2015年8月30日日曜日

金関丈夫著 「長屋大学」 法政大学出版局刊 pp.61-62より抜粋

たねいれぬパン

 イスラエル人の神事には、特にたねいれぬパンが用いられたことが、聖書にしばしば記されている。

たねいれぬパンの使用には、後世いろいろの解釈が付せられ、たね即ち酵母は、我々の心中に一抹の悪心がきざしたならば、それはパンの中に一つまみの酵母があって、パンの全体をふくらませるごとく、我々の全心を悪でふくまらませるという道徳的比喩から、神はこれを忌むのである。というような解釈が、いまでは一般的であるらしい。


 しかし、神事に際して、比較的後世に発生した日常の風習が避けられ、特にその種族の古風が採用されて、ついには神事にのみ、種族の古俗が遺るということは世界の一般的現象であるから、この、たねいれぬパンのごときも、その眼で見て簡単に解釈すべきであると思う。

イスラエル人は、のちに酵母の使用法を知り、それが日常の風習に採り入れられたのちにも、神事のさいに限っては、古俗であるたねいれぬパンを用いたのであろう。


 こういうことは他にも沢山の例がある。「出エジプト記」四章二十五節には、モーゼの妻が、「利き石をもってその男子の陽の皮を割り」と記されている。モーゼの時代にまだ金属器が使用されていなかったのではなく、また石ということに何か特別の意味があったのでもなく、これも、こうした儀式には日常の器具が忌まれて、特に石器時代の古俗がとり遺されていたと、見るべきであろう。


 「創世記」には、十二箇所「髀の下に手を入れて誓ふ」ということが書かれている。これなども、なぜ髀の下に手を入れるかということについて、そうした風習が既に不思議なことになり終った後の時代には、いろいろな解釈が付せられているようだが、それは当時の単なる風習であったろうと思う。

ギリシャの古代にも、こうした風習が長者に対する挨拶法として遺っていたことは、モンテーニュの随筆によって伝えられている。哲学者のパシクレスという人は、そこを、突然相手の股の間に手を入れる癖があったので、人を驚かせたというようなことも伝えられている。


 聖書を読むときには、後世の神学者や説教者の解釈を離れて、素直な気持ちで読む方がいいようである。

 中国人は古典、たとえば「詩経」などに対して、こうした素直な態度を失ってしまった結果、そのあらゆる素朴な章句に、教訓的或は諷刺的な意味を付していたが、グラネなどによって、近頃ではようやくその本然な素朴さを味わう道がひらかれたのである、その国の学問の伝統を身につけない外国人が、しばしばこうした革新的進歩をもたらすように、西洋神学の伝統にあずからない、われわれ日本人の素直な態度が、聖書の理解を変革させ、かえって西洋神学に寄与することが出来ないとは限らないと思う。

長屋大学

金関丈夫

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