そして、これもまた先日の投稿記事にて述べました「同じ視覚による認識であっても文字による文章を目で読み認識する」ものと「マンガなどの画像を見て感覚的に認識する」ものとでは性質が異なるのではないか?とも何か関連があるのかもしれません。また、こうしたことを書いていますと、これまでに何度か当ブログにて述べました、弥生時代の青銅製祭器である銅鐸の我が国での伝播、およびその発達の様相での特徴が想起されてきます・・。
朝鮮半島・中国東北部から北部九州に齎されてからごく初期の銅鐸は、概して小型で装飾性に乏しく、これは本来の用途である「鐸」から逸脱せずに「鳴らす」機能を重視していたと推察されることから、これら初期的な特徴を持つ銅鐸は「聞く銅鐸」として分類されます。
これらの銅鐸は当時の祭祀でどのように用いられていたのか分かりませんが、ああしたベル型の金属器は、後世の寺の釣鐘ほどではないでしょうが、叩くと特有の金属音がして、それが金属器自体が乏しかった当時の人々としては、神秘的に感じられたことは感覚的にも納得出来ます。
そしてまた、この初期型・比較的小型の「聞く銅鐸」は、主に西日本にて比較的早い段階から集落として栄えた地域での出土が多く、その典型は奈良や香川であると云えます。これを異言しますと、弥生時代の西日本にて、相対的に早い段階から水稲耕作を生産手段として栄えた地域にて多く出土するのが前出の比較的小型の「聞く銅鐸」であると云うことになります。くわえて、その出土数は当時の耕地面積から推測される社会規模と比べて相対的に少なく、おそらくは社会規模が大きくなる以前から、代々、それらの銅鐸が音を鳴らす祭器として認識されていたのだと推察されます。
やがて、それらの社会(ムラ)がさらに発展して大規模になってきますと、そこから比較的近い水稲耕作に適した他の土地に移住して、新たなムラが営まれるようにになりますが、こうしていわば分村して成立した社会においても銅鐸を用いた祭祀は行われ、あるいは、そうした新たなムラに、もとのムラから祭器として新たな銅鐸が授けられるような仕組みがあったのではないかとも思われます。
ともあれ、こうして分村により成立した新たなムラにおける銅鐸祭祀は、当初からの特徴的な金属音よりも、銅鐸自体の見た目の壮麗さなどが重視されるようになる傾向があると云え、そこから、大型・高装飾化した比較的後期からの銅鐸は、さきの「聞く銅鐸」に対して「見る銅鐸」として分類されます。
もちろん、この銅鐸の大型・高装飾化の背景には、鋳造技術の進歩により、作成可能になったのですが、しかし、それと同時に、やはり「聞く」から「見る」を重視する感覚の変化といったものが少なからず関与しているのではないかとも思われるのです。そして、当時の我が国では文字・漢字は(殆ど)入ってきていませんので、さきに述べました「文章と画像の視覚認識の違い」と同じではありませんが、この銅鐸に関する、いわば「耳」から「眼」への感覚の変化の背景には、一体何があり、そしてまた、そうした現象は、その後の歴史の推移においても看取出来るのであろうかと考えてみますと、それはそれでまた興味深いものがあるように思われるのですが、さて、これも実際のところはどうなのでしょうか?
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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