2021年3月19日金曜日

20210319 本日の外出時の服装から思ったこと【時にはこういう記事も・・】

当記事を含めて、残り4記事の投稿により1500記事に到達します。とはいえ、そうした実感は未だ皆無であり、おそらく、この調子にて実際1500記事に到達してみても、それらしい感慨といったものは生じないように思われてきます。

それでも記事作成を行わないと目標への到達はありませんので、今回につきましても、つい先ほどから記事作成を始めた次第です。

さて、本日は日中は外出していましたが、陽が出ている間は暖かく感じられ、歩いていると少し汗ばんでくるほどでした。また、本日の服装は、白の無地Tシャツの上に同じく白のオックスフォード素材のボタンダウンにの下はリーバイスの505、そしてベルトは愛用しているホワイトハウスコックス社のブラウンメッシュベルトで、靴は以前にも記事にてとり上げた黒のダナー・ライトを履き、ジャケットはバブアー社の黒オイルドコットン生地のインターナショナル・ジャケットを着て、背中には10年来、相変わらずのグレゴリー社のバックパックを背負っていました。

こうした自分の服装については、これまでにあまり書いてきませんでしたが、本日の服装は、現在のボクの中ではお気に入りであり、靴については以前にも書きましたので、ここでは触れませんが、上着のバブアー社のインターナショナルジャケットは、ポケットが多く収納力があり、且つミリタリーっぽく見えず、また、無造作に着ていても、それなりにオシャレに見えると思われることから、ボクのような不精者向きであると云え、さらに、防水機能を持つオイルドコットン地であることから、ある程度の降雨には対応可能であり、かなり優秀なジャケットであると云えるのですが、惜しいことには多少値が張り、現在は程度の良い古着にて購入した2着(黒・紺)を保有するのみとなっています。

また、このジャケットの下に着るシャツについては、かねてよりインディビジュアライズドシャツ社の白オックスフォード素材のボタンダウンを合わせてみたいと考えているのですが、このシャツはボクにとって大変高価であるため、未だに1枚も購入出来ていません・・。

くわえて、ジーンズとベルトについても、今後、このスタイルに合うものをさらに検討したいですが、同時にボク自身の体型についてもあまり変化しないように気を付けた方が良いのかもしれません・・(苦笑)。

ベルトについては、さきに述べましたホワイトハウスコックス社のメッシュベルトは2003年に購入した記憶がありますので、かれこれ18年程用いており、時々手入れはしていますが、未だに全く問題なく現役であり、おそらく、現在私が使用している衣服類で最も古い部類に入ると云えます・・。

このベルトはかなり迷った末に購入したものですが、現在、こうして意識してみますと、同タイプの色違いも今後機会を見つけて購入してみたいと思うようになりました。

ジーンズは、以前ほどの興味はないものの、先ず価格が妥当であることと、穿いた時のシルエットがバランス良く細身になり、ダナーライトを履いた時にダブつかず、動き易くて穿き込んでいくうちにアジが出て来るデニムであれば良いと考えていますが、実際のところ、これら全てを満たすジーンズは未だ見つかっていませんので、良い一着を見つけるためにボチボチと試着を通して探して行こうと思っています。

ちなみに、これまでで良いと思ったのはユニクロのセルビッジレギュラーフィットジーンズであり、この1本は特に高価でもなく、シルエット、素材感も良く、大変コストパフォーマンスの良い1本であると思われます。

そしてここ最近は、再び帽子を被る習慣を身に着けようと思っているのですが、一端帽子を被る習慣から脱した後に再び帽子を探そうと試着してみますと、何故か、どれも似合わないように思われてくるのです。これはおそらく外観の「慣れ」であるとは思うのですが・・こうした心理もなかなか興味深いものであるのかもしれません・・。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



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20210318 記事作成に伴う「表出」と「表現」について思ったこと

目標としている1500記事まで残り当記事を含めて5記事の投稿となりましたが、相変わらず欝々とした気分は続き、また、記事作成時に感じる「圧」のようなものも変わりません。

そうしますと、こうした「楽しくはない」状況にて作成した記事に果たして意味があるのだろうか?と考えていますと思い出されるのは先日投稿の記事においても抜粋引用させて頂いた「サイファ 覚醒せよ!」内記載があった「表現」と「表出」の違いです。

当著作内記述によりますと「表現」とは「相手がいて、その表現を理解し、それに対し何らかの印象を持った」ということであり、他方、「表出」とは「エネルギーをある対象に注ぎ、その「表出」行為の後にカタルシス(感情浄化)が生じる」こと、となっていました。

これまでボクは上記のように「表現」と「表出」の違いについて意識したことはありませんでしたが、この記述を読み、そして、これまでの経験を参照してみますと、たしかに、そうした違いはあるように思われてきます。また、その視座から考えてみますと、ここ最近の投稿記事は、「表出」において特徴的である作成後のカタルシス(感情浄化)はあまり感じられず、また「表現」において特徴的と云える、記事を読まれた方々の理解、そして、何らかの印象を持って頂いたかについては、精確には分からないものの多少の反応はありましたので「皆無ではない」といったところになると思われます。

また、「表出」に付随するカタルシス(感情浄化)については、今しばらく記憶に基づいて考えてみますと、記事作成当初の頃は、それなりに感じられており、また、それがあるからこそ継続することが出来ていたのだとも云えます。しかしながら昨今は、それに慣れて麻痺してしまったのか、さきに述べました通り、あまり感じることはありません。しかし他方で、記事作成を止めていますと、調子が悪くなってきたり、あるいは、さらに気分が欝々としてきますので、やはり記事作成によるカタルシス(感情浄化)自体はあるのではないかと思われます。

そうしますと「1500記事近くまで積み重ねてきた「表出」によるカタルシス(感情浄化)の実感は、どこに行ってしまったのだ?」といった疑問が生じるわけですが、ボクが思うに「実名を晒して文章を継続的に公表する」という行為に付随する、さきにも述べた「圧」と「表出」に伴うカタルシス(感情浄化)は互いに相殺し合うものではないかと思われるのです。そして、それを続けること、言い換えますと、その行為を日常化することにより、わずかにカタルシス(感情浄化)が「圧」に勝る状態が醸成され、そうして、さらに記事作成を続けることが出来るようになるのではないかと思われるのです。

つまり、以前にもこの表現は用いましたが、まさに感覚的には「自転車操業」に近いのではないかと思われるのです。とはいえ、やはりボクとしては、何らかの実感し得るカタルシス(感情浄化)も欲しいとは思うところですが、それは今しばらく記事作成を継続していますと、何かがボンヤリと見えてくるか、あるいは突然生じるようなものではないかと、これまでのボクの経験は語ります。

また、私見としてはカタルシス(感情浄化)は別言しますと「生きていて良かった」といった実感であると云えますが、これは、これまでのあまり幸運とは云えないボクの人生においても幾度かはあったと云えますが、しかし、それらの具体的内容を書くことについては、以下の記述が思い出されることから、どうも躊躇してしまうのです・・。

“No, it is impossible; it is impossible to convey the life-sensation of any given epoch of one’s existence-that which makes its truth, its meaning-its subtle and penetrating essence. It is impossible. We live, as we dream-alone.”
Joseph Conrad Heart of Darkness Collins Classic P.32

「・・そう、それは無理だよ。自分の存在の忘れ難い一時点で覚えた生の感覚というものを、他人に伝えるのは不可能なんだよ。その感覚こそが人生の真実、その意味ーその微妙で深く浸透する本質なのだが。無理だな。ちょうど夢を見るのと同じように、僕らは生きているんだーただひとりぼっちでね・・」
ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」三交社刊 pp..74ー75

しかしそれでも、何時かは書いてみたいと考えてはいますが・・。

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2021年3月18日木曜日

20210317 スパイラルのもとにあるものとしての思想について・・【ヒトは自分がされたことを他者に対しても行う】

 本日の首都圏は日中を通じて温暖であり、既に冬は過ぎたように感じられました。しかし同時にここ最近は、新型コロナウィルス感染症の変異種の感染者数が増加しつつあるとのことから、相変わらずの油断の出来ない不安な状況と云えます・・。

さて、昨日の投稿記事は、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、当記事では、主に我が国にて人が人に対応する際の「癖」のようなものを書いたと云えますが、そこから思うことは、我が国にはどうしたわけか、人間に対する考え全般に、あまり思想的な厚み、歴史を経て蓄積されたものが乏しく、あるいはまた、古来より我が国の社会とは、それで済む、分かり合える社会であったようにも思われるのです。

それは「そうしたことを考える機会が歴史を通じて乏しかった」というよりも、さらに深いところの「そうしたことを考えてしまう性質が乏しかった」のではないかと、ボクには思われるのです。(巨視的には民族的な均質性ゆえにか?)

以前読んだ書籍に、たしか19世紀始め頃、帝政ロシアの船が蝦夷地(北海道)周辺にポツポツと出没する頃になりますと当時、蝦夷地を治めていた松前藩か幕府出先機関が、この地の更なる警備強化の命を受け、何れかの数人が蝦夷地北方の海岸付近に見張り小屋を建て外国船に対する警備をすることになったのですが、その記述によりますと、彼等は本州と比較すると寒さの厳しい蝦夷地であっても、あまり寒さを防ぐといった居住についての工夫などはせず、そのまま次第に寒さのため衰弱していったとのことでした。おそらく、全てそうであったとは思われませんが、しかし、往々にして、江戸時代のお侍さんとは、このような感じであったのではないかとも思われるのです。また、そうした振舞いとは、ひと昔前、昭和あたりには珍しくなかった「全く家事をしない一家の主人」にも親和性があり、これらは同じ精神的な系譜上にあるように思われます。

こうした態度は、見方次第でさまざまな表現が出来ると思われますが、一つには「潔い」といったコトバで表すことも出来るのではないかと思われます。そうしますと、それは太平洋戦争時の旧日本軍による決死的な攻撃の背景にある精神構造にも類似すると思われてきます。端的にそれらは「自分の生への執着を少なくし、任務完遂には執着する」といった、ある種、自己犠牲的な精神とも見受けられますが、この精神は、さまざまな組織において、特に従業員や被治者が持つべき徳目としては極めて有効であることから「任務完遂は誰・何のため?」といったことはあまり考えられることはなく、現在に至るまで(金科玉条のように)生き永らえているのだと思われます。

しかしながら一般的に「ヒトは自分がされたことを他者に対しても行う」と云われることから、こうした精神構造を持つ方々が、人々を治めるようになりますと、まさに無意識のうちに、その従業員や被治者に対しても自己犠牲を強いるような施政になることは火を見るよりも明らかであるとも思われるのです・・。

そのように考えてみますと、身体的な快適さを求めることも特に悪いことではなく、また、そこでさまざまな経験を経ることにより「快適さ」の質なども実感を通じて理解出来るようになるのではないかと思われるのです。

そして、そこで初めて「自己犠牲」と「快適さの追求」のバランスを取ることが出来るようになると思われるのですが、しかし、ここでとても重要であると考えるのが、この二つを理論的に結節させる観念・思想の存在です。

おそらく、歴史を通じ我が国の社会では、この観念・思想が不在であるか、あるいは普遍的なものが存在しないのではないかと思われるのです。(ガラパゴス?)

そして、多くの人々は薄々気が付いていたのかもしれませんが、それがないことが明らかになってしまったのが丁度、新型コロナウィルス感染症に社会全体が見舞われている現在といったところではないでしょうか?

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2021年3月16日火曜日

20210316 旧日本陸軍の兵員輸送と戦後の人文社会科学分野でのマスプロ教育について思ったこと・・

数年前からでしょうか、我が国の所謂「官」がおかしくなっているように思われます。あるいはこの流れは、主に民間企業に付随する文化が「官」にも影響を及ぼすようになってきたことから生じているようにも思われるところですが、国の経済状況が停滞・退潮気味になってきますと国は、そうした状況下で、なおも好況である業種・企業を見つけ、そこから次の発展へと繋がる何かを見出そうとするのでしょうが、しかし、かつての自動車や電化製品のように、他国企業が既に製品を製造・販売していても、それよりも安価にて性能の良い製品を製造すれば、国際的販路を開拓・確保出来ていた時代はすでに過去のものとなり、現状は、製造業全般については我が国よりもはるかに安価で性能も問題ない製品を大量に製造できる国があり、また同時に、昨今のコンピューター、インターネットを用いる、各種産業についても我が国は他国から遅れを取り、右往左往している状況と云えます。

つまり端的に、次の時代において、どの産業がより多くの利益を得られるかについて、そして、その産業に、どのように我が国の企業が食い込んでいくかが、現在の我が国にとって大きな課題であるように思われます。(そうしないと国の税収が大きく減りますから。)

そしてまた、こうした大規模な潮目の変化においては、多少キツイ表現を用いますと、近代以降からこれまで、あたかも、さきに述べた自動車や電化製品の製造のように行ってきた高等教育機関での学生教育の手法あるいはそれを支える価値観もまた、大きく考え直す必要があるのではないかと思われるのです。

とりわけ人文社会科学系分野においては、60年代学生運動の一つの契機となった所謂「マスプロ教育」は、少子化によって改善されつつあると聞き及びますが、これは出来る限り早く止めた方が良いと考えます。乱暴な表現を用いさせて頂きますと、人文社会科学系分野における「マスプロ教育」によって現在の我が国の停滞は齎されたとも云えるのではないでしょうか?

元々あまり興味があるか、ないかも判然としない状態で、教え手側の熱意も伝わらない大講義室での講義を受けると、どのようになっていくか考えなかったのでしょうか?これは特に優秀な学生達にとってはあまり関係ないことであるかもしれませんが、ボクを含め、そうではない数多くの平均的な学生にとっては、極めて重要なことであると考えます。

そして、こうしたことから、先日投稿の山本七平著作からの抜粋記事に記載の旧日本軍の輸送船による兵員輸送と類似あるいは同一とも思われる精神構造が見出されるのです・・。(たしかにその間には20年程しか時間の隔たりはありません。)

そのように考えてみますと、現今の我が国の苦境もまた「仕方がない」とも思われてきますが、しかし、これを今後少しでも良い方向に流れを変えたいのであれば、人文社会科学分野全体の学生数を減らし、その代わりに医療・介護系分野の国家資格職種を養成する専門職大学を全国に新設し、あるいは、都市部の経済的に余裕のある比較的規模の大きい私立大学は、国家資格職種の養成を行う近隣の専門学校を吸収し、それを新たな学科・学部として改組するのが良いのではないかと考えますが、さて如何でしょうか?

そこで不図思ったのですが、歯科の単科大学が、歯学科および歯科衛生学科だけでなく、管理栄養学科や言語聴覚学科などを併設してみますと面白いのではないかと思われます。ちなみに歯科技工学科は、今後、歯科技工作業全般のデジタル化に伴い、歯科医師・歯科衛生士の一職分となり、学科的には歯科衛生学科に吸収されるのが妥当と思われることから、記載は省きました。

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2021年3月15日月曜日

20210315 継続的なブログ記事の作成があまりスゴくない理由について・・

以前にも記事題材として書きましたが「ブログ記事の作成は1000記事を過ぎてからが勝負」とのことですが、たしかに1000記事到達以前の頃と比べますと、1500記事への到達を間近に控えている現在は、記事作成時に感じる圧のようなものが、徐々に大きくなっている感じがあります。ここは、何も考えずに記事作成を行うことが出来れば良いのですが、他方で、そのように思えば思うほどに、記事作成時に感じる圧は大きくなるといった性質があるようにも思われます・・(苦笑)。

とはいえ、記事作成時の圧はどうであれ、記事作成自体は今しばらく続けませんと、当面の目標としている1500記事まで到達出来ないことから、本日については、比較的帰宅が遅かったにも関わらず、さきほどから記事作成を始めた次第です。ここで作成した記事が果たして本日(20210315)分として投稿できるかどうかも現時点では全く不明であるとは云えますが、何れにせよ、とりあえずは書き続ける以外ないようです・・(苦笑)。

さて、ボクが作成しているブログ記事を時々読んでいると直接聞いたことがあったのは、文系院時代からの友人のみであり、この方は時折電話にて話していますと、読まれたブログ記事についてのことを会話に交えたりしますが、その他の方々からは、どうしたわけか「ブログを読んでいるよ。」といった反応を聞くことはありません。

それでも、数人の方々からは、ボクが何か継続的に書いていることはご存知であるのか「そこまで継続的に文章を書けるのはスゴイよ。」といった主旨のことは云われたことがありました・・。

しかし、この「スゴイよ。」とは、書いているボクからしますとスゴいものではなく、むしろ、何か強迫観念のようなものによって記事作成を行っているようにさえ感じられ、そこから不図、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」作中の「文学は天職ではなくて、ひとつの呪いです」という北杜夫のどくとるマンボウ」シリーズにも何度か登場するコトバが思い出されます。

もちろん、私は今現在、文学・著述によって生計を立てているわけではありませんが、それでも、文章を書き続けるということ行為自体に、何かしら、否応のない向き、不向きといったものがあるのではないかと思われるのです・・。それはスポーツでの才能のように。そして、文学の場合は、スポーツでのそれとはまた異なり、簡単には富やそれが齎す市民的幸福には結節し難いといった性質があるのではないかと思われるのです。そして、そうした事情を背景として、以前の投稿記事の「太平洋戦争について述べた著作を読んで思ったこと「シビュラの書」末尾にて「文系の師匠が仰っていた「歴史の女神様はとても嫉妬深くてね、この女神様に好かれると、他の女性はどうしても近寄って来れなくなるんだよ(苦笑)。」といった冗談めいたコトバですが、当時は「何をカッコ付けているのだろうか?」と割合冷やかにこれを眺めていましたが、現在になりますと、何となくその意味、そしてそれ以上に、その背景にある悲哀のようなもののが理解出来るように思われます・・(苦笑)。」にも共通したものがあるのではないかとも思われるのです。

ともあれ、以前であれば、さきの「トニオ・クレエゲル」内のコトバと、文系師匠のコトバを結び付けようとは思わなかったところを、こうして記事を書き進めて行くうちに、繋がったということは、もちろん、その繋がり・関連性自体には議論の余地が多いにありますが、それでも、こうした、いわば文章による抽象化を行ったところではじめて感知されるものとは、ボクとしては、それなりに大事なことであるように思われるのですが、さて如何でしょうか。

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2021年3月14日日曜日

20210313 2日間 記事作成を休んで思ったこと・・経験とアウト・プット?

 ここ2日間ほど、当ブログそしてツイッターからも離れていましたが、そこから、やはり、こうした時期も必要であることが分かりました。特に夕刻過ぎにおいて、ブログ、ツイッターから完全に離れますと、ボクの場合、読書が大変捗ると云えます。また、他方で、読書が進みませんと、新たな作成記事の題材も徐々に枯渇してきますので、それらに充てる時間の配分は、今後もし、記事作成を継続するのであれば、少し考えた方が良いのかもしれません。

また、今後首尾良く1500記事まで到達することが出来ましたら、その後1~2週間ほど、ブログ、ツイッターから離れてみようと思います。そして、その間に集中して読むことの出来なかった書籍を重点的に読んでみようと考えています。ともあれ、これまで5年以上にわたり、どうにかブログ記事の作成を継続してきましたが、その期間とは、明確に断定することは出来ませんが、少なからず、これまでのボクの読書を含めた全ての経験をもととして作成してきたとは云えるはずです。あるいは、人によって程度は異なるのかもしれませんが、さまざまな経験の文章化を可能にするためには、やはり、ある程度の読書経験や、文章を読むことが日常化されていないと困難であると思われますので、端的に現在とは、これまでの読書経験と、その他の経験をもとにして、どうにか5年以上ブログ記事の更新というアウト・プットに至り、そして、現在において、これまでにも何度か経験したスランプ状態にあり「記事作成が出来ないのではないか?」と怯えつつ、こうして新たな記事作成を行っている状態と云えます・・(苦笑)。

しかし、こうして作成した記事に何らかの「読むに値する何か」があるのかどうかについては現時点では全く分からず、ただ、ある人は、1500記事到達まで、あと数記事の投稿の状況に至っても、こうした記事を作成している(た)ということは、ブログ記事作成における典型的な模範とはなり得ないものの、まあ「そうしたものなのか・・。」といった記録の一つとしては、あっても良いのではないかと思われるのです・・(笑)。

そして、まさにそうしたところにこそ、たとえわずかではあれ「読むに値する何か」があるのではないかと書き手としては期待するところなのです・・。

こうした心情を「自分勝手」であると思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、しかし、もともと、こうしたブログなどは、そもそもが「自分勝手」な表現であり、そして、ここもあるいは少し大事なことであると思われるところですが、「自分勝手」でなく「他者への何らかの有益な情報の提供」を、その動機としているブログなどの発信は、往々にしてあまり長期にわたる継続には至らず、むしろ「自分勝手」で始めて、その自発性によって為されているブログの方が、長期にわたる継続に結び付きやすいのではないかと思われるのです。

そして、その「自分勝手」にて作成された記事や文章のなかに、時折何か「面白い」ものがあると思われるのですが、それでも、そうした「面白い」ものとは、書き手の、それまでの、読書を含めたさまざまな経験をもとにしているため、やはり、さきに述べたように新たな文章作成の資源としての読書が必要であり、重要であると思われるのです・・。

また、その意味で1000記事への到達までと、1000記事到達後の現在目指している1500までの期間では、明らかに後者の方が辛いとボクの経験は語ります・・。また、この感覚を認識しているのは、ボクの精神であると云えますが、その精神は何を根拠にそのような判断をしているのかと考えてみますと、もちろん、さきに述べました通り、明確に断定することは出来ませんが、それは「ボクの読書経験が、これまでのアウトプットによって少し目減りしている」からであるのではないかと思われるのですが、それでも、この程度まで自転車操業的ではあっても、継続出来ているのであれば、この先1500記事まで、すなわち、あと9記事程度は、今月内にて、どうにか作成出来るのではないかとも思われるのです・・。

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2021年3月10日水曜日

20210310 「凪」のような状態から発して思ったこと:「靴」から始まり・・

 この先、凡そ2日に1記事の投稿ペースにて、今月中に1500記事への到達が叶いますが、今後も休みは取りつつも、出来るだけ毎日の記事投稿を目指していきたいと思います。とはいえ、本日は「凪」と云って良いのか、PCの前に座りしばらく経ってもなかなか着想・アイデアが湧いてきません。これが調子の良い日であれば、既に記事あらすじが脳裏に浮かんだ状態でPCに向かい、単にそれを文章化していくといった流れになりますが、実際のところ、そこまで調子の良い日はあまりなく、それよりも、本日のような外出らしい外出をしなかった日の記事作成は、さきに述べたように「凪」に近い日が多く、これが地味ながら記事作成に困難さを覚えるのです・・(苦笑)。

そうしたことからも、昨日、一昨日の投稿記事にて述べましたが、ボクの場合「徒歩での移動」が記事作成に少なからぬ意味を持っていると云えます。また、その意味から徒歩を支える「靴」については「服飾品の一つ」と見做されがちですが、ボクにとっては「日常で用いる道具」といった認識の方が強く、また、そうした靴を選んでいると思っています。

そういえば、靴こそは衣服以上に性別によって異なり、男性の靴は、全般的に「道具」的なものが多く、対して女性のそれは「服飾品」に近いといった傾向があるのではないかと思われます。その意味でスポーツ・シューズはユニ・セックスと云えますが、あるいは男女共に同じ型のスポーツ・シューズを履き、そしてジーンズを穿くようになりますと、社会全体のユニ・セックス化の下準備が為されるのかもしれません。その意味で、双方の近現代での発祥地と云えるのがアメリカ合衆国であることは、当然と云えば当然であるのかもしれませんが、それなりに面白いことであるようにも思われます。

また、個人的には、アメリカ合衆国に対する思い入れは、そこまで強いものはありませんが、世代的なものであるのか、こと靴や洋服に関しましては、それとは別次元にて、どうも否応なく魅かれてしまうのです・・(苦笑)。たとえば輸入洋品店に置かれている、多少値が張る革製品の匂いやボタンダウンシャツやチノクロスパンツやジーンズなどの、あの独特の匂いが、おそらくは、それらと遭遇した高校生の頃から好きなのです・・(苦笑)。

そういえば、かつて裏原宿に「プロペラ」という輸入洋品店、というよりも当時の語感でアメカジショップと云った方がスッキリとするお店がありましたが、このお店は、店の軒先にプロペラが掲げられているのが特徴であり、また、その店内が何と云いますか「海外の倉庫」といった雰囲気が強く、現在では分かりませんが、ほぼ同時代の渋谷の「バック・ドロップ」そして代官山の「ハリウッド・ランチ・マーケット」にも相通じるものがあったと記憶しています。

そして、その店内の匂いが、木材の防腐剤(クレオソート?)というのでしょうか、その匂いと、置かれている舶来の服や小物の匂いが混淆として、一種独特な匂いが充満していました。そのためプロペラで購入した商品は、しばらくの間、その匂いが取れずに、おそらくは分かる人には何処で購入したか分かっていたのだろうと思われます。

ともあれ、ボクはそうした中で、先日投稿の記事にて挙げましたダナー・ライトやラッセル・モカシンと遭遇し、双方共に高価であったため、長い間購入出来ませんでしたが、それから10年程経って、ようやく購入することが出来ました・・。

おそらく、前世紀90年代に青春を過ごされた世代の方々には、この嗜好様式をご理解頂けるのではないかと思われますが、しかしまた、現在になって思うことは、おそらく、そうしたモノに基ずく、即物的とも云える感性による価値観のみでは、何と云いますか不充分であり、そうした価値観から出発して更に構築された、他の観念的、抽象的な価値観あるいは思想を持つことにより、さまざまな事物の普遍的性質にまで達することが出来るのではないかと思われるのです・・。

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