2016年5月20日金曜日

20160519 マトリックス(母材)としての文系的な教養・・

これまでにある程度自身のブログ記事の作成を継続してきて思うことは「自分が書き続けることの出来る記事の主題、題材とはある程度限定している。」ということです。


たとえば自身のかつての専攻分野であった歯科理工学に関する記事のみを主題、題材とすれば、おそらく現在まで記事更新の継続は出来なかったのではないかと思います。


しかし、そうであるからといって私が歯科理工学をキライ(になった)というわけではありません・・。


それはただ、さきのブログ記事にて示したように、インプットとアウトプットの均衡上、残念ながら歯科理工学分野においては、これまで継続した程度のアウトプットをするだけの「この分野におけるインプットがない。」ということになるのではないかと思います。


あるいは私にとっての歯科理工学とは、それを表出し易い環境に置かれることによって「のみ」これまでインプットしてきた内容が活性化、表出することが容易になるといった性質のものであるのかもしれません・・。


これは以前抜粋引用したエルンスト・ユンガーの記述とも、あるいは多少類似しているのかもしれませんが、どうお考えになりますでしょうか?


また、そうした視座にて考えてみますと、私にとって、これまでに様々な環境にて学び、研究した「ごった煮」的な文系学問分野の知識、情報あるいは(極めて個人的色彩が強い)体系とは、何かを理解、把握するためのマトリックス(母材)的なものであるのかもしれません・・。


そして、こうしたことはおそらく諸個人においても同様の傾向を持つのではないかとも思いますが如何でしょうか?


また、さらにこのことを敷衍しますと、これまた以前ブログ記事にて記した「理系的知識の礎としての文系的知識」あるいは「科学技術の基盤としての原初的観念」などといったことにも親和性を持つのではないかと?も考えさせられます・・。


そして、こうしたことをマクロレヴェルにて考えてみますと、現今理系学問分野の更なる興隆をはかる(私としては大変素晴らしいと思う)施策が為されるとしても、その土壌たる文系的なものが肥沃でない限り、それは強い意味での持続可能性あるいはより良い結実に至ることが困難となるのではないかと考えさせられます・・・。


また、こうした考えも「つまるところ」文系学問偏重主義者(笑)による屁理屈であろうと考えるのであれば、とりあえず、文系学問あるいは文系的な教養を重視する教育政策といったものを局地的、実験的に採用してみるというのも、それを検証してみる意味においては価値がないというわけではないと考えますが如何でしょうか・・? 

また、それに併せて、少なくとも昔の我が国には、そうした恐竜のような世界規模の研究者がいたことは決して忘れてはならない事実であると私は思います・・。


しかし、そこで思うことは、そうした「普及させることが極めて困難」であるとこれまた以前のブログ記事にて示した「文系学問あるいは文系的な教養」を「どのようにして教え、普及させるか?」ということです。


そして、究極的に、こうしたところから、良い悪いを抜きにして、地域、国毎の様々な傾向らしきものを看取することが出来るのかもしれません・・。


しかし一方において、そうした地域、国毎の傾向に対し「ある統一的な基準」に拠り評価、判断することもまた慎重に考えた方が良いのではないかとも考えさせられます・・。」

また、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様どうもありがとうございます。そして、今回の九州、熊本での大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその先の復興を祈念しております。

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