A「本日の首都圏は終日の降雨であり、今現在なお雨が降っております・・。
そして、それと同時にかなり久々に大気が涼しいを通り越し、寒いと感じました・・。
そのように感じますと「果たして丁度今頃の九州とはどうであったか?」と思い起こしますと、未だに半袖を着て汗をかいていたと思われます・・。
また、それに伴い思い出すのは、九州においても南に位置する鹿児島は11月一杯までは暑いとも感じる日が続き、12月に入るあたりで急激に寒くなるといった気候であったことです。
こうした気候は首都圏、関東とも、和歌山ともまた異なり、在住当初は一人勝手にギャップを感じておりましたが、こうしたものは大抵在住2年目には当たり前のこととして慣れて行くようです・・。
しかし、それに慣れた体質のまま首都圏、関東に戻りますと、今度は、その地の冬の寒さがとても体に堪え、ギャップを感じる次第なのですが、この調子で行きますと、果たして今年の冬は一体どのようなことになるのでしょうか・・(笑)。
また、そうしたことを通して思うことは、おそらく私は南紀、和歌山、九州といった、その在住遍歴により、何といいますか体質もそうした西日本の温暖な地方仕様となったのではないかということです・・。
そうしたことから、関東周辺における、そうした(西日本の温暖な)気候風土を感じさせる静岡県東部の伊豆、伊東市などに行きますと、何とも懐かしい感じがしてきます・・。
しかしながら、この伊豆、伊東市周辺の気候風土を懐かしく思う感覚とは、実のところ、私のもっと幼い頃、深い層において刷り込まれたものではないかとも思われます・・。
といいますのは、私の祖父母および一枝の遠い父祖がこの地域に住んでいたことから、様々な機会においてこの地を訪れた記憶があるからです・・。
そして、この地の気候風土を(幼い頃より)知っていたがために、その後在住することとなった南紀、和歌山も、ある程度類似したものであると(体が)認識することが出来たのではないかとも思われるのです。
また、結果から考えてみますと、そうした感覚の古来から(歴史的な意味で)の普遍性を自分なりに考えるための一つの要素が銅鐸に対する興味であったのではないかとも思われます・・。
感覚的なハナシではありますが、銅鐸を祭器として用いた集団とは、何といいますか、自らが住む地域の気候風土、植生などに相当こだわっていたのではないかと強く思われるのです・・。
しかし、そのように考えてみますと、その後私が在住した鹿児島においては、これまでに銅鐸の出土例がないため、おそらくこの地には、それ(銅鐸祭祀)以前の時代から、異なった背景文化を持つ集団が既にいくつか住み、銅鐸祭祀を行う集団の入る余地がなかった、あるいはこの地がさきに述べたような彼ら(銅鐸を祭器として用いた集団)の好み(気候風土、植生)ではなかったのかもしれません・・。
また、以前のブログ記事においても取り上げたことがありますが弥生時代における鹿児島の墳墓、墓制と関連させて考えてみますと、大陸、半島由来の墓制である甕棺墓が鹿児島県西部において見られることは、当時、この地において半島からの文化が来訪、往来していたことを示し、一方において甕棺墓と同様、大陸、半島由来の技術(青銅による鋳造)を用いる銅鐸の出土が見られない(北隣の熊本県においては存在する)ことは、おそらく銅鐸の作成とは全般的に見て、渡来した大陸、半島の技術「のみ」により為されたものではなく、在来住民との文化との結合によって、はじめて為し得たと考えることが妥当であると云えます。
具体的には、当時の鹿児島とは、渡来の墓制を受け入れつつも、それと同時に在来文化との結合により銅鐸を生じないという特徴を持つ在来住民が住んでいたということであり、こうした傾向とは、おそらく九州においては長崎、宮崎、そして四国においては愛媛、高知両県の西部(つまり四国の西半分)といった地域と概ね共通しているのではないかと思われます・・。
そのことから、おそらく、これらの地域とは、在来文化との混淆の具合が、北方からの半島、大陸からの文化よりも、南方からの海洋民の文化との方が優勢、盛んであったのではないかとも考えることが出来ます・・。
そして、そのようにして(おそらくそれ以前からの伏線が存在すると思いますが・・)生じた地域毎の文化とは、現在においても我々に何かしらの(文化的な)意図、傾向を感じさせるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂いてどうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの復旧そしてその後の速やかな復興、また九州全土における今回の台風、大雨による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」
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