2016年1月13日水曜日

中井久夫著「徴候・記憶・外傷」みすず書房刊pp.180-184より抜粋20160113

科学を定義し、その限界を画定しようとする動きは、古くからあった。しかし特に科学哲学としては、前世紀初頭のオーストリアの物理学者マッハに始まり、これを始祖とする1920年代のウィーン学団の形成とともに具体的な形をとる。
1930年代に入って、頭目シュリックの殺害、ついでナチスの台頭とともに、学団員の多くはアメリカに亡命してシカゴ大学に移り、ウィーン=シカゴ学団を形成した。また英国には、伝統的な実証主義の上に立って論理実証主義(ポパーエイヤー)が哲学の基調となった。
彼らの議論の細部には立入らないが、科学の定義、その限界の画定は、最初思ったほど容易なものでないことが次第に明らかとなっていった。定義を狭く取ると明らかに科学として通用しているものが除外され、広く取ると、その定義では占星術も入るのではないか、という揶揄が巻き起こったりする。
19世紀と20世紀の、この領域におけるもっとも大きな相違は、19世紀では数学を科学に算えていたのに対して、20世紀になって数学は科学ではないと確定したことである。
19世紀においては、遠くを見通す力のあった偉大なアンリ・ポアンカレでさえ、帰納的数学というものを考えていた。
そうではないという考えはバートランド・ラッセルに負うところが大きい。
たしかに2×2を何度やってみても、その答え4がいっそう確実になるわけではない。しかし科学では20回の観察(実験)結果がすべてポジティヴであっても、それは21回目の観察(実験)結果もプジティヴであることを全然保証せず、期待が裏切られることがある。
観察(実験)は有限回しかできないから、繰り返しによって結果の確実性が増すけれどもその増し方は減少する(nの法則)。そして、科学は数学が持っているような絶対的確実性には決して到達しえない。

この発見が驚くほど遅れたのは、科学は、数学的表現ができる領域で長足の進歩を遂げたからであり、実際、物理学をモデルとして科学は、数式化、数量化を目指す。数式化、数量化された結果は美しく、そうでない結果はダサい。科学を導く隠れた糸に美学がある。かつてハイゼンベルグが宇宙方程式(すべての素粒子を記述する微分方程式を生みだす一つの微分方程式というふうに聞いている)を提出した時、その式は美しさが欠けていたために、こんなものが宇宙の基本的方程式であるとは考えられないと、物理学者たちが言っていたのを記憶する。実際、今日、この野心的な方程式を語る人はいない。

もう一つ、科学的数量化が意味を持つためには質が同一でなければならない。

質の異なるものを一つの尺度に収めることは原則的には科学でない。
だから、英語と数学と理科と国語との点数を合算する入試成績は便宜的なもので、科学でない。同じ理由で知能指数も質の異なるものを加え合わせている点で科学といえるかどうか、ぎりぎりのところである。
もっとも、こうなると、多くの心理テストも怪しくなる。質的に異なるものの合算だからである。
「人格」概念もそういうものである。
その科学性に疑わしさが残るゆえんである。性格(人格)分類がほとんどすべて4-8種であるのは7プラスマイナス2以上のチャンクスはこなせないというミラーの法則による可能性がある。つまり「脳の都合」である。精神医学分類にもそういうことがありはしないか。
レオンハルトの分類病36種は、アストルップによる通時的安定性の証明にもかかわらず使いこなせる人がごく少数であった。
 私は、科学は一つのネットワークを成していて、ある命題が科学に属するかどうかということは、このネットワークに属するかどうかで決まると考えている。それは、ポール・ディージングという科学哲学者の考えから出発している。

彼は、科学の方法論を四つにわけて、どれも他に優先するものではないとした。私は、彼の四つの方法が相互にからみあっているということを付け加える。その四つの方法論とは①モデルづくり、②実験、③統計、④事例研究である。
②の実験は科学の王であるという固定観念があって、クロード・ベルナールの「実験医学序説」の影響が大きいわが国では特にそうであるが、実験とは条件をできるだけ簡略化して、数え上げられる範囲の僅かな変数だけで規定される場がつくれる時にだけ可能である。実験の場はそれだけ「現実離れ」している。ウィスター・ラットについて正しいことは他のラットにも妥当するとは限らない。

まして人間についてをや。それは「示唆」するだけである。

場合によっては、この簡略化が大きな偏りのもととなる。

したがって、わが国のある大学では動物小屋の新築によって、実験動物の発症が変化(格段に減少)した時、この環境の変化は因子を特定付けられず、まして数量化できないとして、重要な結果であるのに、科学的に解明しようとさえ試みられなかったときく。

このような「コントロールしえない要因による変動」の例は他にも少なくない。

③の統計的方法は、ランダム・サンプリングや二重盲検法やマッチングを使って対象を(近似的に)等質化したと仮定するところに成り立っている。

その極限は、デンマークのストレームグレンが統合失調症の養子双生児法で行ったような全員調査であるが(国民背番号制がこれを可能にしたという。ちょっと怖い話である。)ところがこうなると、④の事例研究に近づく。
①のモデルづくりには事実にもとづき個別性が強い意識的な実験モデルから始って、しばしば美学(あるいはそのくつがえし)に導かれる対極的モデル(たとえば「セントラル・ドグマ」から、個人の意識を超えたパラダイム(トーマス・クーンの意味の)まであるが、これらのモデルの導きなくして科学の門を叩いた者は遠くまで歩めない。いや、多くの科学者はモデルの魅力にひかれて科学者となる。
このように、これらの方法は相互浸透的で、全体として一つのネットワークを作っている。たとえばモデルはしばしばある事例、統計、実験結果からヒントを得る。逆も真である。
ここで④の事例研究が確固たる方法論の一つに挙げられていることに首をひねる向きもあるだろう。これは「一つだけしか存在しないものに対する科学はありうるか」という問題に置き換えればわかりやすかろう。火星の研究者、エヴェレストの研究者、宇宙の研究者はみなこの命題に賛成するだろう。精神医学や臨床心理学の一つの事例もエヴェレストに比すべき複雑さとむつかしさを持っていはしないか。
事例研究から出発する方法論にも、実験や統計もあるかもしれないが(たとえば外惑星、ヒマラヤ山脈、さらには惑星、隆起山脈に共通な性質)、ここでは比較と重ね合わせという、質のレベルの方法も重要である。
実際には地理学の基礎的方法はこちらである。
そこからモデルづくりに進む。地質学でもそうであろう。この「事例の組み合わせ」は、臨床心理学における方法にも通じるものがある。
最後に科学とは、その方法を、徹底的に対象化したモノに対して適用するものである。
実際、科学と、これから挙げるものを区別する一つは、徹底的対象化ができるか否かである。も
っとも、科学も観測主体でなく対象から引き出されて生まれ発展してきたというアフォーダンス的な考え方も可能である。
すなわち、ふつうそう考えられているように科学とは徹底的能動者である観測主体と徹底的受動者である観測対象との関係であるとみることもできるが、これは後から整理してつくられた、いわば後知恵であり、反対に観測主体は観測対象に導かれ「教えられて」はじめて何ごとかなしうると考えることもできる。
実際の科学体験はむしろ後者ではないだろうか。
私はアフォーダンスという理論にくわしくないが、科学でさえも、対象が差し出す(アフォードする)情報によって導かれ、作られるものであるという考えがありうると思う。ちなみにアフォーダンスという考え方は、失明者が自己世界を創りだしてゆく過程をよく理解させてくれる。(統合失調症の作業療法の理解にも使われている)。精神医学、臨床心理学の科学的部分はなおさら対象が差し出すものに依拠して成り立っているのではないだろうか。
私が科学について語ったのは、まず私の科学理解を述べなければ「精神療法は化学か」と言っても、読者に何も実質的なことをコミュニケートしたことにならないからである(もっとも、科学について全く別の考えを持っておられても以下の議論は意味がないわけではないと私は思う)
この論文で私がいいたいことは、精神療法は科学でないが、それは精神医学が科学でなく、いや医学(近代医学)が科学でないのと同等の意味においてであるということである。

 ISBN-10: 462207074X
 ISBN-13: 978-4622070740




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