2023年12月7日木曜日

20231206 株式会社藤原書店 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」pp.303-305より抜粋

株式会社藤原書店 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」pp.303-305より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 489434906X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4894349063

竹山道雄は一九三七(昭和十二)年七月「思想」のために「将軍達と「理性の詭計」という一文を寄稿した。日支事変勃発の直前である。その中にこんな軍人たちの生な印象が記されている。「以前」とは昭和九年三月、岡田良平の葬儀の時にちがいない。

 以前A将軍をすぐ傍で見たことがあった。将軍は威厳が頂上にあって、市中いたるところに彼の肖像が貼り出してある頃だった。青山斎場の天幕の中に、現在は外地の総督であるM大将と並んで入って来た。このM将軍は顔に酒焼けの桃色の斑がしみ出していて肥満した身体をもてあますように、一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた。どこか威厳と狡智がでたらめに溢れでている人だった。A将軍の方は反対に痩せていた。小さな目が三角に垂れ下がった目蓋の下からぎらぎら光っていた。条目のきちんとした清潔な服を着て、あたりを見廻しながら悠々と歩いていた。この二人が軍服に金色を燦かして入って来たときは、周囲は動揺した。礼服を着た人々は傍にしりぞいた。二人の将軍は大勢の中にできた空地に立って、四方から視線を浴びながら、二人丈で低い声で話していた。

 ことにA将軍の方は一見して異常な印象をあたえる人だった。躯幹は見窄らしい方で、長いあいだ病床にいた人のような蒼白い顔色をしていた。有名な髭はむしろ疎だった。ただその筋ばった身体全体に、どことなく病的なデーモニッシュな、鬼気といったようなものがあった。

 一人の外交官らしい背の高い西洋人がA将軍の前に立って挨拶した。彼の栄養のいい顔にはみちたりて生活を楽しむ人のような表情があった。将軍は白い手袋をはめた手をさしだして握手した。すこしも感情も交らない直線的な挙止だったが、また意外にものなれた外交的なところもあった。かたく手を握られると、西洋人はなぜか急にどぎまぎした。彼が私の前を通ったとき、美しい顔には恟えたような困惑の色が浮かんでいた。彼は弁解するように口の中で呟きながら、足早にそこを去って行った。

 将軍は私がじっと見つめているのに気がついて、はじめてちらと横目で私の方を見たが、そのうち色の変った歯並をあらわにしてにやりと笑った、皺の多い微笑はほとんど醜かった。そうして、その中に真率、狂信、奸譎、決意、そんなものの混った複雑な感じがあった。

 一読してA将軍が荒木貞夫陸軍大将であるとわかる。荒木は一九三一(昭和六)年、犬養内閣の陸相に就任、観念的・精神主義的な革新論と反ソ反共論を説いて人気があった。皇道派の首領として勢威をふるった。一九三六(昭和十一)年、二・二六事件で反乱軍に同情的態度をとり、予備役に編入されたが、竹山は執筆の昭和十二年の時点で三年前の荒木を振返り、その肖像(ポルトレ)を描いたのである。三十歳前後の竹山の観察だが、鋭く大胆な人間把握である。「現在は外地の総督であるM大将」が南次郎将軍であることも一読してそれとわかるが、二・二六事件後、予備役に編入された。陸軍大将ともあろう人が肥満して「一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた」と外面描写されたら、それがありのままの姿であろうとも、こう描かれては軍人の体面にかかわるだろう。まして「どこか威力と狡智がでたらめに溢れでている」という内面描写にいたっては「でたらめ」の語が効き過ぎている。しかもこの文章は昭和十一年、代々木原の横を歩いていた竹山に誰かが小声で「あのバラックの中に・・・入れられているのですぜ」と囁く場面から始まる。代々木原とはいまNHKがある辺りの原っぱで当時は軍の練兵場として使用されており、代々木八幡から原宿に通じる道はなく、一般人は入れもせず通り抜けできなかった。竹山は代々木大山の家から渋谷へ歩いて行くときは、この代々木原の練兵場の裏手に沿って歩いたのだろう。その柵の向うの丘のバラックに二・二六事件の首謀者が収容され死刑を待っていたのである。

将軍達と「理性の詭計」

 竹山は荒木について「悲劇的な最後をしそうな人だなあ」と思った。「破壊的なエレメンタルな力を蔵した一つの観物だ」そんな気がして眺めていた。「この人は、満州で事変が起ってしかも世の中が自由主義で唯物的だった頃、一方の勢力の輿望を負って九州から上京して、陸軍大臣になった。そうして歴史の動きを変えるほどの権勢を振るった。しかしその後に、彼自身のまきおこしたーあるいは彼を動かしたー力のゆきすぎた行動のために失脚した」。個々の人間、個々の勢力は、かれらの特殊目的を果たそうと努めるが、実はかれらのあずかりしらざる超個人的な力の手段であり、道具であるにすぎぬ。これをヘーゲルと共に「理性の詭計」というが、竹山は皇道派の将軍のペリペティ(筋の逆転)を「理性の詭計」だと観察した。

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