2017年12月12日火曜日

20171212 『歴史に対しての考え』・『歯科材料について』の記事を作成する際の相違について

思いのほか昨日投稿分記事もまた多くの方々(60)に読んで頂けました。

記事を作成する際の所用時間について考えてみますと歯科材料に関する記事とは複数の書籍(教科書など)を参照しながら作成することが多いためか、ある程度の時間を要すると云えます。

一方、昨日投稿分のような歴史などに対しての考えを述べる記事に関しては、時折書籍を参考とすることもあるものの、その多くは自身の記憶にある歴史の情報を参照元としていますので、さきの歯科材料に関する記事に比べますと概ね短時間にて作成される傾向があります。

こうしたそれぞれ記事の所用作成時間の相違の傾向とは、これまで自身がその学問分野に費やした経験・時間の程度がそのまま反映したものではないかと思われます。

また、そのように考えますと、やはり私は文系側の人間であると改めて認識するのですが、それでも、考えようによれば、双方分野の文章を、ブログ記事としてであれ、ある程度の学問的基盤を背景としつつ作成可能であることは、全く無価値というわけでもないやうにも思われます(笑)。

あるいは、さらに自己を恃みにしますと、その先にこれら双方分野の言語が混淆そして調和した文章、文体といったものがあるのではないかとも思われるのです・・(笑)。

無論、そうした文章、文体がこれまで自身によって既に創造されたとは考えませんが、あくまでも自身の理想とする文章、文体とは、そういったものであると云えます。

くわえて、当然であるのかもしれませんが、そうした体得された文章、文体とは(おそらく読み手側からしても)自然なものであり、その意味において歯科材料に多くの記事とは、一種の不自然さ、ぎこちなさといったものが少なからず感ぜられ、歴史などに対しての考えを述べる際の文章に比べ、何と云いますか『角が多い』と感じられるのではないでしょうか?

また、こうした読み手側としての感覚から、おそらく書かれた文章の内容、主題が書き手により咀嚼、消化され当人のものとなっているかが判断されるのかもしれません。

さらにこうしたことは文語のみならず、口語においても同様のことが云えるのではないかと思われます【口語の場合はまた他の要素があるかもしれませんが。】

ともあれ、ブログ記事の作成をある程度継続していて時折思うことの一つに、さきに述べた感覚がいくらか向上、洗練されつつあるのではないかということであり、これは単なる思い込みともなり易い傾向があるため、警戒が必要ではありますが、それでも全体的には間違いではないと思われます。

そして、よくよく考えてみますと、我々が幼い頃よりさまざまな勉強をする一つの大きな意味とは、こういったところにあるのではないかとも思われてくるのですが、さて如何でしょうか?


ともあれ、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。



















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