2024年6月17日月曜日

20240617 株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 上巻 pp.163-166より抜粋

株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 上巻 pp.163-166より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480087370
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480087379

 初期の社会においては、しばしば王や祭司が、超自然的な力を与えられている、もしくは神の化身であると考えられていた。その結果、自然の成り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。ここまでのところでは、王の自然に対する力は、臣民や奴隷たちに対する力と同じように、明確な意志によって行使される、と仮定されているように見える。それゆえ、旱魃や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。だがときには、自然の成り行きが、なるほど王に依存しているとはみなされても、部分的には王の意志から独立していると考えられる場合もある。王の人格は、こう言ってよければ、宇宙のダイナミックな力の中心と考えられており、そこから放たれる力の放物線は、天空のあらゆる方角へと伸び広がってゆくものである。このため彼の動きはいかなるものであれーたとえば掌を返したり、片手を上げたりという動きはー即座に、自然の一部に影響を及ぼし、これに深刻な被害をもたらすかもしれない。王は、世界のバランスがその上で保たれている、支柱の先端なのであり、彼の側にわずかな歪みが生じれば、微妙に保たれている均衡は崩れてしまう。それゆえ王は最大の注意を払い、また王に対しても最大の注意が払われなければならない。王の全生命は、もっとも微細な部分に至るまで統制の取れたものでなければならず、そのため彼の振る舞いは、それが自発的なものであれ不本意なものであれ、確立されている自然の秩序を、乱しあるいは転覆させる可能性がある。この類に属する君主の典型が、日本の霊的な皇帝「ミカド」もしくは「ダイリ」である。これは神々や人間を含んだ全宇宙を支配する、太陽の女神の化身である。一年に一度、すべての神々はこの皇帝に表敬訪問し、その宮廷で一カ月を費やす。その一カ月は「神無し」という意味の名で呼ばれ(もちろん神無月のことである)、どの寺院にも神々は不在と考えられるので、だれも寺院(神社)に詣でることはない。

 以下は「ミカド」の生活様式についておよそ二百年前に記述されたものである。

 「今日でさえ、この一族の血を引く皇子たちは、生きながらにしてもっとも神聖な人間とみなされ、また生まれながらの法皇とみなされる。これが玉座につく皇子である場合はなおさらそうである。また、このような有利な概念を臣民の心に抱かせておくために、この聖なる人間たちに対しては尋常ならざる配慮がなされねばならず、他国の慣習に照らして考えてみるならば、愚かで見当違いとも思われるほどのことを行うのが義務づけられている。二、三の例を挙げておくのがよいだろう。彼は、自分の足を地面につけることが、自分の権威と聖性を大いに侵害するものであると考えている。このため、どこへ外出するにも、男たちの肩に乗せて運ばれなければならない。ましてや、戸外の空気にこの聖なる人間を曝すなどもってのほかであり、日の光はその頭に降り注ぐ価値などないと考えられている。身体のあらゆる部分に聖性が宿ると考えられているため、あえて髪を切ることも髭を剃ることも爪を切ることもしない。しかしながら、あまりに不潔にならないよう、彼は夜眠っている間に体を洗われる。なぜなら、眠っている間に身体から取り去られたものは、盗まれたものであって、そのような盗みは、その聖性や権威を害することにはならないからである。太古の時代には、彼は毎朝数時間玉座についていなければならなかった。皇帝の冠をかぶり、ただ像のようにじっと座っている。手足も頭も目も、それどころか身体のいかなる部分も動かすことはない。これは、自らの領土の平和と安定を保つことができるのは彼自身と考えられたからで、不運にも体の向きをどちらかに向けたりすれば、あるいはまた領地のいずこかの方角を長時間眺めていれば、国を滅ぼすほどの不作や大火もしくはなんらかの大きな災いが間近に迫っている、と解釈されたからである。しかしその後、守護神は皇帝の冠であり、その不動性が領土の平和を保つという新たな解釈がなされたため、皇帝の身体のほうは煩わしい義務から解放し、怠惰と快楽のみに捧げられるのが得策である、と考えられるようになった。それゆえ現在では、冠が毎朝数時間、玉座の上に置かれる。食物は毎回新しい鍋で調理され、新しい皿で食卓に並べられる。鍋も皿もこざっぱりとした清潔なものだが、平凡な陶器に過ぎない。これは、一度使われただけで捨てられ、あるいは割られるからで、さほどの出費にならないようにである。俗人の手に渡ることを恐れるので、大概は割られる。というのも、万一俗人がこの聖なる皿で食事をしようものなら、食物はその俗人の口と喉を腫れ上がらせてしまうと、本気で信じられているからである。ダイリの神聖な衣服についても、同様の悪しき力が宿ると恐れられている。皇帝がはっきりと許可や命令を下していないときに俗人がこれを身につければ、俗人は体のあらゆるところが腫れ上がり、痛みだす」。ミカドに関するさらに古い記述も、同様の趣旨で以下のように述べている。「彼が地面に足をつけることは、不面目きわまる零落と考えられた。太陽と月は彼の頭上を照らすことさえ許されなかった。身体から出る余分なものも、彼の場合は一切取り除かれることなく、髪も髭も爪も切られることはなかった。彼が食べるものは何でも、新しい器で調理された」。

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