2017年3月18日土曜日

20170317 言語による現象の精確な描写から普遍的認識へ・・☆☆☆

ここ数日間の首都圏は日中と日が暮れてからの温度差が大きいように感じます。

また、季節が春へと移行するこの時季とは、そのようなものであるのかもしれません・・。

さて、昨日投稿の記事も投稿翌日にしては多くの閲覧者を得ることが出来ましたが、現在この(昨日投稿)記事を読み返してみますと、恥ずかしく思うところもあります・・(苦笑)。

そして、そこから『このようなことを書いて果たして意味があるのだろうか・・?』と考えてしまうのですが、そうしますと、一連の作成記事の大半(あるいは全て)の意味を疑問視せねばならなくなりますので、出来るだけ、そうした『思い』に(継続的に)捉われず、書き続けることが重要ではないかと考えます。

そして、多くのこうした散文的なものとは、書き続けることにより、何か新しい着想に至ることが多いのではないでしょうか?

また、こうした文章に対する姿勢とは、感覚的ではありますが理系、文系学問間において相違があるのではないかと思われます。

当たり前のハナシではありますが理系学問とは、その内容の普遍性、再現可能性がその根幹に存在します。【存在しなければなりません。】

そのことから、その内容とは、誰が、何回行った場合においても、同様の傾向、結果を得られる性質のものでなければなりません。

そして、上記の前提思想に基づき作成される文章とは、文章そのものが重要であるのではなく、そこに書かれている方法、結果、考察が『現実に生じた現象を精確に描写していること』が重要であるといえます。

また、それを異言すると、その文章を読んだ他者一般が、そこで得られた認識に従い、同様の方法を用い、同様の結果が得られ、書かれた考察が妥当なものであるという認識に至ることが重要であるともいえます。

つまり、この場合、文章を構成する個々言語の『役割および目的』とは、実際に存在する『何か』の様相【その大きさ、様子はどうであれ】に対しての『普遍的認識に至るため精確に描写すること』であるといえます。

また、こうした言語の使用法とは、おそらく言語本来の原初的な用途でもあり、極めて重要であるといえます。

さらにまた、一般的に、ある学問分野において、一定の知識を有していることが理解され得るのは、その学問分野における専門的な言語群を用いた発言、文章等により(分野における)普遍的認識を得ることが出来ることから為されることが多いのではないでしょうか?

そしてそれは、さらにある程度複雑な文脈を有する使用法により一層精確に理解され得るのではないかと思われます・・。

このことは特に理系学問分野において、その傾向が著しく、その点、文系学問分野においては、一つの言語に対する認識において、その主体、学派等の持つ思想的背景により意味合いが微妙に異なることが多く、さらに、それら言語を含んだ、ある程度複雑な文脈の使用により、一層その主体、学派の持つ思想的背景は明瞭化されるのですが、同時にそれは、理系的な意味での普遍的認識とは幾分異なるのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、であるからといって、どちらが良い、悪い、上、下というのではなく、ただ当記事冒頭にて述べたように絶えず双方が接触、交流し続ける経験を通じ、何か新しい着想、創造に至ることが肝要なのではないでしょうか・・?【果たしてこれは普遍的認識であるのでしょうか(笑)?】

また、今回の記事とは、そうしたことを題材として一つの着想が得ることが出来たものと思われます(笑)。

そして今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺において生じた地震によって被害を受けられた地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」