2017年6月12日月曜日

20170612 2012年夏の出来事に基づいた対話

昨日は二つの記事を投稿し、また本日の日中は動き、仕事以外でPC・スマホを見る時間はありませんでしたが、先ほど帰宅し、ブログの閲覧者数を確認しますと、驚いたことに、これまでにない程多くの閲覧者数となっておりました・・。

正直なところ未だに半信半疑であり『これは一体どうしたものか・・?』と思っておりますが、いずれにしましても読んで頂いた皆様どうもありがとうございます・・。

とはいうものの、本日は朝から頭が痛く、これは昨晩寝る間際に点けた冷房によるものではないかと思われましたが、この原因も未だよく分かりません・・。

それでも本日分の記事作成を行うべく、また、さきに書いた閲覧者数によって多少勢い付き、現在このように記事作成を行っている次第です・・(苦笑)。

さて、つい先日知人と話しておりますと、以下のようなハナシとなりました・・。

※以下対話形式
A「そういえば2012年の夏に隣国の大統領が日本海に浮かぶ我が国固有の領土とされる島に上陸していから一気に国内の輿論が硬化したように記憶していますが、どうですか・・?」

B「ええ、あの出来事は確かに衝撃的でした・・。
私もどちらかというと右寄りではないはずですが、自国の領土であることが自明であるとされる場所に、いきなり隣国の元首が上陸してくるといった出来事は、やはり驚くに値することです・・。
また、それで思い出すのは、漠然と感じたことではありますが、あの時顕著に、そして急激に態度が硬化したのは、男性よりも女性の方ではないかということです・・。
それにより、割合国内で人気の高かった各種韓流モノとは、現在に至るまで徐々に影を潜め、衰退していったのではないかと思われます・・。」

A「ああ、それはたしかに私も感じました・・。
さまざなな文化的事物が流入することに対し、一般的に女性とは男性より寛容且つ、それを喜んで自分なりに受け入れるところがあるように思われますが、それが、こと領土といった具体的な国土に対する侵害と受け止められる行為に対しては、男性以上に敏感なセンサーらしきものを持っているのではないかと感じさせられますね・・(笑)。」

B「ええ、それはたしかにそうですが、しかし一方で隣国からすれば、特に近代以降の我が国とは、自国に対して実質的な植民地支配を行った国であり、且つ最終的には敗れた国でもありますので、何かしら自国内の不満をぶつけるのに適当な国なのでしょうね・・。
また、我が国も我が国で歴史問題などに関しては信じられないほど無神経であると思うことがありますし・・。
時折聞く『日本は朝鮮半島を植民地化していなかった』といった言説などは本当に単なるコトバ上のみのものであって、それは実際の『歴史』とは全く関係のないものであると思えるのです・・。
あるいはそうした独特のコトバの運用の仕方とは、我が国の自殺率が高いことや、ブラック企業が根絶しないことにも親和性があるのではないでしょうか・・?
そしてまた、そうしたコトバの運用・論法などを見聞きしますと、甚だ嬉しくないことにさまざまな場面にて、これと類似した手法にて事態を説明、釈明するのが我が国の特徴、傾向の一つではないかとも思えてくるのです・・。
おそらく、各国はこうした我が国における傾向に対し、言語は違えども、何といいますか「精神構造の違いに起因する薄気味の悪さ、同様のことに起因する内面、良心の欠如」といったものを強く、漠然と感じているのではないでしょうか・・それは太平洋戦争中に見られた帝国陸海軍のある種の異常とも云える攻撃精神そしてそこからの行動のように・・もしかすると、彼等の中では、それらの間には連続性を見出せるのかもしれません・・。」

A「・・ええ、仰りたいことよく分かります・・。
また、そういったことをお聞きしますと、私はどうも大岡昇平著の「俘虜記」を思い出してしまうのですが、そうしますと今度はどうも『我が国の社会、組織全般には自浄作用といったものが無いのかもしれない・・?』と考えさせられるのです・・(苦笑)。
また、司馬遼太郎や村上兵衛の晩年の苦悩は、そうしたことを既に直覚していたことに因るのではないだろうか・・?とも考えさせられるのです・・。」

B「しかし私は、我々日本の国民は各国からの観察者と同程度に賢明であり、現在のこのさまざな混乱を試験管やウェルの中での出来事、反応などのように観察し、機を見て悪しきものをまとめて取り除くことを企図しているのではないかと思われる一面もあるのです・・。」

A「・・たしかにそう願いたいところではありますが、それでしたら何故、過去においては太平洋戦争にまで突入してしまったのでしょうか・・(苦笑)?」

B「ええ、まさしくそこに大岡昇平の「俘虜記」の時代、つまり太平洋戦争の時代から進化した何か新しく良いものがあるのではないかと私には思われるのです。」

A「なるほど・・それはあくまでも仮説でしょうが、しかし同時に大変期待を抱かせるものですね・・(笑)。」

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださり、どうもありがとうございます。

昨2016年
、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震により被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後のすみやかな復興を祈念しております。






2017年6月11日日曜日

20170611 650記事に到達して思ったこと・・余聞

A「さて、さきほどの記事投稿により総投稿記事数が650に到達しましたが、やはりこれといった感慨らしきものは湧いてきませんでした・・(苦笑)。

また、次の目標は700記事ということになりますが、現在の記事投稿頻度を維持しますと、おそらく8月初旬迄には到達することが出来るのではないかと思われます・・。

また、それに加えてもう少し遠大な目標を立てるとすれば、何時頃になるか分かりませんが、あまり無理をすることなく記事作成を継続し1000記事まで到達することが出来れば、良いと考えております・・。

また、総投稿記事数を1000を目標としますと、今現在では、その三分の二にも達しておらず、今後17記事を作成、投稿し667記事にまで到達すれば、そこに達したということになりますが、そのように考えてみますと、ここから667記事到達への17記事あまりの作成もまた多少やる気が湧いてきますが、とりあえず今後もあまり焦ることなく、落ち着いて記事作成を継続していこうと思います・・。

とはいえ、正直なところ、ブログ記事作成当初は現在の投稿記事数650までも継続することが出来るとは思ってもみませんでした・・。

しかし実際ここに至ってみますと、何となく「ここまで来たなあ・・」といった感じであり、また今後の目標とする700記事到達においても「到達できるかどうかは分からないけれどもとりあえずやってみるか・・」といった感じであり、これまた正直なところ、あまり喜怒哀楽の感情を生じせしめるようなものはありません・・。

また、このことは以前と比べて徐々に変わってきたことでもありますので(当初は比較的ある区切りの良い記事数への到達を割合喜んでいた)この変化とは、一体どのような内面の経緯により為されたのかとは、なかなか面白く気になるところでもあります・・(笑)。

あるいは単純に自身の感情といったものが鈍磨しているだけなのでしょうか・・(笑)?

しかし、もしも実際に感情が鈍磨しているのであれば、ブログ記事作成の継続など望まず、もっと簡単に楽しむことが出来る他の何かに興味を持ち、それを行うのではないかとも思われます・・。

いずれにせよ、こうしたことも、もう少し記事作成を継続してみないと今以上明瞭に分かることはないと思われますので、とりあえずは、もうしばらく記事作成を継続することにします・・(笑)。

ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
今回の記事は同日作成記事の余聞のようなものです。







20170611 おかげさまで650記事に到達しました。文章を書く際の緊張感・・弁証法?

本日の記事投稿で投稿記事が650に到達します。

また、先日来よりSNSとの連携を試験的に行ってみたところ、閲覧者数が増加し昨日は、ここ最近では見られない程多くの閲覧者数を得ることができました・・。

とはいえ、このようなSNSとブログとの連携を自身で行っておきながら、以下のようなことを書くのも矛盾しておりますが『多くの方々に記事が閲覧されているという自覚』とは、どうやら(それに慣れるまでは)記事作成においては必ずしもプラスではなく、どうも萎縮してしまうといった要素も少なからずあるように思われるのです・・(苦笑)。

しかし同時に、さきの自覚とは、記事を書く上において、自身に緊張感を生じさせることから、書く記事の内容に対しても、より深く考えさせる効果もまたあるように思われます・・。

そして、この双方要素の内面での葛藤こそが自身の場合、ブログ記事作成の『力』となっているのではないかと思われるのです。

それでもやはり、こうしたものも他のさまざまなことと同様にバランスが大事であり、緊張感ばかり大きくなりますと萎縮して記事作成が困難な状態となり、一方それが皆無であれば、書かれる内容もまた、意図しないことながら無意識に手を抜いてしまうといった傾向があるように思われます・・。

それ故、おそらく自身にとって最も望ましい展開とは、ある程度の『量』の記事作成によって閲覧者数が増大することに伴い生じる緊張感に耐え得る、それを記事作成に対してプラスに転化し『記事内容、質』の向上が為し得る自身に漸進的に進化発展を遂げることではあるのでしょうが、実際にはそこまで単純に行くものでもなく、もっと込み入った複雑な事情が存在するものと考えます・・(苦笑)。

また、以上のことを一般化するのもまた単純過ぎるのではあるのでしょうが、ものごとの進化発展の背景とは、概ねそのようなものではないでしょうか・・(笑)?

ともあれハナシを冒頭に戻し、今回の記事投稿によって投稿記事数が650に到達するわけですが、あまり実感や感慨なども湧かず『じゃあ次は700記事かな・・?』といった考えがボンヤリと出てくる程度です・・(笑)。

そして、そのようなことを書いておりますと、さきには『記事作成における緊張感は必要である』といった意味のことを書いたにもかかわらず、それらの蓄積である投稿記事数に対しては意識していないことはないものの、緊張感を含む感慨といったものをあまり持ち得ないこととは、なかなか面白い、あるいはまた多少一般化し得る心的傾向といったものを垣間見ることが出来るのではないかとも思われましたが如何でしょうか・・(笑)?

また、ブログ記事作成が創造の一つであるとするならば、そこには、創造という行為の背景にある、何かしらの傾向、特徴を示しているのではないかとも考えられます・・。

ともあれ、今回650記事に到達し、以上のようなことを書くことが出来る背景には、面白いものばかりではない、一連の投稿記事を(継続的に)読んでくださって方々がいらっしゃるからであることは間違いないことです・・。

おかげさまで650記事に到達することが出来ました。
そして今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださり、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」








20170610 SNSとブログ記事を連動させて思ったこと・・直観・直覚・・帰納?

昨日、試験的にいくつかの当ブログの記事をSNSと連動させてみたところ、明らかな閲覧者数の増加を示しましました・・。

とはいえ、これはこれで自身にとってはプレッシャーとなると考えたことから、毎回の投稿記事を連動させることは、とりあえず控えておきます・・

今後、それに慣れてきた場合、徐々に移行して行けばそれで良いものと考えます。

また、このブログ記事とSNSとの連動に伴い、昨日投稿のブログ記事にて書いた、ここ最近、随分以前に投稿した記事がぽつぽつと読まれている状態がさらに加速、励起されたようであり、冒頭に述べた閲覧者数の増加とは、概ねそのような記事(随分以前に投稿した記事)の閲覧によるものであるのです・・。

さらに加えて面白いことは、それら読まれている記事とは、必ずしも昨日SNSにて連動させた過去の記事ではないということです・・(笑)。

こうなりますと、自身でも、よくその事情、作用機序が分からなくなるところではあるのですが、不思議なことに、その一方で、読まれていた記事と昨日の投稿記事との関連について考えてみますと、どうも私の個人的なこと、いや少なくとも一連のブログ記事や以前SNSにて書いた意外のことを知っているのではないかと考えさせられるのです・・。

とはいえ、このように考えるに至った経緯とは、残念ながら現在の私の文章表現力、言語能力にて端的、簡潔に説明することが困難であり、同時に、その感知されたことは、それを今現在ブログ記事主題として書いている自身のいわば創造の源泉ともいえることから、そう簡単に解明、明瞭化されてしまっては面白くないのです・・(笑)。

こうしたこともまた、以前のブログ記事において書いた学問における論証過程の重要さと通底する何かがあるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・(笑)?

さらに、ここまで書いておりますと、我が国の多くの地域でその伝説がある妖怪『座敷わらし』とは、案外こうした考えが具体的な日常生活において発露されたものではないかとも思われるのです・・。

また、これはある程度一般化され得ることであると思われますが、さまざまなことを調べておりますと或る時点で『コトバにはならないけれども分かった』と感じる時があります。

これは直観、直覚といったものの為せるワザとのことですが、その後さらに倦むことなく調べ、究め続けておりますと、徐々にその感覚が言語化されてきます。

そして、この一連の経緯こそが意識下にて行われていた論証過程が徐々に意識上に顕現してくるといった現象ではないかと考えます・・。

こうしたことを思い至るに及んで、現在私は既に若くはない年齢には達しましたが、未だ時において直観、直覚といったものが働いたことに、多少安堵するのです・・。

いや、あるいはこうした直観、直覚とは、若いうちよりも、ある程度の年齢に達してからの方がよく働くものであるのでしょうか・・?

このことをもう少し考えてみますと、おそらく直観、直覚とは、それがある程度『確からしい』と自覚されるものであれば、それは主体が積んだ経験、学識などもまた同様にある程度の『量』に達していると思われます。

何故ならば、それは参照し得る経験、知識が多いということになりますので(確からしさとは、そのような土台の上に立つ)。

さて、そうした土台、前提の上で、何かの契機、きっかけによって直観、直覚を得るとは、いわば無意識に行われている内面での経験、知識の参照作業に何らかの刺激が加わることによって直観、直覚が発露されるということになると考えられます・・。

そして、それは考え方のモデルでいいますと、帰納法による推論に近いのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

しかしそうなりますと、そこで問題になるのは、では内面にて行われている経験、知識の参照作業を行っている『力』とは一体何であろうか?ということになると思われます。

また、この『力』とは、おそらく勉強、学ぶ『力』ともある程度関連はあると思われる一方、単純に比例、随伴するものでもないのではないかとも思われるのです・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

年、熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」













2017年6月10日土曜日

20170609 記事の着想が得られ難い時にはどのような文章を書けば良いのか・・?

A「どうしたわけか少し以前より、直近の投稿記事ではない、随分過去の投稿記事がポツポツと読まれているような状態が続いております・・。

また、その読まれている記事の間には特に共通性といったものは看取されないことから、今現在においては、そこにどのような『意味』があるのかとは認識することが困難です。

とはいえ、同時にそうした一連の反応から、悪意らしきものをも看取することも困難でありますので、まあ単純に『読んで頂いてどうもありがとうございます。』といった反応が適切なのではないかと思われます・・。

また投稿記事数も650に近づきつつありますが、これといった心境の変化なども生じることはなく、ほぼ毎日このような感じで記事を作成しています・・。

そして、こうしたどちらかといえば単調な『作業』を通して、今後、何かしら新たな変化とは生じるのでしょうか・・?

しかしながら自身の体験に基づきますと、ブログ記事を書いていて、こうした考えが浮かぶのは、概ね新たな着想が得られない時であり、そのことから、こうした考え、視点とは、おそらく、なくしてはいけないものではあるのでしょうが、同時に過度に焦点を当て過ぎても、あまり良いものではないのかもしれないと思われるのです・・(苦笑)。

それはせいぜい、こうした着想が得られ難い状態にもかかわらず、何かを書かなければならない時にしばしば役に立つといったものであるように思われます・・(笑)。

そのように考えてみますと、おそらく一概に文章を書くとは云っても、その内容とは、大きく二つに分けて、外界に対する興味から発するものと、内心への興味による内省的なものがあるのではないかと思われます・・。

つまりは、自身の状態が外界に対し能動的になっておりますと、やはりその書かれる文章もまた、自然そうした内容を取り扱うようになり、一方、内心への興味に傾いておりますと、どちらかというと、そうした文章になるようです・・。

こうしたことは、これまでにブログ記事の継続的な作成のために多少考えたことがありましたが、それでもその原因というものは明確には分かりませんでした・・(苦笑)。

とはいえ、それが分からずとも、こうした(形式が決められていない)ブログ記事を書くというのであれば、さきに書いたように、特に外界への能動性、興味に由って書かれていなかればならないというわけでもないことに気が付き(これは本当に思い込みでした。)、その文章とは、内心への興味に基づくものであっても特に問題はないようです・・。

しかし、ここで少し問題になることは、この内心への興味に基づく文章を書く場合においては、時として、そして意図せずに、自身の普通、一般的ならざるところを顕してしまうおそれがあることです・・(苦笑)。

こうしたことは特に我が国の社会においては強く意識されるところでもあり、おそらくブログなどで生じる『炎上』といった現象も、多くは、こうしたことに端を発しているのではないかと思われます・・。

そのことから、あまりそうしたことを気にしないつもりでいた自身も記事を書き進めるにつれ、徐々に泥沼にはまっていくように身動きが取れない状態に陥り、そこから自分なりに試行錯誤をした結果、対話形式の文体を採り書き続け、再びどうにか文章を書けるようになっていったと一連の経緯を物語ることが出来ます・・。

この対話形式の文章とは、当初より文体をあまり必要としない口語体で書くことが出来、また、その文章が独白形式のように全てが作成者のものとは見做されず、加えて多少フィクション的要素が存在することにより、公開を前提とする文章作成の際に生じる緊張感を和らげるという効果があったのではないかと思われます・・。

とはいえ、こうしたことはあくまでも自身の経験に基づく個人的なものであり、万人に対して普遍的な効果を持つとは断言できません・・。

ただ、記事として書いておいても特に不味いとは思われないことから、今回このように書いておく次第です・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、
熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」







2017年6月8日木曜日

20170608 『思考モデルの援用』『本歌取り』創造のために必要なものとは・・?

先日6月2日投稿分記事の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』は、どうしたわけか投稿後数日を経た現在に至るまで読まれ続けております。

これには何か深い意味があるかは分かりませんが、それでも自身からしますと、書籍からの抜粋引用およびその援用ではなく、まあ『本歌取り』のようなカタチではあり、また、これまでとは多少趣向を変えて作成した文章が比較的多くの方々に読まれていることには、何かしらの『意味』はあるのかもしれません・・。

これは、今後引き続きある程度記事作成を行うことによって、あるいは、その『意味』といったものを明瞭化、言語化することが出来るようになるのかもしれません・・(笑)。

また、そのようなことを書いておりますと、つい先日5日の投稿記事『文章を作成する際のフィラー(充填材)とマトリックス(母材)帰納と演繹?』において『思考モデルの援用』について書きましたが、多少大雑把に考えてみますと、さきの『本歌取り』と、この『思考モデルの援用』とは意味合い的に類似しているのではないかと思われたのですが如何でしょうか・・?

そして、そのように考えてみますと、さきのブログ記事に書いたように、こうした文章であれ、何かしらの作品であっても、それが形式、内容の全てにおいてオリジナルというものを創造することは困難であり、また同様に創造されたもののどこからがコピーであり、どこからがオリジナルであるのかとは、その明瞭な判断もまた困難ではないかと思われるのです・・。

また、我々の現実的な経済活動、競争とは、さきに述べた『思考モデルの援用』『本歌取り』さらに平たく云えば『真似』そして、それに加えた幾ばくかの改善の連鎖、応酬により為されていると云っても良く、こうしたことはさまざまな研究においても同様ではないかと思われます・・。

また、漸進的な進化発展とは、概ねそのような感じで為されていくのが通例ではないでしょうか?

しかしながら、昨今においては、さまざまな事物の作成・製作技術の進化発展により、以前に比べかなり容易に『新たな』事物を作成することが出来るようになりました・・。

そして、そうした事情により経済活動・研究などでの競争(連鎖、応酬)も激化し、どうにも収拾がつかないことから、著作権・知的財産などが声高に叫ばれるようになってきたのかもしれません・・。

とはいえ、そうした規制的な傾向が強まっても、我々の創造活動全般が鈍化しなければ良いのですが、果たして、その先には如何なる展開が待ち受けているのでしょうか・・?

ともあれ、何れにせよ、それを制御することが出来るのは、おそらく技術あるいは法律的な規制などではなく『生きた思想・哲学あるいは固有の歴史・文化』といったものではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか・・?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。









20170607 本日久しぶりに野球観戦をして思ったこと・・

A「本日は仕事も兼ねて朝から神宮球場に行き、野球を観戦しました・・。

野球観戦はかなり久しぶりではありましたが、途中、野球部のOBでもあり文系院時代の知人に、これまたかなり久しぶりにお目に掛かり、しばらくお話をすることが出来ました・・。

それは、あまり強くなかった野球部がどのような経緯を経て強くなってきたかという内容であり、説明する彼は至って冷静な様子で話されてはいましたが、それを聞いていた私は途中、先日読んだ柔道を題材とした小説と何かしらリンクする、重なるものを見出しました・・。

ちなみにその説明してくださった方は、院生時代より『文武両道』というコトバを重視されていたと記憶していますが、大変面白いことに、この傾向とは、歯科理工学の師匠においても類似したものが見出され、そのことから師匠自らが先頭になり、弟子共を引き連れ山登りをされることが多々あったのではないかと思われます・・。

また師匠の方は高校時代サッカー部に所属されていたとのことであり、あるいは後年の山登りにおける健脚ぶりとは、この当時に培われたものであるのかもしれません・・。

さて、昨今の御時世においては、さまざまな面においてそうであるのかもしれませんが、運動もしくは勉強といった、どちらかに特化し練習、強化する方が、その特性、才能を効率よく伸ばすことが出来るという考えが一般論になりつつあるのではないかと思われます。

そしてその一方で、さきに挙げた文武両道的なハナシを聞いたり、また思い出したりしますと、果たして我々人間とは、何かに特化して効率よく才能を伸ばす方が良いのであろうか、あるいは幸せなのであろうか?とも考えさせられるのです・・。

とはいえ、こうしたことは、おそらく欧米においては、かねてより議論され続けたことであり、先日抜粋引用したミルの著した文章もまた、その背景には、こうした大きな疑問があったのではないかと思われるのです・・。

そして、欧米においては、こうした議論の際に多く出てくるのが『一般教養の重要さ』であるのですが、近代以降の我が国の場合、後発工業国という事情もあってか、どうも一般教養の重要さといった議論が出てくること自体が少なく、またそれ以前に『その一般教養とは何であるか?』といったことにおいても、実はコンセンサスはないのかもしれません・・(これも近代以降に欧米化を遂げた我が国としては難しい問題であるのかもしれませんが・・)。

ともあれ、では『一般教養』と、さきの『文武両道』がどこで結節するのかと考えてみますと、それは根源における『能動性』ではないかと思われます・・。

またそれを異言しますと『自らの内からの力によって、元からのセンスの良し悪しはともかく、何を選び、そしてどのようなことを行ってきたか』ということではないでしょうか・・?

そして、それを自らの内からの力によって行うその根源には、何かしら思想、哲学(思い込みかもしれないが・・)といったものがなければ疲弊、枯渇してしまうのではないでしょうか・・?
(その意味では、現在の社会とは過度に科学的ともいえ、思想、哲学あるいは思い込みを抱き難い社会であるのかもしれません・・)。

無論、こうしたことは自身のブログについても同様であり、ある意味これを継続して作成していることとは、そうしたことの自問自答の一形態であるとも云えるのです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」