2017年11月2日木曜日

20171101 縄文時代の土器文化から、その先の時代の流れについて

縄文時代の名称由来となったものは、同時代の土器文様からであるが、この時代とは、それ以降の弥生時代~現代に至るまでの年数の数倍の期間を持ち、当然ながら、その草創期(紀元前14000~13000年頃)と晩期(紀元前600~500頃)の文化の間には著しい差異があると云える。

この時代名称の由来となった縄文式土器についてであるが、概して古いものであればあるほど粗い胎土によって厚ぼったく作られ、また器の形状は浅く、そしてその焼成温度は充分に高温でなく、煤けて黒く、全体的に焼成不十分といった印象を受ける。

そして、時代が下るに伴い、器の形状が深くなり、厚さも薄手となり、器辺縁に立体性のある繁縟的な装飾を施す造形技術に対し、ある種の深い精神性(知性)をも看取されるまでに至る。

こうして縄文土器とは、その段階における最高の技術水準まで到達した。

とはいえ、それらが器として用いられた時代とは、狩猟・漁撈に「より」大きな比重を置いていた・基軸としていた社会であり、そうしたことは他の同時代の他の出土物によっても理解される。

また、この繁縟的な装飾が施された縄文式土器が出土するのは主に東日本、特に関東甲信越地域を中心としており、その技術水準が最高潮に達したともいえる火焔式土器が登場した縄文時代中~後期(紀元前4000~3000年頃)における西日本地域では、主に芋栽培といった食用植物の栽培を伴う民俗文化が徐々に根付き、そしてそれが列島各地に広く伝播・定着し、さらに後の時代に齎される新たな陸稲栽培を伴う民俗文化の混淆を可能ならしめたと云える。

しかしながら、食用植物の栽培を伴う民俗文化とは、単元的な起源経路を持つものではなく、おそらく複数の流れがあったものと考えられるが、同時にそれらはある程度までは限定可能であり、それらの主たる最初の受容地域とは、当然であるとは云え、ユーラシア大陸東端(中国、朝鮮半島)に最も近い九州島であったものと考える。

そして、この図式とは、さらに後に列島に齎され、以降の我が国生活文化を一変させる働きを持った水稲耕作を含むものにおいても概ね同様であり、その主となる舞台もまた九州島北部であった。

とはいえ、水稲耕作とは、さきにも述べたように、その起源とは中国南部の長江(揚子江)中下流域にあるとされ、その意味から、どちらかというと南方的要素が強い文化ではあるのだが、我が国にそれが伝来されるに際し、主に朝鮮半島南部を介し九州島北部へといった経路を通ったものと考えられる。

おそらく東シナ海を渡り直接中国南部から九州島中南部へ齎されたものも単発的には複数存在したのであろうが、それが在来社会と混淆し、変化を齎し、新たな生活文化を形成するという段階にまでは至らなかったものと考えられる。

そして、こうした流れとは、水稲耕作とほぼ同時代に我が国に齎され、それは弥生時代に盛行する各種青銅製祭器の出土分布を見ることによって概括的な理解が得られるのではないかと考える。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

昨今、新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』












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