pp.48-52より抜粋
ISBN-13 : 978-4006003913
著者は現在のところ。19世紀初めからの欧米キリスト教列強の世界進出は、一つの世界的システムを形成しながら遂行されたととらえており、それを「不平等条約世界体制」と呼ぶことにしている。
この世界体制はフランス革命、ナポレオン戦争、イギリスを原動力とする産業革命の複雑な絡み合いの中から成立し、資本主義的大量生産商品の販路を全世界に求め拡大する資本(ただし金融資本は未成立の段階)の欲求の中から成立していった。進出する欧米キリスト教世界では、対等・平等な主権国家間の国際関係がつくられていたとはいえ、ロシアのツァーリ専制国家にしろ、プロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国にしろ、今日我々が国民国家という名称で安易に、一括してイメージするには相当異質な諸国家も含みこんだ複雑な国際関係がそこには存在していたのである。
この欧米キリスト教列強が非キリスト教世界に外交と軍事を武器に進出し、商品の販売と資本の投資、現地生産物の安価購入を可能にするためには、非キリスト教世界に適用されるべき国際的な法体制がつくりあげられなければならなかった。
その第一が治外法権である。欧米主権国家が自国民支配の法的枠組みを、非キリスト教国家の内部にそのままそっくり持ち込むことであり、持ち込まれた場、すなわち居留地においては非キリスト教国家の国家主権が否定される。当然、領事裁判権が行使されるとともに、この居留地を根拠地として、外国人商人の内地自由旅行権と内地での商業活動の自由、キリスト教内地布教の権利等々が相手国にさらに次々と要求されていくのである。
第二が協定低率関税である。主権国家においては関税を設け、その輸出入税額を決定することは、国家主権行為の最も重要な構成要素でありつづけた。しかし非キリスト教世界に対する商品市場の開放要求は、非常に多くの場合、軍事力か軍事力を背景とした外交交渉においてしか実現されえない。この際の通商条約締結時、関税率が双方の協議の中で決定され、特に敗戦の結果の通商条約においては低い関税率が押し付けられる。明白な国家主権の侵犯である。
第三が片務的最恵国条款の挿入である。治外法権と協定関税を骨子とする条約締結の際、欧米諸国がこの条款を挿入することにより、相手国にその後認める特権条款を、自国側のなんらの譲歩もなしに自動的に自国に均霑させる権利を獲得することとなる。この条款は、非キリスト教世界に適用させられる時、きわめて強力な威力を発揮するのである。
この不平等条約世界体制はキリスト教世界とイスラム世界の古くからの接触地オスマン帝国を起源としているカピチュレーション(capitulation)とよばれるものである。最盛期のオスマン帝国は17世紀にはウィーン攻略寸前の状況(1683年)をつくり出すほどの勢力を誇り、キリスト教地域であったバルカン地域をも帝国内に包み込み、帝国内のキリスト教徒を二等国民とし、正式の帝国臣民たるイスラム教徒と差別した支配体制をつくっていった。
他方、西洋との交易をおこなう必要から、帝国内に来航し、商業を営む諸国との間に、カピチュレーションとよばれる協定を締結していった。フランスとは早くも1535年に結んでおり、オランダとは1680年に締結している。本来的にオスマン帝国側からの特恵的条約であり、いつでも帝国側から停止し廃棄可能なものとされていた。
注意すべきことは、カピチュレーションの締結主体である。1675年にイギリスはこの条約を結ぶが、その主体はレヴァント会社という貿易会社なのである。同会社はインドでの東印度会社と同様、重商主義段階特有の特徴をもった独占会社であり、法的権限をイギリス王国から賦与され、オスマン帝国貿易に関する全権を保持し、紛争に備え各地・各港に領事を置き、貿易をおこなうすべての英国商船から税金を徴収する権限を有していた。
オスマン帝国がレヴァント会社と結んだカピチュレーションは、①英国人同士の争いと事件には帝国は介入しない、②英国人と他のキリスト教国民との争いと事件は帝国法廷が裁く、③英国人と帝国臣民との争いと事件は帝国法廷が裁く、と述べ、その第42条に、②③の場合、英国公使あるいは領事はその裁判の場に出席し、審理を聞きともに決定する、としていた。ただし、英文では”They shall hear and decide it together"となっている箇所は、トルコ語テキストでは単に「イスチマ」(「聞く」の意味)となっていたため、両者間の力関係に応じて裁判のあり方は大きく変化する。とりわけ英国人がイスラム教徒のトルコ人殺害ないし重傷を負わせたケースは微妙となった。オスマン帝国の勢力が衰えてくると、イギリス側は訴訟手続き・証拠法・判決の量刑等すべてにわたって英国法システムに従っておこなわれない場合には反対を強く主張するようになってくる。
イギリスにおいて産業革命が展開し、商業資本家が階級として成立する中で自由主義イデオロギーが確立していった。この思想は一方で自己認識として文明対未開、あるいは文明国対半開国(semi-civilized country)という他者・自者の対立関係軸を創り出すとともに、他方で自由貿易のための独占を廃止すべきだ、との主張を生み出していった。1825年、レヴァント会社は廃止され、オスマン帝国貿易の独占権が消滅し、同会社のカピチュレーションはイギリス王国はそのまま継承され、同時に同会社の領事システムは、イギリス外務省の在外官吏体系の中に編入されることとなった。
ところで、この領事システムは欧米列強の進出に不可欠なものであったことは留意してよいことである。不断に発生する貿易上の紛争を裁き、在留邦人をはじめとする自国民の保護に当たる領事・総領事とその体制が創られる過程でこそ、商品の大量で安定した販売が実現されていく、商品の安価さだけで単一の資本主義世界市場が形成されたわけでは決してないのである。
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