pp.134-139より抜粋
ISBN-13 : 978-4296124862
西洋文明という巨大かつ堅牢な概念をぶち壊そうとする挑戦は1960年代から本格的に始まったが、おそらく頂点に達したのは、1978年にエドワード・サイードの「オリエンタリズム」[邦訳・平凡社]が出版されたときだろう。ロンドン・レビュー・オブ・ブックス誌のアメリカ人編集者アダム・シャッツは、初版から40年後の2009年に発表した論文の中で、「オリエンタリズム」は「戦後の知の歴史において最も影響力のある著作の一つ」と評している。有力な書評家の一群がこぞってサイードの著作を取り上げ、「オリエンタリズム」は学界再編の契機となった。
サイードの著作の魅力と文化的影響力は、どれほど強調しても誇張にはなるまい。「オリエンタリスト」という言葉は、主流の文化的エリートの間ではある種の蔑称として使われるようになった。この言葉はいまでも議論を脱線させる力を持っており、さらに言えば皮肉なことに、大学のキャンパスでアイデンティティを構築し力を行使する手段にもなっている。シャッツによると、サイードが使い出してから「オリエンタリズム」という言葉は「リベラル系の大学のキャンパスでは会話を途絶えさせるような言葉の一つになったという。そういう大学では、誰も人種・性・同性愛・トランスジェンダー差別主義者と呼ばれたくないのと同じくらい、オリエンタリスト呼ばわりされたくないのだ」とシャッツは述べている。とはいえ「オリエンタリズム」の置き土産はもっと複雑だ。植民地主義的な世界観に根ざす教条主義が次々に他の教条主義に取って代わられるようになったが、どれもこれも似たり寄ったりで、「オリエンタリズム」がもたらした新しい知に反する歴史観や記述を同じような論法で否定するだけだった。19世紀以前の東洋学者(オリエンタリスト)がある種の文化や民衆を劣った存在として描いたのとまさに同じように、1980年代~90年代の学者たちは、サイードの登場以降、ある種の主張を特定して疎外し、まともに扱う価値がないと決めつける手段を手にしたのである。
「オリエンタリズム」はまた、全米さらには世界の大学の人文学部の機構と内部の権力闘争を様変わりさせた。インドの作家パンカジ・ミシュラは、「オリエンタリズム」が「新しい研究職を大量に生み出した」と書いている。実際、同書の出版を契機にアメリカの高等教育機関には新しい分野が誕生したと言える。それは植民地主義的知識を破壊する学問を生むと同時に、ミシュラによれば、知識人亡命者(おおむね男性である)に自己宣伝の手段を提供した。彼らは「多くの場合、出身国で支配階級に属していた。植民地時代に繁栄した階級に属していたことさえある」という。「被植民の上流階級にとって、西洋のオリエンタリストを糾弾することは終身在職権を手に入れる方法の一つになった」。
「オリエンタリズム」の文化にもたらした影響があまりに徹底的で全面的だったため、同書が現代の議論や世界観の構築において果した役割に、多くの人はほとんど気づいていない。シリコンバレーの現役世代はとくにそうだ。人文科学教授のティモシー・ブレナンが書いたサイードの伝記は、「ポストコロニアル研究はもはや単なる学問の一領域ではなくなった」という一文から始まる。では何になったのか。「他者」、「異種混交(ハイブリディティ)」、「差異」、「ヨーロッパ中心主義」といった、特殊な意味を付与された用語で彩られる世界観を指すようになったのである。これらの用語は「演劇のプログラム、出版目録、美術館のカタログはおろか、ハリウッドの映画にすら見当たらない」ものだった。1990年代から21世紀にかけて、アメリカの知識人や作家・ジャーナリストといった学術界周辺の人々、そしてシリコンバレーの人々は、体制派エリートの支配的な政治思想の中心に「オリエンタリズム」を据えた。大方の人は「オリエンタリズム」を手に取ったこともなく、中には存在すら知らない人もいるというのに、である。
「オリエンタリズム」の実質的な勝利は、歴史を語る行為、すなわち膨大な細部や事実の寄せ集めを要約・構成して物語に落とし込むという行為は、けっして中立で公平にはなり得ず、世界における力の行使にほかならない、と幅広い読み手に知らしめたことにある。サイード本人が1994年版のあとがきに書いたように、「アイデンティティの形成は、一つひとつの社会における力の配分、持てる者と持たざる者の配分と分かちがたく結びついている。したがって、学者の空想などではない」。こうして、何が歴史や人類学を作り出すのか、その装置やしくみがサイードの研究対象となった。この装置には、分断へ、「われわれ」と「他者」の定義づけへと向かわせる傾向があり、サイードにとっては、そのこと自体が歴史を作る行為の結果であるとともに、おそらくは必然の要素だった。サイードはイギリスの歴史家デニス・ヘイを引用して、こうはっきり述べている。「ヨーロッパという概念は、ヨーロッパ人としての“われわれ”を非ヨーロッパ人の“他者”から区別する集団的な概念である」。それから半世紀近く経ったいま、この主張に異論の余地はない。というよりむしろありきたりである。だが1970年代にはきわめて過激で、大学当局や教授陣を大いに動揺させた。サイードの中心的なテーマは今日の人文科学分野の基礎となり、発言者のアイデンティティは発言内容以上に、とは言わないまでも同じぐらい重要だとされるようになっている。話す側と聞く側、語り手と物語、ひいては話し手のアイデンティティと真実との関係に関する理解が修正されたわけで、その影響は根深く、かつ長続きした。しかも修正が極端な場合、その影響は有害ですらあった。サイードの主張が過剰に拡大された結果、脱構築の動きが勢いを増し、数十年が経つうちには発言者のアイデンティティのほうが発言内容より重視されるようになった。
サイードに対する批判は多く、しかも多岐にわたっている。その一つは、東洋において西洋と同様の「権力と知識」構造の調査をサイードがあまり熱心に行っていない、というものだ。東洋でも、下位階級の中で底辺層に服従を強いることを正当化する手段として、知識が用いられていた。ミシュラが指摘したとおり、「オリエンタリズム」は「先行するアジア、アフリカ、ラテンアメリカの思想の膨大な記録に関して何の言及もない。その中には、バラモン教のカースト理論など非ヨーロッパ人のエリートによるものも含まれており、それらはエリートによる支配を自然かつ正統的に見せるための理論だった」。
サイードの中心的な主張(と解釈したもの)を直接的に攻撃するケースもすくなくない。たとえば西洋文明を必修とすることに賛成だったシカゴ大学のウィリアム・マクニールは、1960年代に西洋文明概論が必修科目から徐々に、やがて急速に姿を消した後もなお、道徳的相対主義(と彼が呼ぶもの)に果敢に抵抗した。道徳的相対主義は20世紀後半に台頭し、やがてもっと許容されやすい多文化主義(multiculturalism)という名前を隠れ蓑にするようになった、とマクニールらは主張する。マクニールは1997年に発表した論文で、世界史講座をつくる試み自体が「あらゆる文化的伝統を平等に扱わなければならないというあきらかにまちがった主張によってしばしば汚染された」と述べている。彼はサイードを名指ししたわけではないが、当時はサイードの存在もその主張もすっかり浸透し、いたるところで話題になっていたから、この分野の議論に加わる者は必然的にサイードと意見を闘わすことになった。
ここで改めて指摘しておきたいのは、文化の変化は早いということである。マクニールがしたような発言を今日したら、ただちに撤回しなければなるまい。20世紀末までには、文化について規範的な主張、たとえばある特定の文化の長所短所などをあえて論じる歴史学者は、だいたいにおいて退場させられるか、すくなくとも職を失うことになった。ヨーロッパとかつての植民地の間の経済産出高や軍事力の差を指摘するといった控えめな試みであっても、文化的会話ではつつしまなければならない。
サイードの著作の魅力と文化的影響力は、どれほど強調しても誇張にはなるまい。「オリエンタリスト」という言葉は、主流の文化的エリートの間ではある種の蔑称として使われるようになった。この言葉はいまでも議論を脱線させる力を持っており、さらに言えば皮肉なことに、大学のキャンパスでアイデンティティを構築し力を行使する手段にもなっている。シャッツによると、サイードが使い出してから「オリエンタリズム」という言葉は「リベラル系の大学のキャンパスでは会話を途絶えさせるような言葉の一つになったという。そういう大学では、誰も人種・性・同性愛・トランスジェンダー差別主義者と呼ばれたくないのと同じくらい、オリエンタリスト呼ばわりされたくないのだ」とシャッツは述べている。とはいえ「オリエンタリズム」の置き土産はもっと複雑だ。植民地主義的な世界観に根ざす教条主義が次々に他の教条主義に取って代わられるようになったが、どれもこれも似たり寄ったりで、「オリエンタリズム」がもたらした新しい知に反する歴史観や記述を同じような論法で否定するだけだった。19世紀以前の東洋学者(オリエンタリスト)がある種の文化や民衆を劣った存在として描いたのとまさに同じように、1980年代~90年代の学者たちは、サイードの登場以降、ある種の主張を特定して疎外し、まともに扱う価値がないと決めつける手段を手にしたのである。
「オリエンタリズム」はまた、全米さらには世界の大学の人文学部の機構と内部の権力闘争を様変わりさせた。インドの作家パンカジ・ミシュラは、「オリエンタリズム」が「新しい研究職を大量に生み出した」と書いている。実際、同書の出版を契機にアメリカの高等教育機関には新しい分野が誕生したと言える。それは植民地主義的知識を破壊する学問を生むと同時に、ミシュラによれば、知識人亡命者(おおむね男性である)に自己宣伝の手段を提供した。彼らは「多くの場合、出身国で支配階級に属していた。植民地時代に繁栄した階級に属していたことさえある」という。「被植民の上流階級にとって、西洋のオリエンタリストを糾弾することは終身在職権を手に入れる方法の一つになった」。
「オリエンタリズム」の文化にもたらした影響があまりに徹底的で全面的だったため、同書が現代の議論や世界観の構築において果した役割に、多くの人はほとんど気づいていない。シリコンバレーの現役世代はとくにそうだ。人文科学教授のティモシー・ブレナンが書いたサイードの伝記は、「ポストコロニアル研究はもはや単なる学問の一領域ではなくなった」という一文から始まる。では何になったのか。「他者」、「異種混交(ハイブリディティ)」、「差異」、「ヨーロッパ中心主義」といった、特殊な意味を付与された用語で彩られる世界観を指すようになったのである。これらの用語は「演劇のプログラム、出版目録、美術館のカタログはおろか、ハリウッドの映画にすら見当たらない」ものだった。1990年代から21世紀にかけて、アメリカの知識人や作家・ジャーナリストといった学術界周辺の人々、そしてシリコンバレーの人々は、体制派エリートの支配的な政治思想の中心に「オリエンタリズム」を据えた。大方の人は「オリエンタリズム」を手に取ったこともなく、中には存在すら知らない人もいるというのに、である。
「オリエンタリズム」の実質的な勝利は、歴史を語る行為、すなわち膨大な細部や事実の寄せ集めを要約・構成して物語に落とし込むという行為は、けっして中立で公平にはなり得ず、世界における力の行使にほかならない、と幅広い読み手に知らしめたことにある。サイード本人が1994年版のあとがきに書いたように、「アイデンティティの形成は、一つひとつの社会における力の配分、持てる者と持たざる者の配分と分かちがたく結びついている。したがって、学者の空想などではない」。こうして、何が歴史や人類学を作り出すのか、その装置やしくみがサイードの研究対象となった。この装置には、分断へ、「われわれ」と「他者」の定義づけへと向かわせる傾向があり、サイードにとっては、そのこと自体が歴史を作る行為の結果であるとともに、おそらくは必然の要素だった。サイードはイギリスの歴史家デニス・ヘイを引用して、こうはっきり述べている。「ヨーロッパという概念は、ヨーロッパ人としての“われわれ”を非ヨーロッパ人の“他者”から区別する集団的な概念である」。それから半世紀近く経ったいま、この主張に異論の余地はない。というよりむしろありきたりである。だが1970年代にはきわめて過激で、大学当局や教授陣を大いに動揺させた。サイードの中心的なテーマは今日の人文科学分野の基礎となり、発言者のアイデンティティは発言内容以上に、とは言わないまでも同じぐらい重要だとされるようになっている。話す側と聞く側、語り手と物語、ひいては話し手のアイデンティティと真実との関係に関する理解が修正されたわけで、その影響は根深く、かつ長続きした。しかも修正が極端な場合、その影響は有害ですらあった。サイードの主張が過剰に拡大された結果、脱構築の動きが勢いを増し、数十年が経つうちには発言者のアイデンティティのほうが発言内容より重視されるようになった。
サイードに対する批判は多く、しかも多岐にわたっている。その一つは、東洋において西洋と同様の「権力と知識」構造の調査をサイードがあまり熱心に行っていない、というものだ。東洋でも、下位階級の中で底辺層に服従を強いることを正当化する手段として、知識が用いられていた。ミシュラが指摘したとおり、「オリエンタリズム」は「先行するアジア、アフリカ、ラテンアメリカの思想の膨大な記録に関して何の言及もない。その中には、バラモン教のカースト理論など非ヨーロッパ人のエリートによるものも含まれており、それらはエリートによる支配を自然かつ正統的に見せるための理論だった」。
サイードの中心的な主張(と解釈したもの)を直接的に攻撃するケースもすくなくない。たとえば西洋文明を必修とすることに賛成だったシカゴ大学のウィリアム・マクニールは、1960年代に西洋文明概論が必修科目から徐々に、やがて急速に姿を消した後もなお、道徳的相対主義(と彼が呼ぶもの)に果敢に抵抗した。道徳的相対主義は20世紀後半に台頭し、やがてもっと許容されやすい多文化主義(multiculturalism)という名前を隠れ蓑にするようになった、とマクニールらは主張する。マクニールは1997年に発表した論文で、世界史講座をつくる試み自体が「あらゆる文化的伝統を平等に扱わなければならないというあきらかにまちがった主張によってしばしば汚染された」と述べている。彼はサイードを名指ししたわけではないが、当時はサイードの存在もその主張もすっかり浸透し、いたるところで話題になっていたから、この分野の議論に加わる者は必然的にサイードと意見を闘わすことになった。
ここで改めて指摘しておきたいのは、文化の変化は早いということである。マクニールがしたような発言を今日したら、ただちに撤回しなければなるまい。20世紀末までには、文化について規範的な主張、たとえばある特定の文化の長所短所などをあえて論じる歴史学者は、だいたいにおいて退場させられるか、すくなくとも職を失うことになった。ヨーロッパとかつての植民地の間の経済産出高や軍事力の差を指摘するといった控えめな試みであっても、文化的会話ではつつしまなければならない。
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