2024年2月3日土曜日

20240203 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 吉田敦彦著「日本神話の源流」pp.180‐185より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 吉田敦彦著「日本神話の源流」pp.180‐185より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061598201
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-406159820

 日本神話との特異な類似に、われわれが注目したもう一つのギリシャ神話は、オルペウスの冥府行きを主題とするものであった。ナルト叙事詩の中には、われわれが前にオルペウス型神話に与えた「死んだ妻を上界に戻すため、冥府を訪問した男の冒険を主題とする話」という定義と正確に合致する話は見られぬようである。しかしながら、オルペウス神話の影響がイラン系遊牧民のあいだにまで強くおよんでいた痕跡は、この叙事詩伝説中につぎのような形で、明らかにみて取れると思われるのである。

 ナルト叙事詩中には、英雄の冥府訪問を主題とする二篇の説話があり、その主人公はいずれもナルトのソスランである。一方の話では、ソスランは彼が遠征に出かけた留守のあいだに、ナルトたちによって冥府に投げこまれた母のサタナを救出するために死者の国に赴き、冥府の王バラステュルの許可を得て、母を上界に連れ帰ることに成功したとされている。もう一方の話では、彼はオルペウスやイザナギと同様、冥府に亡妻を訪問したとされているが、この時のソスランの冥府訪問の目的は、死んだ妻を生き返らせることではなく、太陽の娘と結婚するため、亡妻の助けを借りることであった。

 しかしながら、この話には、主人公が冥府で与えられた禁令を守らなかったために、不幸な目に遭ったという、オルペウスとイザナギの話に共通する、前述した禁忌の話根とよく似たモチーフが含まれている。

 ソスランは、冥府を出発する前に亡妻から、帰途になにを見ようとも、けっしてそれに手を触れぬようにと、注意された。彼は、最初のうちはこの注意を守って、まず道の上に黄金の山を、つぎに黄金のきつねの尻尾を見ても、それらに眼もくれず通り過ぎた。しかし最後に古ぼけた帽子を見つけると、「これまでどんな宝物にも手を触れずにきたのだから、こんなつまらぬ物の一つぐらい拾っても何ということもあるまい。こんな古帽子でも家に持ち帰って女たちにやれば、石臼を磨く雑巾の役ぐらいにはたつだろう」

 とつぶやき、拾い上げて帯のあいだに挟んだ。

 彼はそのまま道を急いだが、ナルトの村の近くまでくると、疲れて一休みすることにした。そして馬を木につなぎ、鞍を外してやると、彼は突然気まぐれを起こし、この愛馬に向かって、「お前の急所はどこか、すぐにいえ、いわぬと痛い目に遭わすぞ」

 といって問いただしはじめた。馬は最初はなかなか答えようとしなかったが、ソスランが怒って激しく打ったために、ついにしぶしぶ口を開き、「私を殺す唯一の方法は、蹄の裏側を下から上へ突き通すことです。それ以外のやり方では、わたしを殺すことは絶対にできません。ソスランよ、ではあなたの急所はいったいどこにあるのですか」といった。ソスランが、「わたしの身体はすべて鋼鉄だが、ただ膝の部分だけが普通の肉でできている。だからパルセグの車輪がひざに当たれば私は死ぬ。それ以外の方法ではわたしを殺すことは絶対にできない」と答えると、馬は、「神があなたの過失を許したまうように。あなたは、わたしとあなたを破滅させたのです。あなたがさっき拾われた帽子が、今どこにあるか探してごらんなさい。あれはゲテグの息子の、ずる賢いシュルドンだったのです」といった。

 ソスランはあわてて帯のあいだをあらためてみたが、いわれたとおり、古帽子はいつのまにかなくなっていた。こうして彼は、冥府で与えられた亡妻の注意を最後まで守らなかったために、変身して彼の帰りを待ち伏せていた。ずるいシュルドンに、自分と自分の馬の弱点を知られてしまう破目に陥ったのである。そしてこのことは、結局彼の死の原因となる。

 ここで問題にしているソスランの冥府訪問の話に関して、われわれの注意をひくもう一つの点は、主人公のソスランが、死者の国に亡妻を訪ねるというオルペウス型に近いモチーフを含むことの話の中でだけ、例外的に、ギリシャ神話のオルペウスを髣髴させるような、霊妙な魔力をもつ音楽の奏者として、再度にわたち描写されていることである。

 ソスランのこの冥府訪問の目的は、前述したように、太陽の娘と結婚するための助けを亡妻に求めることであった。

 彼はあるとき、一頭の不思議な鹿の跡を追っていくうちに、太陽の娘の住む城に行き着き、そこで自分がこの美女の婚約者として定められた人物であることが知らされた。しかしそれと同時に、彼は結婚の条件として、いくつかの難題を課された。そしてその一つの、冥府に生える樹の葉を獲得するという課題を果たすために彼は亡妻の助けを得ようとして、死者の国を訪問したとされている。

 ところで、この太陽の娘の住居に足を踏みいれたときに、ソスランはフェンデュルという二弦の楽器を奏で、妙なる楽の音を鳴り響かせた。するとこの音楽に誘われて、野の獣や空の鳥が、彼の周囲に集まって演奏に耳を傾け、城の壁まで踊り出し、遠くの山々もこだまを返して伴奏をつとめたと物語られている。

 また太陽の娘との結婚の条件として、彼に要求されたことの中には、百頭の鹿と、百頭の野生の山羊と、百頭のその他の野獣と、すべてで三百頭の獣を集めて引き渡しという課題が含まれていたが、これを果たすために、彼は冥府から帰還した後に、野獣の主のエフサティから笛を借り受け、これを吹き鳴らすと、その音楽につられて三百頭の獣が、たちまちのうちに集まったといわれる。

 冥府訪問を中間に挟むこの二つの場面でのソスランは、明らかに霊妙な音楽の力で、野獣や木石をも感動させたといわれる、ギリシャ神話のオルペウスと酷似している。絃楽器をかき鳴らして、鳥獣や山にまで反応を起こさせたという最初の場面におけるこの類似の度合いは、ことにいちじるしいといえよう。

 このように、ナルト叙事詩のソスラン伝説の中には、その原型であったステップ地域のイラン系遊牧民の古神話に流入していたと考えられる、ギリシャのオルペウス神話の影響の痕跡が、かなりの変容を蒙りながらも、種々の形で明瞭に保存されていると思われるのである。