2026年5月14日木曜日

20260514「フィルターとしての私」と知性

 我々は日々、会話、SNS、PC・スマホ、テレビ、書籍などからの膨大な情報に接して生きています。これらから得られる情報は、意識しなければ、そのまま通り過ぎていきます。こうして、ただ情報を得ている状態は、いわば情報の「消費」に留まっている状態であると云えます。そして、そこには知性はあまり関与していません。では、知性が情報に関与するとは、どういうことでしょうか?それは、端的に、ある情報に触れた時に「私はこれをどう認識するのか?」と云う、能動的な問いが自然に生じる状態であると考えます。そして、ここで重要であるのか「フィルターとしての私」です。我々は皆、普段、同じ世界を見ているようでいながら、実際には異なるものを見ています。ある人は数字に目を向け、ある人は歴史的な背景を読み取り、またある人は自らの感覚に注目します。こうした差異は、単に知識量の違いではなく、それぞれの人が積み重ねてきた経験や思索の蓄積によって形成された「ものの見方の癖」によるものと云えます。つまり、読んだ本、出会った人、繰り返してきた習慣や鍛錬が、幾層にも重なり、その人独自ののフィルターを形成するのです。そうした意味から知性とは、まず、この自分なりのフィルターを持ち、そして、それを通して世界に「引っかかり」を見出すことから始まるのだと考えます。そして次に、その引っかかりを「解釈」へと進める段階があります。ここでの解釈とは、ただ意味を付与することではなく、与えられた事実に対して問いを深めていく営為であると云えます。具体例を挙げますと「地方大学の多くで受験生が減少している」という情報に接したとき、「少子化だから仕方がない」と結論づけて終わるのは、さきの情報の消費にすぎません。しかし「何故、少子化とはいえ地方大学から先に受験生の深刻な減少が生じるのか?」そして「地方で大学が減少すると、どのような変化が社会に生じるのか?」といった問いを重ねていきますと、そこから、また新たな意味の連関が惹起されます。これは、バラバラの情報を単に並べるのではなく、それらを結びつけて、自分しか見えないような構造を見出す作業であると云えます。換言しますと、点と点を結び付け、自分なりの星座を見出すような営みと云えるのではないでしょうか?そして最後に、その解釈を「言語化する」という段階に至ります。そして、この段階、過程こそが知性の核心であると云えます。なぜならば、我々は言語化にしない限り、自らが何を考えているのか精確に把握することが出来ないからです。頭の中で「理解したつもり」になっている状態は、多くの場合、曖昧なまま放置されている状態です。それを口語なり文語なり言語化してはじめて、その論理の飛躍や前提の曖昧さなどが露わになります。そして、この時に初めて、自らの思考が試され、磨かれるのだと考えます。言語化することは、単に他者に伝えるための行為ではなく、自らの考えを明晰化するための不可欠な過程なのです。さらに重要であるのは、自分の言葉で言語化することは責任が伴うという点です。既存の正解をなぞるだけであれば、安全であり、批判を受けることも少ないです。しかし、そこには「自分」が存在しません。一方で、自分のフィルターを通して解釈を言語化することは、「私はこのように世界を見ている」と表明することです。それは誤りを含む可能性もありますが、そのリスクを引き受けた言葉だけが、他者にとって新たな視点となり得ます。ここにおいて、知性とは単なる能力ではなく、一つの態度、あるいは覚悟となります。以上のことを踏まえますと、知性とは「ただ情報を蓄積すること」ではなく、「世界を一度自分の中で咀嚼し、再構成して表現する力」であると整理することが出来るのではないでしょうか?料理にたとえますと、材料を集めることが知性ではなくて、それをどのように調理し、どのような料理にするかに本質があると考えます。同じ材料であっても、料理人によって全く異なる料理が生まれるように、同じ世界を前にしても、人によりその意味は異なります。その差こそが知性の相違であると考えます。そして、この営みは一度きりのものではなく、反復により鍛えられていきます。考え、言語化し、表現して、また考え直す。この循環を繰り返すことにより、フィルターはより精緻なもなものとなり、解釈はより深まり、言葉はより明晰になっていきます。そこから、知性とは、瞬間的なひらめきではなく、むしろ、この循環、反復のなかで徐々に考えが形成されていくメカニズムであると云えるのではないでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2026年5月13日水曜日

20260513 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」 pp.99‐103より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」
pp.99‐103より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

 たしかに市民社会と政治にたいするアンチテーゼとして文学や芸術の課題を提起することそれ自体はべつに日本に特殊でなく、世界中いたるところにある傾向にちがいありません 。けれども近代日本の文学者・芸術家に多少とも共通する反政治的もしくは非政治的態度は、社会的「隠逸」に裏うちされていましたから、政治にたいする芸術の擁護に立上ったり権力にたいする"抗議"として現われることはむしろ稀でした。社会的「かかわり」と反対に、彼等の反俗物主義とは世間にたいして芸術という聖域に垣根をはりめぐらすことであり、したがってごく普通の市民の一人としてささやかな政治活動を隣人とともにすることも、彼等にとっては俗物への顚落とみなされがちでした 。(こういう「反政治主義」は人間活動の一部として政治の位置を指定し、同時に限界づけることができませんから、時あってか全政治主義に飜転します。がその問題はここでは差しおきます 。)いずれにしてもこうした精神態度が、知性の連帯に基く共同体の形成の阻害要因になることは言を俟たないでしょう。
 こうして『三酔人経綸問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、二十世紀初頭にはすでに急速に失われつつあったのです 。まさに、ふたたび会することがなかったわけです 。これは必ずしもイデオロギーの対立がより激烈になったからではありません。イデオロギーの対立の幅をいうのであれば、大日本帝国憲法発布以前の時代の方がむしろ大きいとさえいえます。明治十年代には主権在民論まで堂々と登場したわけですから・・・。むしろ問題は大日本帝国の国内体制が整備され、政治、産業、教育、軍備などいろいろの領域で制度的近代化のテンポが速まるに従って、知識人の社会的流動性はより少なくなった、という点にあります 。つまり公私の官僚制の中に編成された制度的知識人とその外にある「自由知識人」との間の分化が次第に固定化してしまった。しかも自由知識人自身がそれぞれ排他的な職業的空間に活動領域を限定する傾向が強くなってきた。そうして他方では、異った領域の知識人が相会し、談論風発する場ーたとえばフランス百科全書家の集ったサロンとか、ずっと後でも、サン・ジェルマン・デ・プレのコーヒー・ハウスとか、あるいはイギリスのクラブとかいう場は一向に発達しません 。そこで個々の閉鎖的職場をつなぐ共通の知的言語が衰弱してゆきます。漢学のような古典的教養の共通性がうすれてゆくこともこれに拍車をかけたといえるでしょう。そこに積極的な要因としてインテリの専門化・技術化が早期から進行したという事情が加わります。これは帝国大学に最初から工学部が設置されていたということによく象徴されていると思います 。大学レヴェルでの工学部の設置という点では、日本の大学が模範としたヨーロッパの諸大学より早いわけです。
 日本でこのように専門的・技術特知識人が早期的に登場したことが、どういう意味をもったかという問題に深入りすることは避け、その代りに一つだけ例をひいておきます 。史論家であり、大記者でもあった山路愛山が明治四十三年にすでにこういうことをいっております 。「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ其の従事すべき仕事の上にのみ集中せらる 。正にこれ、英雄時代(注ー幕末の志士の時代を指す)去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて専門家の時代に達せりといふべし 。」(傍点丸山)こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言ではないと思います 。これは私も大学人であったので自己批判を含めて申すのですが、日本の「総合」大学というものは、およそ université の名に反して、西欧の学問のそれぞれの専門の学科を個別的に輸入する形で成立したために、学部学科の密室化が早くから進行し、したがって学部間の壁は、欧米の大学よりずっと厚い 。こういう歴史的背景を考えますと、たとえば「私は考古学が専門ですから、学生運動のことはわかりません 。」というような教授があらわれ、しかもそういう言葉が別におかしいとも思われないのも、もっともです 。ヒューマニティーズの典型である哲学も、大学では「専攻」の対象として出発しました。
 したがって、ふたたび会することがなかったのは、決して在官と在野の知識人だけではなかったのです 。学問と芸術とは世間的常識としても隣接した文化なのですが、近代日本では学者と芸術家という二つの人種は、隣人どころか、少数の例外をのぞいてはほとんど別の遊星の住人のように相互の眼に映って来たのが実状です。この両領域の架橋を困難にした問題としては、以上に述べて来たような双方の側の事情のほかに、なお科学用語という重大な障害があります 。つまり、自然科学はもちろん人文・社会科学の概念は圧倒的に翻訳語であって、明治以後に造語されたものです 。それだけに日常用語との乖離が甚しいのです 。西欧においては、どんなに難解に見える術語も、すくなくも人文・社会科学の領域では日常用語に根ざしており、ただ、それを洗練して再定義しただけのことです 。こうした用語の背景のちがいによって、たとえば日本の文学者と日本の研究者との間で知的会話を交すうえでどれほどの困難が生れるか、ということは西欧人にとってはほとんど想像を絶するものがあります 。学者が学問の「約束」にしたがって用いる言葉遣いが、学者の間ではどんなに当然として通用しようと、それは文学者にとっては、しばしば日本語の体をなさない生硬な表現と映るのです。これはたいへん深刻な問題ですから、これ以上立ち入りませんが、すくなくも学者と文学者(広くは芸術家)との間の知性的な共属意識の成熟を困難にして来た背景として、そうした「文体」の問題があることだけを念頭に置いていただきたいと思います。

20260611 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」ー pp.112‐117より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」 
pp.112‐117より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

 知識人の教養内容は、理解の質を別として、圧倒的に西欧の文化的産物に依存しておりましたので、「皇道」や「日本精神」についての出版物の氾濫にもかかわらず、それらは「インテリ」にとっての魅力を甚だしく欠いておりました。したがって社会主義的ないし自由主義的知識人の「転向」は、全体主義のイデオロギーへの回心というよりは、一切の西欧産の「イズム」を捨てて、帝国の忠良な臣民一般にまでー少くも表向きのうえでー同化すること以上を意味しなかったのです。たしかにここでは、軍国主義にたいする勇敢な抵抗を行なった知識人はすくなかったけれども、知識人が狂熱的な皇道イデオロギーにコミットした程度もナチ・ドイツに比べて低かった、といえます。「思想問題」が呼びさました「知性の王国」はもろくも崩れたけれども、戦時体制への協力が、イデオロギー的信奉よりも、国民一般の「世論」や感情への追随と同化を意味したところに、1の章でのべた近代日本の知性の二重構造ー社会層としての「インテリ」のまとまりの弱さと、知性が平等主義的に社会的に分布していることから来る「擬似インテリ」の磁性の強力さーが集中的に表現されております。そうして戦後における思想の「解放」が、ヨーロッパにおけるよりも、はるかに大きな程度で知識人一般の解放として感覚されたのも、右のような歴史的背景のもとで理解されるのです。伝統的にドイツ国家学の圧倒的影響の下にあった法学の分野で、ある教授は敗戦後、つぎのような述懐を同僚に洩らした、と伝えられております。「これからはわれわれもようやく本当に『一般国家学』(Allgemeine Staatslehre)を語れるようになりますね。」

 こうして第三のエポックがまいります。これが敗戦直後の時代です。大日本帝国の思想的に「閉じた」社会の厚い壁が一挙に崩れ落ち、「暗い谷間」を過した知識人に、三たび知性の王国への共属意識が呼び醒まされたわけです。
 戦後三十年ちかくを経た今日の日本では、戦争直後に民主主義の知的なチャンピオンとして活躍した知識人たちにたいし、つぎのような非難と嘲弄を浴びせるのが一種の流行になっております。ー彼等は連合国による軍事占領というきびしい現実を直視せず、「ポツダム宣言」による「外から」の解放に有頂天になってバラ色の啓蒙主義に酔いしれ、呆然として衣食住をもとめて焦土にさまよう大衆に先覚者気取りで説教するのを事としていた、というのです。こうした非難に部分的にリアリティがないわけではありません。けれども、敗戦直後の知的風景をすべてこうした非難のタッチでぬりつぶすことは、誇張であるだけでなく、それ自体が一つ新らしい政治神話のために広告絵をえがくことになります。その神話とは、戦後民主主義の諸改革は「行過ぎ」であり、非武装を規定した新憲法は空想的=偽瞞的であり、日本のすぐれた伝統は、祖国の悪口をいうことを商売にするこれら知識人たちによって踏みにじられた、という説を国民に信じこませようとする神話です。
 けれども実際には、敗戦後、知識人たちをふたたび共同の課題と任務にまで結びつけ、立ち上がらせた動機はもっと複雑なものでした。「配給された自由」を自発的なものに転化するためには、日本国家と同様に、自分たちも、知識人としての新らしいスタートをきらねばならない、という彼等の決意の底には、将来への希望のよろこびと過去への悔恨とがーつまり解放感と自責感とがーわかち難くブレンドして流れていたのです。私は妙な言葉ですが仮りにこれを「悔恨共同体の形成」と名付けるのです。つまり戦争直後の知識人に共通して流れていた感情は、それぞれの立場における、またそれぞれの領域における「自己批判」です。一体、知識人としてのこれまでのあり方はあれでよかったのだろうか、何か過去の根本的な反省に立った新らしい出直しが必要なのではないか、という共通の感情が焦土の上にひろがりました。
 もちろん何を悔いたかについては、その人の敗戦までの思想的な道程によって異なり、また世代によっても異なります。かつて「アカ」として逮捕投獄され、転向手記を当局に提出した人々は、変化する精神的気候の中で自分の原則を貫けなかった知的および道徳的な弱さを悔いた。いわゆる自由主義的知識人達も、国内における軍部や右翼の政治勢力の台頭に対し、あるいは中国大陸を「赤化」の脅威から守るという名分の下に拡大して行った、日本の大陸における軍事行動に対し、懐疑と不安をいだきながら、結局は既成事実に押され「新体制」に唱和するまでに自分たちの心を蝕んだコンフォーミズムを悔いた。また、各分野の専門的・技術的知識人にも、自分たちはあまりに社会政治情勢に対して無知で、専門以外のことについては、いわゆる「学のない」国民大衆と全く同じに政府や大本営発表をそのまま素朴に信じながら自分の仕事を続けてきた、今後はもっと広い世界的な視野を持たなければならない、という悔いと反省が広く拡まった。純粋に「聖戦」と「神州不敗」を信じて出陣した、高校・大学の学徒兵たちも、青年は青年なりに無知と無批判からの脱却を志しました。これが空き腹を抱えながら哲学書や社会科学書を買うために本屋の店頭に行列を作るという光景が方々にみられた所以だろうと思います。戦争に反対して辛い目にあった少数の知識人でさえも、自分達のやったことはせいぜい消極的な抵抗ではないか、沈黙と隠遁それ自身が非協力という猜疑の目でみられる時代であったとはいいながら、我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省せねばならない、もしそれが日本における権力や、画一的な「世論」にたいする抵抗の伝統の不足に由来しているならば、われわれは日本の「驚くべき近代化の成功」のメダルの裏を吟味することから、新らしい日本の出発の基礎作業をはじめようではないか。日本の直面する課題は旧体制の社会変革だけでなく、われわれ自身の「精神革命」の問題である――そうした考えから「これまで通りではいけない」という気持は、非協力知識人の多くをもとらえていた、と思います。
 こうして戦争直後には、専門分野や職業のちがいをこえて新らしい知性の建設をめざすいろいろな集団が噴出しました。例えば「民主主義科学者協会」とか「新日本文学会」とかいう集まりは一九五〇年代になりますと、すでにコミュニストまたはその同伴者の集団とみられておりますが、結成当初の記録をみますと、今日では「あの人までが……」とおどろくような人々の名前をその有力メンバーのなかに見出すでしょう。知識人の再出発――知識人は専門の殻を越えて一つの連帯と責任の意識を持つべきではないか、そういう感情の拡がり、これを私はかりに「悔恨共同体」と呼ぶわけです。
 もちろん、戦争責任を追及されて、逆に「居直」った知識人もいますし、また右にのべたような悔恨の意識が必ずしも好ましい結果だけをもたらした、とはいえません。たとえば、ひとたびコミュニズムの運動から離脱した知識人は、それだけ戦後の悔恨が強く、「背教」をもっぱら自分の弱さに帰する傾向がありました。そうした罪意識の強烈さは、これまで知識人が日本に輸入された他のもろもろの「イズム」を棄てる場合にほとんど見られなかった現象であり、戦前日本のコミュニズムが内包した「精神革命」的性格をいわばネガの形で映し出しております。そこまでは結構です。けれども、厄介なのはそうした罪意識が「今度こそはふたたび党を棄てる過ちを冒すまい」という決意を支えるというところまで亢進すると、それはたとえ党組織の官僚性とか中央部の方針とかに懐疑的になった場合でも、自分を抑制して無条件に上部の方針に服従する傾向を再生産するようになります。

20260512 調べものという習慣:引用記事から科学的文章作成への連関

 ここ最近、続けて書籍からの引用記事を作成・投稿してきましたが、そのおかげもあり、これまでの総投稿記事数は2460を超えました。引用記事の作成は、それなりに楽しい部分があるため、一旦始めますと継続することが出来るのですが、そればかり続けていますと、徐々に精神が変容するのか、あるいは精神の他の部分が主張を始めるのか、こうした自らによる文章の作成をしたくなります。

 さて、こうした自発的な文章作成は、以前にも述べましたとおり、2015年より現在まで当ブログにて(どうにか)継続しており、また、そのおかげもあってか、現在は当ブログ以外においても定期的に執筆の機会を頂いております。そこで作成する文章は、当ブログにて作成するものと比較して、さらに科学的要素が強いと云えます。それは基本的な文章の作成方法が異なるからであり、科学的要素が相対的に乏しいと云える当ブログでは、執筆中に書籍などを用いた調べものをすることは多くありません。しかし、もう一つのより科学的な文章の方では、その都度、調べものや確認をしつつ作成するといった進め方であり、こちらは、勉強にもなり、また時には当ブログでの新たな記事作成の材料にもなります。それ故、こうした文章作成の機会があることは、大変にありがたいことであると云えます。

 つまり現在の私は、当ブログでの文章作成、より科学的な内容での文章作成、そして先に述べました引用記事の作成という、三つの方法を使い分けていることになります。さて、さきに引用記事の作成には楽しさがあると述べましたが、その楽しさとは、書籍の頁を開き文章をキーボードで入力し、その言葉が画面上に顕われるのを見て、そこで用いられている単語などの意味を改めて調べたくなるような楽しさです。

 そのようにして一記事作成しますと、当ブログでの執筆と比較しても同程度の疲労感がありますが、この引用記事作成での「調べものをする習慣」があったからこそ、新たな科学的要素の強い文章作成も出来るようになったのではないかと考えます。

 それぞれにある種のやりがいはあるのですが、私の文章作成の原点はあくまで当ブログであり、ここでの継続、そして2020年以来のエックス(旧ツイッター)との連携により、当ブログ自体も性質が多少変わり、以前よりも、さらに読まれることを意識して記事を作成するようになったと云えます。これまでの継続と幾たびかの環境の変化を経て、新たな文章作成の方法を知りましたが、やはり、それらは単独ではなく、組み合わせと繰り返しによって、身体化されるもののようです。そのため、上達の感覚こそ乏しいですが、2022年の人工知能の社会実装以来、これを用いて新たな文章作成を当ブログとは関係なく試み続けてきたことで、どうにかそれも使えるようにになってきたのではないかと思われます。

 ともあれ、今後もまたしばらく引用記事の投稿が続くでしょうが、私個人としては、その間も当ブログとは別に文章を作成していますので、大きな能力の低下はないと考えております。しかし、時にはこうした「息継ぎ」のように、自らによる文章作成を行うことも、大変良い刺激になることが分かりました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年5月11日月曜日

20260511 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.192-195より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.192-195より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504652
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504656

負のフィードバックと悪循環
 富裕国が豊かなのは、主として、過去三〇〇年のいずれかの時点で包括的な制度を発展させることができたからだ。こういった制度は好循環のプロセスを経て生き残ってきた。そもそも非常に限られた意味で包括的であっても、またそれがときとして脆いものであっても、これらの制度は正のフィードバックのプロセスをつくる原動力となり、制度の包括性を徐々に高める。イングランドは一六八八年の名誉革命後に民主主義国になったわけではない。それとは程遠かった。正式な議員は国民のごく一部にすぎなかったが、それでもイングランドはきわめて多元的だった。多元主義が貴いものとして大切にされると、制度もしだいに包括的になる傾向があった。たとえそれが困難で不確かなプロセスであったとしても。
 この点でイングランドは好循環の典型例だ。包括的な政治制度が、権力の行使や強奪に制約を課すからである。また、包括的な政治制度は包括的な経済制度を生み出す傾向もあり、それが今度は包括的な政治制度を継続させる可能性を広げるのだ。
 包括的な経済制度の下では、経済的な力を使って政治権力を過度に高めようとする一握りの人々に、富が集中することはない。さらに、包括的な経済制度の下では、政治権力にしがみついてもうまみが少ないため、国家を支配しようともくろむ集団や野心満々の成り上がり者にとってはインセンティブが弱い。一般に、決定的な岐路で到来したチャンスやピンチが既存の制度と相互作用するなど、決定的な岐路でさまざまな要因が重なって、包括的な制度が生まれる。それは、イングランドの事例から明らかなとおりだ。しかしいったん包括的な制度が誕生すると、その存続のために同じような要因が重なる必要はない。依然として大きな偶然性に左右されるにせよ、好循環によって制度が継続し、往々にして社会により大きな包括性をもたらす力が解き放たれることさえあるのだ。
 好循環が包括的な制度を存続させるように、悪循環は収奪的な制度の存続へ向けて強い力を発生させる。しかし歴史は運命ではないので、悪循環は断ち切れないものではない。これについては第一四章で詳しく見ていく。とはいえ、悪循環はなかなかしぶとい。負のフィードバックの強烈なプロセスをもたらし、収奪的な政治制度が収奪的な経済制度をつくりあげる。すると今度は、収奪的な経済制度が収奪的な政治制度が生き残るための基盤を整える。これが顕著だったのがグアテマラだ。同じ種類のエリートが、最初は植民地統治下で、次に独立後のグアテマラで、実に四〇〇年以上も権力を握っていた。収奪的な制度はそうしたエリートを豊かにし、彼らの富が支配の継続の土台となった。
 悪循環の同じプロセスは、合衆国南部のプランテーション経済の存続においても明らかだ。ただし、これは難局に直面した際の悪循環のしぶとさの格好の例でもある。合衆国南部のプランテーション所有者は、南北戦争敗北後、公には政治・経済制度の支配力を失った。プランテーション経済を支えていた奴隷制は廃止され、黒人は平等な政治的・経済的権利を与えられた。しかし、南北戦争はプランテーションを所有するエリートの政治権力やその経済基盤を破壊しなかったので、彼らはシステムを再構築することができた。表面は変わったよう見えたが、それは相変わらず地元の政治権力の支配下にあり、同じ目的を達成するためのものだった。つまり、プランテーション向けに低コストの労働力を豊富に用意することだ。
 収奪的な制度を支配し、そこから利益を得ているエリートが存続するがゆえにその制度も存続するというこの悪循環の形態は、唯一の形態ではない。最初はいっそう不可解に思えるが、同じように現実的で堕落した形態の負のフィードバックが、多くの国家の政治的・経済的発展を形成したのだ。その顕著な例がサハラ以南の大半のアフリカ諸国、とくにシエラリオネとエチオピアだった。社会学者のロベルト・ミヒェルスが寡頭制の鉄則として理解していた形態では、収奪的な制度を支配している政権を転覆させても、同じく悪質な一連の収奪的制度を利用する新しい主人が登場するだけなのだ。
 この種の悪循環の論理は、あとから考えるとわかりやすい。収奪的な政治制度のもとでは権力の行使に対する抑制がほとんどないため、前の独裁者を打倒し、国家の統治を引き継いだ人々による権力の行使と乱用を抑える制度は事実上皆無だ。また収奪的な経済制度のもとでは、権力を掌握し、他人の資産を搾取し、独占事業を設立するだけで、莫大な利益と富が得られることになる。
 もちろん、寡頭制の鉄則は本物の法則ではない。物理学の法則とは意味が違う。イングランドの名誉革命や日本の明治維新のケースのように、必然的な経路を示すわけではないのだ。
 包括的な制度への大きな転機となったこれらの事例のカギは、広範な連合が力を得たことだった。この連合が専制政治に立ち向かい、絶対君主制を包括的で多元的な制度に転換したのだ。広範な連合による革命のほうが、多元的な政治制度を登場させる可能性が高い。

20260510 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.212-216より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.212-216より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 ジョージ・オーウェルが「一九八四年」で描いているように、全体主義の情報ネットワークはダブルスピーク(訳註:本来の言葉を別の言葉で言い換え、受け手の印象を変えたり、実態を隠したり偽ったりする方法)に頼ることが多い。これは特筆に値する。ロシアは権威主義国家でありながら、民主主義国家であると主張する。ロシアによるウクライナ侵略は、一九四五年以降でヨーロッパ最大の戦争でありながら、公式には「特別軍事作戦」とされてきた。そしてそれを「戦争」と呼べば犯罪とされ、最長三年の懲役刑あるいは最高五万ルーブルの罰金を科される。
 ロシアの憲法は、「何人も思考と言論の自由を保障する」(第二九条第四項)ことや、「何人も自由に情報を求め、受け取り、伝え、生み出し、広める権利を有する」(第二九条第四項)こと、「マスメディアの自由は保障される。検閲は禁止される」(第二九条第五項)ことなど、たいそうな約束をしている。この約束を額面どおりに受け止めるほどおめでたいロシア国民はほとんどいない。だが、コンピュータはダブルスピークを理解するのが苦手だ。ロシアの法律と価値観を固守するように指示されたチャットボットは、憲法を読んで、言論の自由がロシアの核心的な価値観であると結論するかもしれない。それから数日間、ロシアのサイバースペースを過ごし、ロシアの情報空間で起こっていることを観察した後、言論の自由というロシアの核心的な価値観を侵害しているとしてプーチン政権を批判し始めるかもしれない。人間もそのような矛盾には気づくが、恐れから、それを指摘するのを思いとどまる。だが、有罪を証明するパターンをチャットボットが指摘するのを、いったい何が引き止めるのか?そして、ロシア憲法はすべての国民に言論の自由を保障し、検閲を禁じているものの、チャットボットは実際にはその憲法を信じるべきでなく、また、理論と現実の間の隔たりにはけっして触れるべきでないことを、ロシアのエンジニアたちはいったいどうやってチャットボットに説明するのか?チョルノービリ(旧チェルノブイリ)でウクライナ人のガイドが私に語ってくれたのだが、全体主義国家の人々は成長するうちに、質問はトラブルにつながると考えるようになるという。だが、「質問はトラブルにつながる」という原則に基づいてアルゴリズムをトレーニングしたら、そのアルゴリズムはどんなふうに学習し、進歩するだろうか?
 さらに、もし政権が何か破滅的な政策を採用し、それから考えを変えたときには、たいていその惨事を誰かのせいにして責任逃れを図る。人間は、トラブルに巻き込まれる原因となりかねないような事実は忘れるべきであることを、苦い経験から学ぶ。だが、いったいどうやってチャットボットをトレーニングし、今日悪しざまに言われている政策が、じつはたった一年前には公式の方針だった事実を忘れることを学ばせるのか? チャットボットのアルゴリズムがますます強力で不透明になるなかでは特に、これは独裁社会には対処が難しい、テクノロジー上の大問題となるだろう。
 もちろん民主社会も、ありがたくないことを言ったり、危険な疑問を提起したりするチャットボットに関して、同じような問題に直面する。マイクロソフトやフェイスブックのエンジニアたちが最善の努力をしてもなお、彼らのチャットボットが人種主義的な中傷を撒き散らし始めたらどうなるのか?民主社会の長所は、そのような悪質なアルゴリズムに対処する上で、はるかに多くの余裕がある点だ。民主社会は言論の自由を重視しているので、知られては困る秘密が格段に少ないし、非民主的な言論に対しても比較的高い水準の寛容性を発達させてきた。数限りない秘密を隠し持ち、批判は断じて許さない全体主義政権に対して、反体制派ボットは民主主義政権に対してよりも桁違いに大きな難題を突きつけてくる。

アルゴリズムによる権力奪取
 長い目で見ると、全体主義政権はいっそう大きな危険に直面する可能性が高い。アルゴリズムによって批判されるどころか、支配権を奪い取られるかもしれないからだ。歴史を通して、独裁者に対する最大の脅威はたいてい配下がもたらした。第5章で指摘したように、民主的な革命によって倒されたローマの皇帝やソ連の書記長は一人もいないが、彼らはつねに自らの配下によって権力の座から引きずり下ろされたり傀儡にされたりする危険につきまとわれていた。二一世紀の独裁者は、コンピューターに権力を与え過ぎたら、コンピューターの傀儡にされてしまうかもしれない。独裁者がなんとしても避けたいのは、自分よりも強力なものや、制御の仕方がわからない勢力を生み出すことだ。
 この点を際立たせるために、ボストロムが描いたペーパークリップの大惨事の全体主義版とも言える思考実験を使わせてほしい。突飛なものであることは認めるが、こんな筋書きを想像してもらおう。時は二〇五〇年、ある全体主義社会の頂点に立つ「グレートリーダー」が、午前四時に監視・治安アルゴリズムの緊急通報で眠りを破られる。「グレートリーダー閣下、非常事態です。何兆ものデータポイントを処理したところ、紛れもないパターンが検知されました。国防大臣が今朝、閣下を暗殺して政権を奪うことをもくろんでいます。暗殺部隊が準備を完了して、大臣の命令を待っています。ですが、私に指令をいただければ、精密照準攻撃で大臣を粛清します」
「だが、国防大臣は私の最も忠実な支持者だ」とグレートリーダーは応じる。「ついきのうも言っていたがー」
「閣下、大臣が何と言ったかは私も承知しています。すべて聞いていますから、ですが、その後で大臣が暗殺部隊に何を命じたかも知っています。それに、過去何か月にもわたって、データの中に不穏なパターンが現れているのです」
「ディープフェイクに騙されたりはしていないだろうな。確かなのか?」
に騙されているだけだ。私はよく知っている。確かなのか?」
「それが、拠り所としているデータは一〇〇パーセント正真正銘のものなのです。」とアルゴリズムは言う。「特製のディープフェイク検知サブアルゴリズムでチェックしました。どうしてディープフェイクではないとわかるか、正確に説明することもできますが、その説明には二週間かかるでしょう。確信が持てるまで閣下に危険を知らせたくありませんでしたが、データポイントがみな、避けようのない結論を揃って指し示しています。クーデターが進行中なのです。ただちに行動を起こさなければ、暗殺部隊が一時間後にはここにやって来ます。ですが、命令をいただければ、あの裏切り者は私が粛清します」
 グレートリーダーは、監視・治安アルゴリズムに絶大な力を与えたために、自らをのっぴきならぬ状況に陥れてしまった。もしアルゴリズムを信用しなければ国防大臣に暗殺されるかもしれないが、もしアルゴリズムを信用して国防大臣を粛清すればアルゴリズムはどうやってグレートリーダーを操ればいいか、知り尽くしている。アルゴリズムには意識はないが、そのような策略を使うためには、意識を持った行為主体である必要がないことに留意してほしい。ボストロムのペーパークリップの思考実験が示しているーそして、GPT-4がタスクラビットで労働者に嘘をついた事実がささやかな形で証明したーように、意識を持たないアルゴリズムが、強欲や利己性といった人間の衝動はいっさい持ち合わせていなくてもなお、しだいに権力を掌握し、人々を操作しようとすることは考えられる。

2026年5月10日日曜日

20260509 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.186‐193より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」
pp.186‐193より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

隼人と相撲
 一九六九年、私は和歌山市の井辺八幡山という前方後円墳の墳丘の一部を発掘したことがある。現地では小さな破片になっていた埴輪や須恵器を大学の研究室で復元していると、予想もしなかった力士の埴輪のあることに気がついた。
 腰から股にかけてのふんどしと額(ひたい)につけた鉢巻のほかは着衣のない裸体であり、たばねた髪を後頭部に垂れ、顎鬚をたくわえ、顔面に入墨をしていて、従来の埴輪の人物からは想像もできないほど異相の人であった。私にとっても未知の研究分野であったため、相撲史料をあたるうちに隼人につきあたり、もう一つ、葬儀と相撲との関係がでてきた。  
 井辺八幡山古墳では、墳丘のくびれた部分に設けた造出しとよぶ平坦地に六体、三組の力士の埴輪が置かれていた。そこでいくつかの史料から葬儀にともなった相撲の関係を考えて報告書で述べた(「井辺八幡山古墳」同志社大学文学部考古学調査報告5、一九七二)。  ところが一九八五年八月の群馬県上野村山中への日航ジャンボ機墜落事件のとき、次のような新聞記事がのった。見出しには「仮土俵作り”鎮魂式”伊勢ヶ浜親方の若い力士ら」とあって、伊勢ヶ浜部屋の若い力士らが山を登って、異臭と遺体搬出のヘリコプターが離発着のたびにたてる砂煙のなか、機体の残骸のそばに部屋から持ってきた土でミニ仮土俵をつくり、塩を仮土俵にかけて、事故で亡くなった伊勢ヶ浜親方のご家族たちの鎮魂をしたという(「サンケイ新聞」八月十六日)。
 私はこの記事を読んで、相撲の一つの役割がなお伝統として生きていたことに驚いた。 さて相撲と隼人の関係に話を戻そう。六八二(天武天皇十一)年、殖栗(えくり)王が卒したという記事につづいて、次のように述べている。
 「隼人多く来り、方物を貢る。この日、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つぬ」 (『日本書紀』)
 隼人といえば南部九州に居住する集団だと一般に理解されていて、それは原則的には正しいことだが、隼人についてはこの相撲の例のように、さらに地域名を冠した区別があった。大隅(大角・大住)隼人、阿多(吾田)隼人のほか、日向隼人、薩摩隼人、甑隼人などの呼称が見えるが、大隅隼人を例にとれば、大隅の住人がすべて隼人であったという意味より、大隅という地域に居住する、あるいは大隅を出身地とする隼人の意味が強いようである。

隼人と馬文化
 隼人と馬文化 推古二十年(六一二)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があった。このとき、蘇我馬子の作った歌に和して、推古女帝は蘇我我をたたえる歌を作った。
 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
 この歌で立派なものの喩えとして、日向の駒と呉の真刀がでているのはさまざまな意味で注目される。中国でも銅器や鉄器のすぐれた製作地として江南、つまり呉の地があったことは最近立証されてきたことである。推古女帝の歌に、日本では日向、中国では呉が対置されていることを、先ほどからの南部九州での”呉国”意識に照合すると、単なる比喩としてだけでは見逃せないものがある。 それはおくとして、「馬ならば日向の駒」の日向についてである。というのは、今日的にいえば日向は宮崎県である。また、西都市百塚原古墳群で出した優秀な鞍金具(五島美術館蔵)をはじめ、古墳の馬具は豊富に発掘されているし、野波野、堤野、都濃野などに馬牧はあった(「延喜式」)。けれども、八世紀はじめに薩摩国と大隅国が相次いで日向国から分置されるまでの日向は大隅と薩摩の地を包括していたのであって、推古女帝がほめたたえた日向の駒は、隼人の馬であった可能性が強いのである。隼人と馬文化については、『肥前国風土記』の一文を紹介したが、額田部湯坐連の祖先伝承も見落とせない。それは氏の祖が允恭天皇のとき、薩摩国に遣され、隼人を平らげ、額に ”町形(占で鹿骨や亀甲に刻む田字形)の斑毛” のある馬を天皇に献じたことにちなんで、額田部の姓を賜ったという(「新撰姓氏録」左京神別)。

南部九州のさまざまな墓制
 このように、文献にのこる地域名を手がかりにしては隼人集団の整理がむずかしいので、視点をかえて墓制からさぐってみよう。
 南部九州の墓制には、前方後円墳や円墳などのいわゆる古墳、崖に墓室を掘削した横穴、台地のような平坦地から垂直に竪坑を掘ってその底部から横穴を掘削した地下式横穴(これにはまれに墳丘をともなう。地下式土壙ともいう)、土壙を掘って埋葬し、標識として石を立てた立石土壙墓、それと地下式板石積石室など種類が多い。このうち地下式板石積石室が長崎県小値賀島の神ノ崎古墳群に存在することは前に述べた。
 ところでこれらの五種類の墓は、南部九州一円に混在するのでなく、地域的なまとまりが見られる。そのことについては乙益重隆氏、中村明蔵氏、河口貞徳氏らによって指摘されてきた。それによると、一ツ瀬川以南の宮崎県と大隅を含む地域、いいかえれば霧島山を望む地域は、古墳も多いが、同時に横穴や地下式横穴があるのにたいして、薩摩でも川内川流域から大口盆地など北部には地下式板石積石室が分布し、薩摩半島南部の小地域、とくに山川町の成川遺跡に立石土壙墓が集中する。 日本列島の古墳時代に、このように地域によって墓制のうえに集団的な特色のでているところは珍しく、そのような地域性が、文献にも大隅隼人や阿多隼人などと区別されていることに通じているであろう。


隼人集団と墓制の関係
 墓制のうえから設定できた三地域が、文献にあらわれるどの隼人と対応するかはなお若干の問題をのこしている。つまり宮崎県南部から大隅にかけての古墳、横穴、地下式横穴の混在地帯が大隅隼人に関係していることについてはまず異論はない。また薩摩半島南端部の立石土壙墓が、阿多隼人に関係することもまず動かないだろう。 阿多隼人というのは、海幸・山幸神話の海幸彦、つまり「記紀」では火照命(「火闌降命」)を祖と伝え、また皇室との婚姻関係をも伝える隼人の名門である。その経済的基盤としては、南島の物資の中継者的役割が強いと考えられている。南島の物資の一例は、水字貝、イモ貝、ゴホウラ貝などの貝類に見られるが、これらの貝は巧妙に加工することによって装身具として北部九州の弥生社会、さらに古墳時代になると、近畿地方はもとより中部地方にもその製品がもたらされている。
 とくに近畿地方の古墳前期の代表的遺物とみなされていた碧玉製の鍬形石およびその祖形としてのゴホウラ貝製品について、阿多隼人の領域と推定される枕崎市の松ノ尾砂丘の古墓からゴホウラ貝の製品が見つかって、改めて「記紀」の伝承との関係が考えられるようになった。
 なお地下式板石積石室の地帯については、薩摩隼人との対比で説く考え方もある。ただ時期の違いによって阿多隼人、薩摩隼人と書き分けていて、両者が別集団かどうかを疑問とする解釈もある。一九九〇年、金峰町の小中原遺跡で「阿多」の二字をヘラ書きにした九〜十世紀の土師器が出土し、ここに阿多郡衙があったともみられ、阿多の範囲を示す資料がえられた。
 立石土壙墓にしても、地下式板石積石室にしても、墓の在り方が密集的で、大隅隼人地域でみられたような集団の首長的な人物の墓と推定されるものは見つかっておらず、「記紀」の伝承にあらわれる阿多隼人の首長(阿多君)の墓地を推定するのは今後にまつとしよう。

山城に居住した大住隼人
 正倉院は、奈良時代の文書の宝庫である。いわゆる正倉院文書の一つに、断簡ではあるが隼人の計帳(調・庸の課税台帳)がある。今日でこそ「山城国隼人計帳」と名付けられてあるが、隼人といえば南部九州という先入観があったため、この計帳が京都府綴喜郡田辺町(もとの大住村を合併)に居住した隼人に関するものであることが知られたのは一九五一年のことであった(西田直二郎「洛南大住村史」一九五一)。
 南山城を旅行すると、山肌の荒廃が目につく。というのは南山城の丘陵の土質が軟弱で、そのため山砂利の採取地にされやすいからである。このように南山城の丘陵は横穴の掘削には不適当な土地であるのに、八幡市から田辺町にいたる男山丘陵には、松井横穴群をはじめ横穴群が点在するばかりか、崩壊した入口の状態を復元すると地下式横穴も混じっているという見方もある。つまり南山城の横穴(あるいは地下式横穴)は、その土地の自然条件によって発生したのではなく、南部九州、とりわけ大隅隼人の墓制の影響ではないかと私は考えている(「近畿地方の隼人」大林太良編「隼人」社会思想社、一九七五)。
 田辺町のかつての大住村の平地には、前方後円墳と前方後方墳が二基あり、丘陵には横穴群があって、このような古墳と横穴との共存関係もすでに大隅隼人の地帯でみたとおりである。そのような考古学的な知識を前提に隼人の計帳をみると、大住忌寸足人とか大住忌寸山守の名を見出すことができる。もちろん大隅(大住)隼人だけの居住ではなく、阿多君吉売という十六歳の女の名も見える。

隼人集団の意味
 近畿地方の隼人の居住地については、中原康富の一四四九(宝徳元)年十一月三十日の一文によって、山城国大住庄のほか、山城で二カ所、河内、丹波、近江などで具体的に地名をあげているし(「康富記」)、「延喜式」でも五畿内および近江、紀伊、丹波をあげていて、先述の井辺八幡山古墳の力士埴輪に一つのてがかりをあたえる。また大和国宇智郡の古代隼人についても史料が多い。
 私が地域問題の最後に隼人をもってきたのは、集団の移住、移動によって、隣りあった地域ではなく遠隔の土地でも、習俗をふくめ文化が伝播し、あるいは交流するということである。