2016年1月13日水曜日

加藤周一著「日本文学史序説」下巻筑摩書房刊pp.511-514より抜粋20151231

「戦争体験は、またいうまでもなく、多くの人々にとっての戦場体験でもあった。その戦場体験を生涯にわたって文学的な仕事の基礎とし、その意味で徹底した一貫性を示したのは、大岡昇平(1909~88)である。30年代から太平洋戦争にかけて、スタンダールStendhal関係の文献の翻訳をしていた大岡は、35歳召集されてフィリピンへ送られ(ミンドロ島、1944)、そこで上陸したアメリカ軍の俘虜となり(1945)、レイテ島の収容所で日本の降伏を迎えた後、帰国してから「俘虜記」を書いた(1946執筆、1948発表)。
「俘虜記」は孤立した敗残の小部隊の一兵士として著者が熱帯の山中を、もはや戦闘のためではなく、みずからの生存のために、彷った経験から始めて、俘虜となって後の収容所での見聞を詳述する。山中の生活は、ほとんど確実な死を目前に控えたという意味でも、物理的な条件の過酷さという意味でも、極限の状況である。そこでは自然がかぎりなく美しくみえる。しかし実際に周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくようになると、突然「生還の可能性を信じ」(「大岡昇平全集」第一巻、197ページ)、一度生還の可能性を信じて「愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのはつまらない」と考えると、主人公の関心はもはや自然の美しさではなく、危機脱出の方法へ向う。いかに生き残るべきかという工夫にとっての自然は、与えられた条件の一つにすぎないからである。追いつめられた主人公の心理と行動を、冷静に反省的に、簡潔で正確な文体で描く「俘虜記」冒頭の部分は、太平洋戦争の戦場の経験が生み出した日本語散文のなかで、もっとも傑れたものの一つにちがいない。
後半の収容所の光景の叙述は、所属集団の組織が崩れ去ったときの日本人の行動の証言であり、彼等においていかなる価値が内在化されていたかということの臨床的な記録でもある。職業的軍人でさえも、彼らの軍隊の秩序を信じていたので、その軍隊が解体した後に彼ら個人のなかに生き続けるような何らかの信念をもっていたのでもなかった。東京裁判について丸山の行った観察と、レイテ収容所において大岡の行った観察とは、幸か不幸か、見事に一致するのである。大岡は「俘虜記」から出発して、そのなかにも出て来る人間の肉を食う話を、小説「野火」(1951)で再び取りあげられている。「俘虜記」の主人公は、殺せば殺せたアメリカ兵を殺さなかったが、「野火」の主人公は、フィリピン人の女を射殺する。「野火」は「俘虜記」の実行されなかった選択肢を、人間の内部の問題として再検討した作品である、ともいえるだろう。その後に来るのが、「レイテ戦記」(1967~69)である。そこでは、著者自身が「あとがき」(単行本、1971刊)でいうとおり、「俘虜記」や「野火」が一兵士の立場から見たフィリピン戦場を、日米双方の資料を用いて、いわば鳥瞰的に描く。日本軍の戦没者がおよそ九万に及んだレイテ島は、フィリピンでの日米両軍の決戦場であった。そこでの「決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書き尽くしたのが「レイテ戦記」である。(「あとがき」)。著者がその感慨を抑えて両軍の動きを叙する簡潔な文章の迫力は、ほとんどヴォルテールの戦記「シャルル十二世」を思わせる。しかもその叙述から次第に浮かび上がって来るのは、人間が全力を挙げて人間自身を破壊してゆく「戦争」という狂気そのものであり、その狂気にまきこまれて最大の犠牲を強いられる第三者=現地のフィリピン人の運命である。戦後二十年以上経って、大岡昇平は、「レイテ戦記」という「平家物語」以来の戦争文学の傑作を作った。戦場における軍隊ではなく、兵営における軍隊の実情を兵士の立場から書いたのは、野間宏(1915~91)である。野間は、三年間の兵営生活を送り(1941~44)、その間に中国とフィリピンでの戦闘、野戦病院、憲兵隊による検挙、軍法会議、陸軍刑務所を体験し、「私の内につみかさなった戦争と軍隊に対する怒り」(「私の戦争文学」「その一」、1956「野間宏全集」第四巻、1970、所収)から小説「真空地帯」(1952)を書いた。「真空地帯」は、小説の叙述に迫真性を与えるものが、激しい怒りでもあり得ることを、見事に示している。原爆の悲惨を、いわば外面から描きだそうとしたのが、井伏鱒二の「黒い雨」(1965~66)であるとすれば、被爆の体験を一人の女主人公の魂の死として内面化したのは、福永武彦(1918~79)の「死の島」(1966~71)である。後者は、多層的な時間の進行と主人公の内的独白、小説化志望の男の経験とその小説の断片を組み合わせ、戦後の長編小説の技巧的な新工夫としても、典型的である。
「日本文学史序説」下巻
加藤周一
ISBN-10: 4480084886
ISBN-13: 978-4480084880





0 件のコメント:

コメントを投稿