2024年10月22日火曜日

20241022 岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」 pp.414‐416より抜粋

岩波書店刊 近藤義郎著 「前方後円墳の時代」
pp.414‐416より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003812824
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003812822

 横穴式石室は、すでにふれたように遺骸を石室の側面から搬入する墓室で、単に遺骸を納めた棺を囲う竪穴式石室と違い、石室自身がひろい空間をもち、そこに何人かの追葬を可能としたものである。もっとも朝鮮から日本に伝わった当初は、たとえば福岡県老司古墳にみるように、一墳に小形の数石室がつくられ、石室自体も小さく、一室一遺体、せいぜい二、三遺体の埋葬という状況にあった。この種の竪穴系横口式石室とよばれるものは、五世紀に北部九州を中心にひろがったが、なお畿内や瀬戸内沿岸においては普及をみず、一部の中・小墳の墓室として採用されたにすぎなかった。朝鮮との交流が深かったと考えられる北部九州にまず定着し、ついで、瀬戸内、畿内へとひろがっていったものである。

 この横穴式石室が玄室と羨道と前庭部とを整え、普遍的な墓室型式として全国各地に採用されてくるのは、六世紀中葉以降である。その直前には畿内および西日本における一部の首長層の間にひろがったが、六世紀中葉以降は、一部の地域や集団を除いて東北南部から九州南部にまで、それ以前の竪穴式石槨・粘土槨・各種石棺・箱式石棺・木棺直葬など多様な埋葬施設のほとんどにとってかわるかのように普及していった。中には横穴式石室の影響によって同じ思想をもって営まれた横穴という型式をとる地域や集団も、出雲・豊前京都郡・肥後・能登・東海・東国など各地にあったし、南九州では地下式横穴という型式をとった。

 横穴式石室の羨道部は埋葬のたびに閉塞がなされるのが普通であった。その玄室には、組み合わせまたは釘どめの木棺、組み合わせ式箱式石棺、また吉備東部・北部などでは陶棺などに納められた遺骸が安置されるが、首長墳とみなされる大形石室の場合には、しばしば刳抜造りの家形石棺が置かれる。羨道部は玄室と現世とをつなぐ通路の役を果たすものであったが、やや新しい段階となると、そこへ追葬がおこなわれる場合もある。羨道部のちにはその入り口をもって閉塞する行為の過程で祭祀がおこなわれたらしく、石塊にまいって土器類が発見されることがある。前庭部もまた遺骸搬入の一種の通路でもあるが、そこに大甕が掘り据えられていたり、破砕した土器類が発見されることなどから、祭祀がおこなわれたことが考えられる。これらのことからみて、この石室の普及に伴って、墳頂を中心とする祭祀から羨道前面ないし前庭部を中心とする祭祀への移行が進みつつあったことは確実である。このことは墳丘の高さや大きさとの関係を薄め、やがて墳丘の強大性の意味を漸次失わせることになる。

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