る人を集めてこういう人も自分の同年代の人にいることを知るのは大切なことである。平等の名において選別をなくすのは、子供に対する愚民化政策である。スポーツで選別をなくすれば、優秀なスポーツ選手は生まれない。同様に、思考力の異なる者を一つの教室に入れておけば、思考力のあるものが、怠けて考えなくなるだけである。

20221120 株式会社 光人社刊 光人社NF文庫 比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」 pp.42-44より抜粋

株式会社 光人社刊 光人社NF文庫
比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」
pp.42-44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820631
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820635

ビルマ派遣軍司令部は、もと大学ででもあったのか、広い構内にあり、建物はコンクリート建てで、白黒のダンダラ模様に迷彩をほどこしてあり、大きな偽装網がぶら下がっている建物もあった。

 こんなところへ、こんな細工をしても効果があるのかと思ったが、口には出さなかった。

 軍司令官は、マラリアでねており、参謀長が申告をうけた。彼は、開口一番、「大変なところへ来てもらって、お気の毒である」といった内容のことをいった。

 「この戦争で、すくなくとも攻勢をとっているのは、ビルマだけだ」と、われわれは勢いをつけてこられたのに、

「お気の毒だ」といわれたのには、ガッカリした。

 それもそのはず、ちょうど申告をした部屋は作戦室であり、その壁に貼ってある作戦図には、今まで士官学校で習ってきた退却作戦の要図、そのままが描かれている。隊号を虫ピンでとめてある。

 青色で南の方へ下がっている何本かの大きな矢印は、日本軍の退却をあらわしている。赤色の矢印がそれを追いかけている。青の矢印の中間には、赤い落下傘の印が点々ととめてある。敵の空挺部隊が、退却を妨害していることを示している。

 北東の方には、青い環が三つばかりあり、これを赤い環がかこんでいる。ラモウ、ミートキーナ方面で、日本軍は敵に包囲され、孤立して苦戦をしていると聞いていたが、現実に司令部には、正直に敗けいくさの状況が示されているのだ。

 そして、参謀長のいわれるには、「日本軍はインパールから退却し、ある地点で態勢をたてなおすために、移動中である。そこへ追及しても、とくにやる仕事はないし、若い連中が行って、貴重な米を食い荒らすことになるともったいない。しばらくラングーンにとどまって、ようすを見てから前線に追求せよ」ということであった。

 二、三日は兵站旅館にとめてもらったが、すぐに追いだされて、むかしゴルカ(グルカともいう)兵の兵舎であったという粗末な兵舎に寝起きすることになった。

2022年11月19日土曜日

20221118 しばらく引用記事を作成していて思ったこと(思い出したこと)

おかげさまで昨日投稿分の引用記事は、投稿翌日としては、かなり伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、ここ最近数日間は、波に乗ったのか、自らの文章による記事作成を試みることもなく、そのまま引用記事を作成していました。先日、司馬遼太郎について書かれた著作を読み、またその文脈を確かめるために、司馬遼太郎自身による文章、あるいは、その著作への評価などが書かれた他の文章を読んでいますと、面白いことに、何やら思考が動き出し「あるいは、この記述とも関連があるのではないか?」などと思い出すようになり、そしてまた、他の著作へと手を伸ばしていくのです・・。

そのため、現在、当ブログを作成しているPCが置いてあるデスクの上には、かねてよりのものを合わせて、15~20㎝ほどの高さに積まれた書籍が5つほどある状態となっています・・(苦笑)。ともあれ、そうしますと、やはり私は司馬遼太郎の著作には何か特別な思い入れがあるのかもしれません・・。また、それと併せて今回の件で面白いと感じたことは、先日、加藤周一による「日本文学史序説」下巻内にある、三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述を思い出し、その箇所を開き、引用記事の作成を試みましたが、その際に、引用部のみならず、ほかの記述も知らず知らずのうちに読んでしまっていたことです・・。

思い返してみますと、この加藤周一著「日本文学史序説」上下巻は、私にとって印象深い著作の一つであり、当著作を購入したのは2012年の鹿児島在住の頃でした。とはいえ、その当時はなかなか、こうした比較的硬質ともいえる他分野(人文系)の著作を読む活力や元気はなく「どうにか学位取得にまで至ったら、その後じっくりと読んでみよう。」と積読状態にて放置していました・・。

そして、その翌年、どうにか学位取得にまで至り、帰郷の後は就職活動をしながらアルバイトをしつつ生活をしていましたが、この時期に至り、比較的熱心に読んでいた著作が、さきに述べた在鹿児島時代に積読状態であった「日本文学史序説」上下巻でした。やがて、当著作は英訳版が刊行されていることを知り、こちらはたしか全三巻でしたが古本にて購入して、これらもまた自分なりに熱心に読んでいた記憶があります・・。

ほかにも加藤周一の著作は、以前から読み続けており、納得出来ない見解の記述などもしばしばありましたが、全体としては、その記述の明晰さに惹かれていたと云えます・・。

そしてまた「このような文章は私でも作成出来るのだろうか・・?」と思うことも度々あり、そうした経緯もあってか、当ブログ開始当初の頃は特に当著作(「日本文学史序説」上下巻)からの引用記事が多かったのだとも思われます。

そのように考えてみますと、去る2012年に当著作を購入し、そして翌2013年9月に学位取得に至り、帰郷してから当ブログをはじめる2015年6月までの2年に満たないほどの期間、この「日本文学史序説」上下巻)を日本語・英語版にて読んでいたことが思い返され、そして、さきに述べた同著作内の三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述も、どうにか機に応じて思い出されたのです・・。

書籍からの引用記事であっても、ある程度継続していますと、時には引用した記述が、丁度同時代での世間の出来事と何やら興味深い関連性を示すことが時折ありますが、あるいはそうしたことの背景には、現時点の私には理解出来ないものの、何らかの摂理といったものがあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


















2022年11月17日木曜日

20221117 株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.161-163より抜粋

株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」
pp.161-163より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580510

明治の天皇制権力は、文明開化の必要を痛感していた。急速に官吏を養成する必要があり、大規模に技術を輸入する必要があった。すなわち明治政府は官立の高等学校を作り、それぞれの目的に従って文科と理科とを分け、官立大学をつくって能率的な教育を実行した。その改革が驚くべきものであったことをわれわれは知っている。有能な役人と技術者が養成され、組織された。知識人の動員は、何も戦時に限られたことではなく、明治維新以来、敗戦まで大筋としては一貫していたといえるだろう。理想が富国強兵にあるとき、どうして役人に音楽を聴く必要があろうか。また技術者に社会問題を考える時間があろうか。世界最大の戦艦を造った日本の技術者は、小説を読んで自ら楽しむどころか、一台の乗用車さえ国民のために作る余裕がなかったのである。専門領域以外の人事一般に対して知識人の関心がうすいのは、富国強兵をめざして行われた知識人の動員が徹底していたということであろう。

 大部分は動員されていた。しかし、勿論全部ではなかった。そして、敗戦とともに当然、戦前の少数者は、その数を増したのである。しかし天皇の名のもとに富国強兵の理想を無条件に受け入れないとすれば、意識的にそれを批判しなければならない。日本の知識人の関心が専門領域の技術問題以外に出る時には、主として社会問題へ向うのがまったく当然だろうと思われる。東京の知識人は、宗教を語らない。個人の生と死、また救いの問題は、今ではほとんど例外的な少数者の注意しか引かなくなっている。芸術は娯楽にすぎない。しかし娯楽としては、むろん活動写真の迅速簡便には及ばないだろう。

 教養の内容について言えば、明治以来の大学の伝統は、一切をよく象徴している。医学部や工学部の教授は、その講義の途中に英語や独逸語の単語を用いることで学問的雰囲気を作り上げることに巧みであった。事はもとより枝葉末節にすぎない。大学の教授の能力は、総じて非常に秀れたものであって、さればこそ日本の技術も今日まで発展して来たのである。学問にとって教授が外国語を好もうと好まないと大きな問題ではなかった。しかし、その枝葉末節に現れている心理的傾きそれ自身は、必ずしも枝葉末節ではない。その心理的傾きのある限り、日本の学問がどれほど西洋の水準に近づいてもも、おそらく全体としてそれを抜くことはないだろう。それは学者の責任ではない。広く知識人全体の問題である。

 自国の文化に対する関心は、たびたび反動を経験しながら、自然確実にうすれていった。しかし、輸入された外国文化の特徴は、そこに歴史的厚みがないということである。新しい技術の輸入を主眼とする以上、当然だろうが、とにかく輸入された限りでの西洋文化にはなかった。したがって、もし日本の知識人に文化を歴史的なものとしてうけとる機会があったとすれば、それは日本の文化との接触を通じてでしかなかったであろう。ところがそういう機会は少なかった。自国の伝統文化に対する無関心は、そのまま歴史的感覚の鈍さに通ぜざるをえない。ところが、その名に価するあらゆる文化は、深く歴史的なものである。明治以来の日本の思想的、文学的、芸術的貧困の根本的な理由は、おそらくそこにあると思われる。