さて、小説などを読んでいますと、時折大分古い記憶が甦ってくることがあります。
直近のそうした出来事とは、ブログ記事にも書いた、つい先日読了に至った武田泰淳著『貴族の階段』内に以下のような描写があったことに起因します。
【pp.216-217より抜粋引用】
『雪の多い、寒い冬がやって来た。
大みそかにも、朝から雪がちらついた。
中庭の浅い池には厚い氷がはって、盛り上がっていた。白い亀裂を走らせた氷板の下で、鯉たちは苦しげに見えた。
魚の空気孔をつくるため、氷塊をとりのけても、そのあとにすぐ薄氷がはりつめた。
家の者は、煤はらいで忙しい、朱塗り、黒塗りの椀を重ねて、蔵からはこび出す。
金蒔絵の漆器は、雪空のうす明かりの下では、とくに美しい。
「義人さまは、今日、おかえりになりますでしょうか」
冷えきった長廊下で、すれちがいざまに、松がそうたずねた。
「さあ、どうでしょう」
西の丸の家では、毎年大みそかには「若殿様の胴あげ」のしきたりがあった。公家華族の遺風ではなくて、母が九州小藩から持ちこんだならわしである。
大広間でもみにもんだあげく、長い廊下を歓声でどよもして、男一匹かつぎ歩く。下ばたらきから奥女中まで、一年に一回、うちの女衆が勢いをつける日であった。鉢まきも勇ましい、大山のおかみさんが、蕃声をはりあげる。木刀で、気合をかける。たすきがけの松たちが、腕まくりして力足をふむ。眦をつりあげ、咬みつきそうな口つきで、武骨になるほどよろしいとされる。
集団になると、いつもは屈従している女たちの殺気も、そうとうなもので、すさまじい楽しみになる。
集団になると、いつもは屈従している女たちの殺気も、そうとうなもので、すさまじい楽しみになる。
兄が帰宅してくれないと、せっかくの楽しみを、すっぽかされることになるのだ。「狼藉者ですぞ、おであい下さい」
昔ながらの行灯やぼんぼり、高張提灯に火をともす。天井も柱も、壁も板の間も、異様な照明でゆらめいて、人の影は乱入した敵の黒装束のように、思いもかけぬ大きさにひろがる。定めの刻限に兄が姿を見せると、待ちかまえていた女たちは、生きかえったようによろこぶ。』
この記述を読み思い起こされたのは、大分前(20年以上)に読んだ司馬遼太郎著の江藤新平を主人公とした『歳月』という小説であり、おそらく、この著作のなかに、当時の肥前・鍋島藩での風習、ならわしを描いた箇所があり、それがさきの『貴族の階段』からの抜粋引用部と酷似していると思われるのです。
残念ながらこの著作『歳月』は現在手元になく、また本日は書店にて確かめる時間もありませんでしたので、今のところ(確たる)証拠はありませんが、それでも、まあ『当たらずとも遠からじ』ではなかろうかと思われます・・(笑)。
また、そうしますと、さきの抜粋引用部内の『九州小藩』とは、肥前・鍋島あるいは肥前周辺の何処かの藩での風習、ならわしを念頭に置き書かれているのではないかと考えられるのです。
そして、さらにまた、このことを考えてみますと、こうした風習、ならわしのさらに基層にある生活文化とは、あるいは肥前を含む九州北西部のみならず、南九州および南西諸島においても存在し、その一つの顕現の仕方が以前ブログ記事にて抜粋引用した往時の戦の先頭に立つ巫女ではなかろうか?とも考えさせられます・・。
加えて『肥前国風土記』内の値嘉島の記述にて、その住人(白水郎)【漁労民の一つ】容姿が南九州の隼人に似ていることが報告されておりますので、このことも何らかの関連性を示しているのではないかとも思われます・・。
最後にこ、うした生活文化、風習、しきたりもしくはその痕跡らしきものは、東日本、首都圏では見受けることが出来ず、また現在の表層的には類似したように見える現象からはどうもエピゴーネンといったコトバを否応なく想起させられます・・(苦笑)。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。
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