また、隣接する紀伊田辺市から、さらに北方に位置するのが日高郡みなべ町であり、南紀白浜から北へ10㎞行くと紀伊田辺市、そして、そこからさらに10㎞北へ行くとみなべ町といった感覚でした。このみなべ町は、私がこれまで度々ブログ記事題材として扱った「銅鐸」の出土が目立つ地域でもあり、紀伊半島西南部を東から西に流れる南部川流域河口域の、決して広いとはいえない平野部から少し離れた里山の周辺にて、これまでに計6個の大型、高装飾の近畿式銅鐸が出土しています。
これら6個のみなべ町で出土した銅鐸のうちの一つで、出土した地域の名を冠した「雨乞い山銅鐸」と云うものがありますが、その名称から、その出土地域は、後代においても雨乞い祭祀を行っていた場所であると考えるのが妥当と思われますが、他方で、銅鐸がそこに埋納された、おそらくは西暦200年頃でしょうか、そこから1700年近く経った同じ場所においても、雨乞いなどの祭祀が行われていたことには、その間を貫く、土着の価値観、観念のようなものがあったのではないかとも思われるのです・・。
ともあれ、みなべ町は、現在では南高梅の産地として知られ、現在からもう少し経った2月半ばの頃に、町を南北に走る国道42号線を自動車で通り、窓を開けますと、何とも芳しい大気の薫りがするのです。和歌山県の大気の薫りは、季節や場所によって異なりますが、全てに共通していることは、私見ですが「自然の薫りが濃厚」であることです。県庁所在地の和歌山市も、他地域から訪問して翌朝起床して外に出ますと、南紀白浜とは異なるものの、後背の山々から運ばれた薫りであるのか、そこから「濃厚な自然」を感じさせられ、目が覚めるような感覚があると思われます。
さて、さきの、みなべ町の銅鐸の出土地が、後代に至っても(雨乞いなどの)祭祀を執り行う場所であったこととを貫通する、ある種の観念があるとすれば、それは文章化出来るはずであると思われるのですが、残念ながら、そうしたことは現在の私では困難と云えます・・。
しかし、私としては、そうしたことこそ、当ブログのような文章作成を通じて自然と出来る様になっていくのではないかと思われるのです・・。
これは、最近になって実感することですが、以前は文章化出来なかったものの重要と思われる、さまざまな様相を文章として著すことが出来た時は、やはり、それなりに嬉しいものがあり、あるいは、これを続けることにより、さらに文章化することが可能な様相といったものが徐々に増えていくのではないかとも思われるのです。
また、そのように考えていますと、これまでに当ブログにて何度か扱った「文体の獲得」は、もう少し具体的に考えてみますと、前述のような大抵の様相を自分なりに記すことが出来る様になった状態を指すのではないかとも思われるのです・・。
そしてまた、そうした変化を引き起こす一つの要素が、前述の「地域の濃厚な自然」ではないかと思われるのですが、しかし、実際のところ、そこには何らかの科学的根拠といったものはあるのでしょうか・・。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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